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情報所有館 : 歯の博物館
西洋の版画には歯を抜くのにヤットコ(釘抜き)などを使っている絵が描かれている。1841年にJohn Tomes(イギリス)は抜歯鉗子を歯牙の解剖学的形態に適応するものであるべきことを提唱した。当博物館には、アメリカ製の移動歯科医の使っていた抜歯道具セットが展示してある。年代:1750~1850年
空気の圧力によりタ-ビンを回転させ、油霧と水噴霧を加えて切削するので回転数があがり、画期的な歯科用切削機械となった。切削器具はダイヤモンドの粉末をつけた切削用バーなどを用いて削るので、能率が著しく向上した。回転数は40万rpm程度。当館には開発当初の大型のもの(吉田製作所)のほか、小型化され、ユニットに外付けされたものも数個展示してある。年代:1957年
フランスのピエール・フォシャールは1746年に「歯科外科医」第2版で上下の総入れ歯を発表した。それは上下の入れ歯を外側後部でスプリングで連ね、スプリングの弾力によって入れ歯を上下の顎に押し付ける方法であった。これは上の歯が落ちてこない画期的な方法で、多くの人たちから歓迎された。材料は象牙、動物の骨、金属などを用いた。当博物館では象牙や河馬の牙を彫刻したスプリング用金具のついている入れ歯が展示してある。象牙製。年代:1750~1800年
河馬の牙を彫刻して、入れ歯の土台とし、歯の部分は人間の抜けた歯をはめ込んだ入れ歯が数個展示してある。(入手する時の解説で真偽の程は分からないが1815年のウァーテルローの戦死者の歯を使っているという)。年代:1750~1800年
象牙や動物の牙で作った入れ歯は有機質が腐敗して相当な悪臭をした。1790年頃フランスやイギリスで流行した陶材の入れ歯は悪臭が少ないため流行したらしい。ウエッジウッド社も協力しロンドンでは12000個ほど作られたとされている。当館では、スプリングを装着するための穴があいている入れ歯が展示してある。この陶材入れ歯の下顎の粘膜面には金箔が焼き付けてあり、貴金属を用いると食物残渣の腐敗を防ぐという当時の知恵を見ることができる。陶材製。年代:1790~1800年
抜歯器具のペリカン(写真左)は1400年頃から1850年頃まで、歯鍵(tooth key:写真右)は1730年頃から1850年頃まで西洋で盛んに使われていた。近代麻酔が発見される以前は、多少軟組織が損傷しても、短時間で手術を終わらせる必要があった。近代麻酔のない当時は大変機能的に優れた器具なので、長年にわたり用いられてきた。日本でも1859(安政6)年に杉生方策が「内服同功」のなかに「歯鍵のことを臂鉤(ひこう)」として「簡便にして患者より其術に堪う便と謂うべし」と紹介している。年代:ペリカン1700~1800年頃、歯鍵1750年頃。
日本軍の抜歯器具、同じく外科道具セット日本海軍の「2号口腔外科器具」、その他往診用電気エンジン(電動切削器具)なども展示してある。年代:1940年
お歯黒道具は、耳だらい、かね椀、かね沸かし、渡し金、お歯黒壺、うがい茶碗、ふし箱(大小)、房楊枝、羽根筆、お歯黒箱である。女性の嫁入りには、お歯黒道具は必需品であった。上流階級のお歯黒道具は、家紋や金蒔絵の漆塗りだった。しかし、庶民用は黒塗りの箱に入った粗末な道具だった。お歯黒に使う「ふし粉、懐中お歯黒」は需要が多く、その広告や紙袋は江戸から明治にかけて数多く見られる。当館にはお歯黒道具や「お歯黒」の紙袋が展示してある。
平安時代の上流階級の女性は、歯を黒く染めていた。公家の男性が女性の化粧を真似てお歯黒を塗ったと言われている。平安時代の“枕草子”、“紫式部日記”、“源氏物語”には、はぐろ、はぐろめ などの呼び方でお歯黒が出てくる。“源平盛衰記”にもあるように、平家の武将もお歯黒を塗っていた。江戸時代の浮世絵には、お歯黒を塗る女性が多く描かれている。浮世絵は「玉藻前」、「暦中段つくし」、「婦女さとし種」、「時代かがみ」などがある。
明治政府は開国のあと、1870(明治3)年2月5日に“華族を対象にお歯黒と眉剃り禁止”の布告を出した。その法令や新聞記事が残されている。さらに明治6年3月2日には、昭憲皇太后自らがお歯黒、眉剃りを止められる宣言をおこなった旨の新聞記事がある。しかし、若い女性以外の庶民の間では、お歯黒の習慣は明治の終わりころまで続いた。