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本蓮寺

筑後町にある本蓮寺とその墓地。撮影地点は現在の日本26聖人記念聖堂に近い墓地の外れに当たる。本蓮寺はもとサン・ラザロ病院やサン・ジョアン・バプチスタ教会があった場所で、それが破却された後、大村本経寺の僧日恵が元和6(1620)年に開創した日蓮宗の寺院である。中央上の重層入母屋造の建物が本堂で、その左下は位牌堂である。本堂への石段脇にみえる流造の建物は清正公堂(番神堂とも)の神殿である。本蓮寺は原爆で全壊したが、戦後、再建された。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.8×28.4cm)


梁川

明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で竹の久保付近である。明治30(1897)年以降に埋立てられる前の、浦上川下流の風景。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×27.6cm)


長崎稲佐海岸

明治初期の撮影。長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江。右の崖の下の建物は、上陸するロシア人を管理するために、元治元(1864)年に建てられた勤番所。入り江に浮かぶ船に人物を3人配して、背後の純日本風な風景を背景にした演出写真である。岬の対岸は西坂の丘。明治20(1887)年代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.6cm)


飽の浦船着場と長崎港

飽の浦の恵美須神社横の高台から、長崎港越しに、古河町、浪の平町、南山手を遠望した写真である。明治初期の撮影。右下の街灯のある桟橋は、長崎製鉄所のものである。その向こうに見えている建物が、製鉄所の建物である。対岸に目を移すと、写真左に外輪船が停泊している。その向こうの山腹が、南山手外国人居留地とその南限である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.4cm)


飽の浦恵美須神社

飽の浦の恵美須神社。同じアングルで、明治5(1872)年、天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみると、この写真では、海側の鳥居の左にあった松がなくなっており、また、神社横の民家の屋根が剥がれている。岬の背後の丸尾海岸に明治6(1873)年頃に建設される海軍埋立地の建物はまだ見えない。
(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×28.0cm)


悟真寺

稲佐山の麓にある悟真寺は、長崎郊外におけるキリシタン禁制後に復興された最初の仏教寺院として知られ、江戸時代を通じて中国人やオランダ人、幕末以降はロシア人らの墓所に当てられた。浄土宗の寺院だが、背後にそういう国際墓地があることで著名である。画面中央には、右に山門、左に本堂が写っている。山門はいわゆる竜宮門形式の重層門である。現在は、山門前の石段等も向きを変えて大幅に改造されている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ22.5×28.1cm)


稲佐悟真寺墓地

悟真寺は稲佐山の麓に位置し、慶長3(1598)年の創建という、長崎近郊では最初に再興された浄土宗の寺院である。裏山に広がるその墓地は、早くから長崎で客死した中国人やオランダ人の埋葬に当てられており、幕末以降には来航したロシア人なども加えられて、それぞれに区画された墓域をなす国際墓地を形成していた。画面左手の松林の向こうにロシア正教の礼拝堂があり、中央下に蓮池に架かる石橋が見えることからして、現在の「悟真寺国際墓地」入り口に当たる。(上野彦馬撮影 明治初期  印画紙サイズ21.0×27.4cm)


長崎製鉄所

日本が開港する前の安政4(1857)年に、幕府は長崎港の西側、飽の浦地区で、オランダ人ハルデスの指導のもとに、大型船の建造を目的とした長崎製鉄所の建設を始め、文久2(1862)年に完成させた。この長崎製鉄所は、主に機械施設が中心の工場であった。二本の煙突のある鍛冶場はボイラー室で煉瓦造の建物である。その右の建物は、日本で最初に鉄製のトラスの小屋組を採用した轆轤(ろくろ)盤細工所で、多くの工作機械が据え付けられていた。明治4(1871)年に工部省所管「長崎造船局」と改称。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.4×26.9cm)


野母の観音寺

撮影は明治6(1873)年頃。写されているのは野母崎の御崎円通山観音禅寺である。観音堂には、弘化3(1846)年、川原慶賀の描いた4枚の絵や石崎融思の作品を含む150枚の天井絵が、長崎町民などから寄進されている。写真に写されている半円アーチ型の第一石門は、寛政10(1798)年、長崎町民と御崎村の人々が寄進した。石工は彦兵衛。長崎から七里(約28キロ)と離れているが、彦馬は長崎の代表的古刹としてこれを撮影したようである。
(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ22.3×28.3cm)


樺島湊

明治初期頃の樺島湊。湾奥の金比羅神社から脇岬方向の、湊内の船の輻輳する状況を撮影したもの。樺島湊は、江戸時代以前から長崎港に出入りする船の、風待ち、潮待ちの湊として繁栄してきた。明治時代になっても、遠くから多くの物資を運搬するための主要運搬手段は、沿岸を航行する船であった。湊内に停泊する廻船の数から、明治初頭の繁栄した樺島村の状況が分かる貴重な写真である。写真前方の島は、現在樺島大橋が架設されている中島、後方の山は左が遠見山、中央が殿隠山である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×28.0cm)


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