「長崎大学附属図書館」 に対する検索結果 : 30

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上野彦馬と家族

明治3-4(1870-71)年頃の上野撮影局における上野家の家族写真。前列は右から母の「伊曾」、妹牧ちえの息子「元次郎」、姉の「にわ」、ちえの娘「なか」、後列は右から妹の「ちえ」、妻の「むら」、「彦馬」、妹の「ぬさ」、妹の「この」である。この写真は開業から8、9年がたち、撮影局も軌道に乗りだした円熟期のものである。
(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ22.0×28.7cm)

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大村純熙と家族

最後の大村藩主で文久3(1863)年には長崎総奉行を勤めた純熙(すみひろ)とその家族の写真。明治6(1873)年頃の撮影と思われる。場所は長崎の大村屋敷(現・中町教会)の玄関。見る人の目が写真中央に集まるように人物を三角形に配置し、二人の娘の着物の袖を後ろに流し、それぞれの目線を指示するなど、写真師・上野彦馬の技量が発揮されている。(上野彦馬撮影明治初期 印画紙サイズ21.6×28.4cm)

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庶民の集合写真

上野撮影局で撮られた長崎に住む庶民の写真。彦馬の家があった中島近辺の住人であろうか。彼らがいろいろな方向を見ているのは、彦馬が一人ひとり視線を指示しているからである。8人の若い女性はみんな丸髷(まるまげ)で、うち5人が袖に手を隠している。写真を撮られると手から魂が吸い取られるという迷信があったからである。露光時間が長かった時代、写真師は笑って顔が動くのを嫌った。右側の女性のように、自然でぶれていない笑顔がとられた写真は珍しい。(上野彦馬撮 明治初期 印画紙サイズ22.6×28.2cm

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小島養生所と長崎市街地

ドンの山(山の名称)へ登る坂道の途中から小島養生所越しに、長崎市中心市街地東側及び片渕方面を見た鳥瞰写真である。左下の窪地の人家は唐人屋敷の内部。一際大きな屋根は福建会館。火災の跡が見られるので、明治3(1870)年に、ここが全焼した後のものである。その右の小高い丘の上の建物群が小島養生所の建物である。創建時と比べると、建物が増え施設が拡大したことが分かる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.4×27.6cm)

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ドンの山(山の名称)の中腹から見た大浦居留地と長崎港(1)

大浦居留地背後のドンの山の中腹から大浦川沿いを展望する。大浦川の河口に見えるのは明治2(1869)年に居留地の「馬の遊歩道」のため架けられた下り松橋で、その川上の橋は大浦居留地が埋め立てられた文久年間に架けられた弁天橋である。左丘の妙行寺の横に見えるコの字形の建物はベルビューホテル。海には船団が写されている。対岸には工部省所管「長崎造船局」が見える。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.4cm)

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ドンの山(山の名称)の中腹から見た大浦居留地と長崎港(2)

対岸の工部省所管「長崎造船局」の右上の丘に明治7(1874)年4月に完成したお雇い外国人宿舎が見えるので、それ以後の撮影。大浦川左岸の川幅が狭まる地点の建物をはじめ、随所に台風の傷跡が見られる。明治7(1874)年10月頃、海外に持ち出された別のアルバムに、大浦川左岸の川幅が狭まる地点の建物がすでに撤去されて新しい建物が建築中の写真があるので、同年8月20日の巨大台風直後の写真であると推定される。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.8cm)

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大浦川上流より見る大浦川と大浦居留地

大浦川の中流域には、古くからの藁葺(わらぶ)きの農家に加えて、おそらくは居留地関連の仕事に従事する瓦葺きの民家が早くから密集していたようである。一番手前の家に大量の洗濯物が干されているのもその例であろう。現在の大浦東町から川上町にかけてである。しかし上流部はまだ棚田や段々畑のままであった。川上町の大浦国際墓地付近から撮影されている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.4cm)

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大波止沿岸

出島の西端から江戸町、大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期。極めて鮮明な写真である。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18(1885)年から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.4cm)

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東山手の十二番館

明治元(1868)年に再築された東山手12番館。文久元(1861)年からアメリカのウォルシュ商会が入居し、慶応元(1865)年までアメリカ領事館。再築前年の慶応3(1867)年までは、社員が領事となり、プロシア領事館であったが、明治初年にはロシア領事館になっていた。翻っている旗がいずれのものかは判明しないが、建物の新しさからすれば竣工直後の撮影であろう。この12番館は木造ながら、幅広いヴェランダが3面に付き、領事館らしい堂々とした外観である。外壁の下見板張りはわが国最古の例。背後の丘には何も建っておらず、十人町の民家の屋根が覗く。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.4cm)

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大浦川と居留地

明治6(1873)年頃の撮影。大浦川口から上流の川上町外国人墓地を望む。右手左岸は右端の洋館が下り松40番の雑貨商のレーキ商会。その横の入母屋造りは洋館で37番旧エキスプレスの後部で、その横の二階建て2棟は36番のホテルとロンドン居酒屋。川幅が狭まる場所の、白壁の家が35番のニュー・クラブハウス(ボウリング・玉突き場)である。左側右岸は手前から大浦14、15番(空き地)で、道を挟んで大浦29-31番と続く。この一帯はグラバー商会かオルト商会の貸地として又貸しされていた。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×26.2cm)

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