「那覇市立壺屋焼物博物館」 に対する検索結果 : 40件
情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館
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沖縄本島中部以北から採れる赤土と白土を使い、釉薬をかけて焼きあげた施釉陶器を沖縄では上焼(ジョウヤチ)と呼んでいる。上焼の多くは、赤土で成形したあと器の表面を白くするため白土をかける「白化粧」という技法が施されている。本作品もそれに当たる。透明釉を施し本焼をしたあと、上絵具で彩色し、800℃ほどで焼き付ける「赤絵」の技法により、正面に梅が、その背面に松が描かれている。梅は緑色の枝に赤、黄、桃色をした花が描かれ、竹は緑と青で描かれている。沖縄県立博物館・美術館所蔵の沖縄県指定有形文化財「枝梅竹文赤絵碗」と同系統の作品である。【壺屋焼/19世紀】
焼成時にとけて流れた緑釉の濃淡が鮮やかなグラデーションとなり外面全体を覆っている。このような形の製品を沖縄では嘉瓶(ユシビン)と呼んでいる。嘉瓶とは、お祝い事に使用される沖縄独特の酒器のこと。ご祝儀用の泡盛を入れて、お祝いの相手方に贈るために使われた。贈られた嘉瓶は中の泡盛を他の容器に移したあと、持ち主に返される。そのため、なかには肩のあたりに家紋が入っている嘉瓶もある。嘉瓶の「ユシ」は、沖縄の言葉でおめでたいことを意味する「カリユシ」に通じるといわれる。嘉瓶がひょうたんの様な形をしているのは、くびれている事で小脇に抱えやすい為だといわれている。【壺屋焼/19世紀】
外面全体に掛けられた飴釉の発色が鮮やかな作品である。このような形の製品を沖縄では抱瓶(ダチビン)と呼んでいる。抱瓶とは、携帯用の酒器のことで、左右の耳に紐を通し、肩から吊るして持ち運んだ。腰に当てるため三日月状の形をしているのが特徴で、沖縄独特の形である。琉球王府時代、地方の豪農たちが持ち、外出時に携帯したものとされる。【壺屋焼/18世紀】
口縁から肩まで飴釉が、腰部から底部にかけて白化粧と透明釉が施されている。胴部には、ロクロを回転させながら器に鉤状の鉋で刻み目を入れる「飛鉋(とびかんな)」という技法で模様が刻まれ、飴釉が流し掛けられている。このような形の製品を沖縄では渡名喜瓶(トナキビン)と呼んでいる。渡名喜瓶とは、泡盛を墓前に供えるために使われた酒器である。【壺屋焼/18~19世紀】
異なる色の釉薬を分けて掛ける「掛け分け」という技法で、口縁部から胴部に透明釉が、胴部から底部に飴釉が掛けられている。また、釉薬で流し文様をつける「流し掛け」の技法で口縁部から胴部にかけて掛け流された緑釉が鮮やかに発色している。竹の形をかたどった花生けである。【壺屋焼/19世紀】
沖縄本島中南部から採れるジャーガルと呼ばれる黒土と、島尻マージと呼ばれる赤土を使い、釉薬を掛けない陶器、および泥釉・マンガン釉を掛けた陶器を沖縄では荒焼(アラヤチ)と呼んでいる。荒焼は水甕、味噌甕、酒甕など貯蔵を目的とした大型のものから、升瓶などの小型の製品まで作られている。本作品は酒を貯えるのに用いた酒壺である。外面全体にマンガン釉が掛けられ、口縁から胴部にかけて、焼成時に窯の中でふりかかった灰が自然釉となり景色をうんでいる。胴部には2本筋の線模様が描かれ、肩には3つの耳が付けられている。【壺屋焼/19世紀】
無釉の陶器で、水を貯蔵するために使われた。縄目文は粘土で作ったひもをぐるりと巻き、指で凹凸をつけるもので、古い水甕に見られる。頚部には帯(ウービ)と呼ばれる線がヘラで描かれている。【壺屋焼/19世紀】
外面全体にマンガン釉が掛けられている。胴部には波文が透かし彫りの技法でくりぬかれ、盛り付けの技法で竜と雲が施されている。盛り付けとは仕上がった器面に、粘土で作った文様を施す技法で、沖縄ではタックヮーサーと呼ばれている。頚部にはシーサーが盛り付けられている。【壺屋焼/20世紀】
無釉の陶器で、味噌を仕込んで貯蔵するために用いられた。肩にはヘラ描きで二本筋が、その上には耳が3つ施されている。戦前は多くの家庭で自家製の味噌を作っており、味噌は貴重な貯蔵食品であった。【壺屋焼/20世紀】
無釉の陶器で、塩漬けの豚肉を入れるために使われた。肩にはヘラ描きで二本筋が、その上には窯印が施されている。荒焼用の単室登り窯ではそれぞれの窯元の製品をまとめて窯に詰めて焼成するため、窯印をつけてどの工房の製品かわかるようにされているものがある。豚肉は沖縄を代表する食材。戦前は養豚も家庭単位で行われていた。【壺屋焼/20世紀】
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