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情報所有館 : たばこと塩の博物館 

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記念たばこ

記念たばこは、大正4年から平成6年まで、国や地方のさまざまな行事や催しにちなんで特別にデザインされたたばこで、期間限定で販売された。博覧会や展覧会用にあわせたものや、東京オリンピック仕様など、時代を反映したデザインが並ぶ。


手刻み道具一式

たばこの日本伝来以降、江戸時代を通して細刻みをきせるで吸うという、日本特有の喫煙形態が発展した。髪の毛ほどの細さにたばこを刻む技術は、職人の手刻みで完成された。江戸後期には機械も開発され明治37年(1904)に専売制が施行されるまで各地で使用された。手刻みでは、箒で葉たばこについた砂を掃き、葉脈を取ったあと数種類の葉を組み合わせて重ね、四つ折にした巻き葉を押さえ板で押さえながらたばこ包丁で刻んだ。手作業なので、それほど効率はよくなく、普通の人で3キロくらい、熟練者で3.75キロ程度だった。


〆台

かんな刻み機で刻むために葉たばこを重ねて圧搾し板のように固める機械。〆台で圧搾する際に油を使うため、かんな刻みのたばこは品質が悪いとされた。しかし、火付きはよく、野外作業に従事する際の喫煙には適していた。


かんな刻み機

寛政12年(1800)に阿波池田の中村武右衛門が北海道の昆布刻器を耳にし、現品を取り寄せて土地の工匠と共に制作したとされる。〆台で圧搾された葉をセットし、かんなで削るようにして刻みたばこを作った。手刻みよりも効率がよく、一人で一日3~5貫目(11~19キロ)を刻むことができた。しかし、葉たばこの間に油を塗るため品質が悪く、主に下級品の製造に使われた。


ぜんまい刻み機

弘化(1844~1848)頃に発明されたとされる。1~4個の歯車を巧に使い、包丁の上下運動と葉たばこの送り出しを同時に行なえる機構を備えていた。座作業のため能率はさほどよくなく、一人一日3.75kg程度だったが、製品の質は高く、上級製品の製造に使われた。また、ぜんまい刻み機は江戸時代の産業用機械としては緻密な機構を持ち、明治以降の刻み機械につながる基本的な機構となった。


水車刻みの図

水車を動力とした刻み機。ぜんまい刻み機は簡単な操作で良質のたばこを生産できたが効率は悪く、足踏みぜんまい刻み機などが考案された。さらに動力の導入が検討され、明治10年代以降は水力や蒸気機関といった動力を用いたぜんまい刻み機が普及した。神奈川県秦野地方ではこうした動力を利用したたばこ製造業者が多く存在し、水車ぜんまい機械の増加届といった文書も残されている。年代:明治期


木村商店製たばこの販売用荷車

木村商店は米国産シガレット「ホーク」「ゴールドコイン」や、英国産シガレット「ハート」「キング」の輸入販売、製造販売を行った明治のたばこ商。両切たばこを主力とするため同業の村井兄弟商会と衝突することが多かった。村井の「ヒーロー」に対抗して「ハーロー」を出して商標権争いも起こしたが、明治33年には村井に買収され、その一販売店となった。写真の荷車には木村商店の銘柄が記されており、民営時代の小売の様子を伝えている。年代:明治期


たばこの自動販売機

たばこの自動販売機は明治期から繰り返し試作された。実際に普及するには時間を要し、昭和8年に上野駅に設置されたほか、一部の地域で使われるようになった。この資料は昭和10年頃の三裕社製で、「朝日」「みのり」「ゴールデンバット」などを販売し、硬貨を入れて押し棒を押し込むとたばこと釣り銭が出るという仕組みになっている。


たばこの自動販売機

昭和50年から51年まで制作されていたクボタ製「CM-DW2」。平成15年まで山梨で稼働していた。


火付道具

鋼鉄製の火打金と石英の火打石を打ち合わせることで火花を出し、火口に火を移した。火口から付け木、さらに炭に移すなどして火を保管した。火打石や火打金は、蓋付の火口入れがついたの火打箱にまとめられた。


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