「所沢航空発祥記念館」 に対する検索結果 : 52

情報所有館 : 所沢航空発祥記念館 

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ノースアメリカンT‐6G

1934(昭和9)年にアメリカのノースアメリカン社によって設計され、世界33ヶ国で15,117機も使用された中間練習機のベストセラーである。古い設計の機体だが、機体や操作装置の改良、新型電子機器の搭載などによって、頑丈で信頼度の高い中間練習機に生まれ変わっている。日本には1955(昭和30)年に輸入され、自衛隊で10年間にわたってパイロット養成に使用された。練習機としての役割を終えた機体は、救難捜索機として活躍していたが、1969(昭和44)年に全機とも現役から退いている。展示されている機体は、かつて航空自衛隊で活躍していた“T‐6G”のうちの1機である。自衛隊からの貸与。年代:1949


シコルスキーH‐19

世界で初めてシングルローターヘリコプターの飛行を成功させたイゴール・シコルスキーが製作した中型実用ヘリコプター。1949(昭和24)年に原型機が初飛行し、本格的な実用多用途ヘリコプターとして15年間に1,281機製作されて、軍用、民間用として世界中で活躍した。日本では三菱重工業(株)によってライセンス生産され、運送用、航空・海上救難用として自衛隊に66機導入された。これにより、ヘリコプターによる災害派遣、離島・僻地からの緊急患者輸送などが本格化することになった。また、全日空などが民間機として旅客・貨物輸送用に使用するなど、初期のヘリコプターとしては最も成功した機種となった。自衛隊からの貸与。年代:1953


バートルV‐44

1959(昭和34)年、陸上自衛隊が研究用としてアメリカのパイアセッキ社(のちのバートル社)から購入した大型輸送ヘリコプター。原型機は1952(昭和27)年に初飛行に成功している。日本最初の大型ヘリコプターとして、主に航空救難活動に使用され、その年に東海地方を襲った伊勢湾台風では、災害派遣に大活躍した。その時、当時の皇太子殿下(現在の天皇陛下)が、皇室としては初めて本格的にヘリコプターに搭乗し、災害地の状況を空中から視察された。展示機は、当時使用された“V‐44”の1機である。航空自衛隊にも10機の“H‐21B”(“V‐44”の軍用型)が導入され、航空救難用として使用された。自衛隊からの貸与。年代:1959


スチンソンL‐5

自衛隊の前身、保安隊で使用されていた連絡機。1941(昭和16)年に設計され、第2次大戦末までに3,282機つくられた。第2次大戦では、アメリカ陸軍の連絡・観測機として第1線部隊で使用された。最前線近くの狭い飛行場でも離着陸することができたため、前線部隊の貴重な空からの目として活躍した。主翼は木製羽布張り、胴体は銅管溶接羽布張りと旧式の機体であるが、頑丈で操縦性に優れていた。日本には1953(昭和28)年にアメリカから35機供与され、パイロットの養成に使用された。戦後の航空部隊の再建に活躍したが、老朽化のため1956(昭和31)年に使用が打ち切られた。自衛隊からの貸与。年代:1953


ヒューズOH‐6J(ヒューズ500)

1960(昭和35)年に米陸軍が行った最初のLOH(軽観測ヘリコプター)の審査に合格し、1965(昭和40)年から量産された小型タービンヘリコプターの傑作、“ヒューズOH‐6”を、川崎重工業(株)がライセンス生産した機体である。LOHには、従来の固定翼の複座連絡機と小型観測ヘリコプターが持っていた全ての任務を果たすことが要求されたため、小型・軽量の機体ながら、高い機体強度、卓越した飛行性能、大きな搭載量、敵火器による損害の軽減などを実現している。また整備性等にも優れた機体である。日本でのライセンス生産は1968(昭和43)年に始まり、計170機が自衛隊および民間で使用された。自衛隊からの貸与。年代:1969


川崎KAL‐II

川崎航空機の岐阜工場で組み立てられた戦後初の本格的国産機、“KAL‐I”を改良した連絡機で、1954(昭和29)年11月に初飛行した。全金属製の機体に前輪式引込脚をそなえた、近代的な飛行機だった。防衛庁の連絡機採用に応じて製作されたが、審査で“ビーチクラフトT‐34メンター”の改造型、“LM‐1”に破れたため、2機試作されただけで量産はされなかった。この試作機は、航空自衛隊と海上自衛隊に1機ずつ所属し、連絡機として使用されていた。実用的には未完成で、決して成功したとはいえない飛行機だが、後の航空産業の復興に大きな役割を果たした、意義深い機体である。自衛隊からの貸与。年代:1954


ビーチクラフトT‐34メンター

初期の自衛隊で活躍していた初級練習機で、原型機は1948(昭和23)年12月に初飛行した。構造は従来の練習機に比べて高級で、前輪式引込脚や定速プロペラをそなえた全金属製低翼単葉機である。計器飛行に必要な装備も搭載しているため、初級の計器飛行訓練も可能であった。自衛隊には、1954(昭和29)年に輸入された20機と、富士重工業によってライセンス生産された126機の計146機が導入され、当時不足していたパイロットの教育に大活躍した。また、ライセンス生産を通して学んだアメリカ式生産技術の手法は、戦後の航空再建の原点となった。自衛隊からの貸与。年代:1954


HU‐1B(ベル204B)

1956(昭和31)年に初飛行した中型タービンヘリコプターの傑作、“ベル204型”を改良した機種で、1961(昭和36)年から量産された。あらゆる用途に対応できるように設計されており、戦場での軽武装攻撃、補給品の輸送、患者護送、遭難者の捜索・救助などが可能であった。1962(昭和37)年には陸上自衛隊でも採用が決定したため、富士重工業(株)がライセンス生産を開始し、1972(昭和47)年までに91機生産した。展示機はこの時つくられた機体で、災害派遣などで活躍していた。この後も改良を重ねながら生産され続け、ライセンス生産機、民間機を含め1万機以上が世界中で活躍している。自衛隊からの貸与。年代:1961


パイパーL‐21

1930(昭和5)年から改良を重ねながら生産されていた実用軽飛行機“スーパーカブ”を軍用化して誕生した連絡機で、1951(昭和26)年に初飛行した。木製羽布張りの主翼と、銅管溶接羽布張りの胴体をもつシンプルな機体ながら、操縦安全性にすぐれ整備等も容易であった。1953(昭和28)年に日本に保安隊航空が創設されると同時に、アメリカから62機供与され、おもにパイロット養成のための基本操縦訓練機として使用された。また狭い飛行場でも容易に離着陸できるため、連絡機としても活用された。1965(昭和40)年には19機が日本赤十字社に払い下げられ、血液の緊急輸送などの赤十字活動で活躍した。自衛隊からの貸与。年代:1953


会式一号飛行機(復元レプリカ)

所沢で飛んだ日本初の国産軍用機である。∥1911(明治44)年、徳川好敏陸軍大尉の設計・製作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に東京・代々木練兵場で日本での初飛行に成功した“アンリ・ファルマン機”を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作る事を目的として、所沢飛行場内で製作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉自身の操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われた。本機体は1993(平成5)年に所沢航空発祥記念館のシンボル展示として製作されたレプリカである。産業考古学会から「推薦産業遺産」の認定を受けた。年代:1911


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