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情報所有館 : 中冨記念くすり博物館 

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煎り鍋

ドクダミやオウレンなど、自家調達した生薬を炒って、乾かすための道具。大きく重いため、生薬を取り出しやすいように掻き出し口がついている。こちらの炒り鍋は、江戸時代末期頃まで当地(佐賀県鳥栖市田代)の売薬業者である重松家で使用されていたもの。直径87cm、深さ14cmの鉄製。年代:江戸末期~明治初期


片手切り

生薬である薬草を刻む道具。片手盤とも呼ばれた。木製の台部(円柱)に支柱があり、その支柱部分に包丁の先端を差し込み、テコの原理にて生薬を刻む。台部(木製の円柱)の上辺がギザギザなのは、包丁を使っていくうちに木が筋状に削れてしまったから。一部だけが削れすぎてしまうのを防ぐため、台部は規則的に回転させた。包丁もよく使用する部分の刃が減っている。年代:江戸末期~明治初期


両手切り (もろてぎり)

片手切りと同じく、生薬である薬草を刻む道具。弓型の刃の両側に木製の取っ手が付いている。その刃には重石が付いていて、弓型の刃を左右に揺らすと、石の重さで硬い生薬を刻むことが出来た。双手切りとも呼ばれた。片手切りなどで裁断した生薬をさらに細かく刻む時に使用した。両手切りの刃は鍛冶屋が、石は石工によって加工された。いずれも当地(佐賀県鳥栖市田代)の職人が手掛けたもの。年代:江戸末期~明治初期


薬研

片手切り・両手切りなどで刻んだ生薬を粉状にする道具。昔の製薬には、欠かせなかった道具の一つ。V字形の溝に生薬を入れ、円盤をきしらせるように転がすと擂り潰せる。平安時代末期ごろには使われていたようで、薬研の溝の形から『薬研堀』、『薬研彫』、『薬研馬鍬』などの言葉が生まれた。年代:江戸末期~明治初期


碾き臼

生薬を粉末に擂り潰す道具。薬研で粗めにすり潰したものをさらに細かな粉末(散薬)にすることが出来た。また、薬をつくるときの他、大豆や抹茶を挽く際にも使用した。昭和20年代までは日本の農家などで広く活用された道具だった。


乳鉢 ・ 乳棒

粗く刻んだ薬草をすり潰す道具。また、数種の薬剤を調合するの時にも使用した。磁器、ガラス、鉄、石など用途によって材質を使い分けた。乳鉢は内側の表面が滑らかなものが良品で、穴やすき間があると均等に粉砕・調合されない。また、乳棒は、通常、乳鉢と同質のものを使うが、鹿の角を乳棒とすることもある。年代:江戸末期~明治初期


箱篩い

粉末(散薬)の粒の大きさを均一に整える道具。箱形、蓋付きで、粉が周りに飛び散らないようになっている。篩う際は、箱に蓋をかぶせ、取っ手を押し引きして使う。その時にゴトゴトと音を立てることから、当地(佐賀県鳥栖市田代)では”ゴトゴト”という名で呼ばれることもあった。年代:1859年(安政6年)


竿秤(さおばかり)

さお(衡)の片方には重さを量るものを乗せた皿、もう片方には錘(おもり)、その二つを竿のバランスによって計量する道具。小型のものは厘秤(りんばかり)と呼ばれ、服用する薬の一回分を量る際に活用した。年代:江戸末期~明治初期


こね鉢

丸薬(丸い粒状の薬)を作る際、粉末になった数種の生薬を調合し、粘土状に捏ねる道具。陶器製が主流だが、木製もある。少量の調合の場合、乳鉢を代用品とすることもあった。粉末にした主原料につなぎ(米粉、蜂蜜など)、デンプンなどを混ぜ、少量の水を加えながら練り合わせた。年代:江戸末期~明治初期


バラ

製丸(原料を粒状に丸める作業)や丸薬に色づけする際に用いた道具。形状は大型の笊(ざる)。特徴は底面の中央部が山型になっていて、笊の円周は溝になっている。色づけするには、バラに丸薬を入れ、そこに朱などの染料をまぶし、均等に色が付くようバラを揺すった。年代:江戸末期~明治初期


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