ニューマチックハンマー
| 資料番号 | 00007 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 鋼板接合部に差し込まれたリベットの先端を、圧縮空気を用いて叩き潰すもの。年代:1950年代 |
| 資料番号 | 00007 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 鋼板接合部に差し込まれたリベットの先端を、圧縮空気を用いて叩き潰すもの。年代:1950年代 |
| 資料番号 | 00008 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 鋼板接合部に差し込まれたリベットのハンマーと反対側で抑える鉄製の棒。年代:1950年代 |
| 資料番号 | 00009 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | リベット接合で組み立てられた明治期の鉄骨柱および梁とのの接合部分を、当時と同様の工法で復元したもの。参考としたのは旧三井本館(1902年竣工)の鉄骨柱。鉄骨回りには煉瓦をはめ込んだ形式となっている。年代:2004年 |
| 資料番号 | 00010 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | リベット接合で組み立てられた明治期の鉄骨柱と梁の接合部分を、現在の接合法で製作した同サイズの鉄骨柱。年代:2004年 |
| 資料番号 | 00011 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 三河屋総本店(墨田区緑)ビルの煉瓦躯体と外装タイル。1991年に解体された際に採取したもの。年代:1922年 |
| 資料番号 | 00012 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 旧菅島燈台付属官舎主屋(三重県鳥羽市菅島町)に用いられたもの。お雇い外国人リチャード・ヘンリー・ブラントン(イギリス人)の設計。年代:1873年頃 |
| 資料番号 | 00013 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 江の島サムエル・コッキング苑(コッキング植物園温室遺構)から出土したもの。横濱煉化製造会社製造とされている。年代:1888年頃 |
| 資料番号 | 00014 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 旧唐津銀行のオレンジがかった施釉の化粧煉瓦(外装タイル)、タイルを煉瓦造に張った初期の事例。田中 実設計。年代:1912年 |
| 資料番号 | 00015 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 日本工業倶楽部会館 大正9(1920)年に用いられた化粧煉瓦(竪筋小口タイル)の複製。 当初の製造は鳥井製陶所。横河工務所 設計。年代:2004年 |
| 資料番号 | 00016 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 旧帝国ホテル本館に用いられたスダレ模様の表積煉瓦(スダレ煉瓦)。帝国ホテル直営の煉瓦製作所で製造された。このうちスダレ煉瓦はスクラッチ煉瓦と呼ばれ、以後、無釉外装タイルの代表的なものとして、大正末期から昭和10年代初頭にかけて多くの建物に用いられた。年代:1923年 |
| 資料番号 | 00017 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | イタリア ポンペイの遺跡から採取されたローマ時代のコンクリートの一部。住居の床として使用されていたコンクリートと推察される。年代:紀元10年代 |
| 資料番号 | 00018 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 七尾港桟橋は昭和14(1939)年に建設、改修工事のため撤去された桟橋より採取されたもの。約65年間にわたり、北陸地方海岸という極めて厳しい環境下に耐えてきたコンクリート。採取したコンクリート塊から測定された最大粗骨材寸法は43mmと比較的大きなものが使用されていた。年代:1939年 |
| 資料番号 | 00019 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | 第三海堡は明治政府が敵艦の東京湾侵入を阻止する目的で東京湾入り口の海中に建造した砲台を有する人工島。大正10(1921)年までに第二・第三海堡が完成した。第三海堡は竣工からわずか2年後に起こった関東大震災により水没状態となった。2000年からはじまった撤去作業により、陸上に引き上げられた第三海堡から採取されたもの。約80年間海中にあったと推測される。年代:1920年代 |
| 資料番号 | 00020 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | コンクリートを締固める道具。硬練りのコンクリート打込みの際、層の上面に水がしみでるまで表面に叩きつけ突き固めた。年代:昭和初期 |
| 資料番号 | 00021 |
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| 情報所有館 | 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室 |
| 特徴 | アメリカで開発されたカーン・バーとリブ・バー(異形鉄筋)を組み合わせた梁の配筋法。アメリカの土木技師カーンによって1903年に特許が取得されている。ひし形の異形鉄筋にウイング(翼骨、ひげ筋)が取り付けられ、せん断補強筋の役目を果たすとも言われた。大正期から昭和初期にかけて多く用いられた。1923年関東大震災でこの配筋に被害が多かったとも言われ、採用されなくなった。旧第一銀行函館支店の梁に使用されたもの。年代:1921年 |
| 資料番号 | 00001 |
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| 情報所有館 | 郵政博物館 |
| 特徴 | フランスのディニエ社により1860年頃に製作された印字式モールス電信機です。インクのついた円盤にテープを軽く押し付けるとテープ上に符号が印字される仕組みで、ゼンマイ駆動の時計仕掛けが使われています。榎本武揚が1862年に幕府によりオランダへ派遣された際に入手し、1868年に榎本が戊辰戦争へ参戦する際に函館の運上所に預けられた後、所在不明となっていました。その後、愛宕山下の古道具屋で明工舎の沖牙太郎に買い取られ、1881年に榎本が会長を務めていた電気学会の第3回電気学会講演会で、逓信省技術官僚の吉田正秀によってこの電信機が紹介されことをきっかけに逓信省に寄贈され、現在に至っています。 |
| 資料番号 | 00002 |
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| 情報所有館 | 郵政博物館 |
| 特徴 | この機械は、1904年、山口県赤間関(現在の下関市)の発明家俵谷高七により考案された「自働郵便切手葉書売下機」というもので、日本に現存する最も古い自動販売機です。写真向かって右側に3銭切手の発売口、左側に1銭5厘のはがきの発売口があり、中央下部には硬貨の返却口とポストが付いています。はがきは、1銭5厘入れると1枚、3銭入れると2枚出てくるようになっています。また、在庫が無くなると、売切れの表示もできる仕組みになっています。しかし、この販売機は、装置作動の正確さにやや難点があり、実用化されませんでした。 |
| 資料番号 | 00003 |
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| 情報所有館 | 郵政博物館 |
| 特徴 | 1869年、ガワーベル電話機に代わり、デルビル磁石式電話機が登場しました。加入者は磁石発電機のハンドルを回して電話局へ信号を送り、電話局からは自動変極器からの交流を加入者に送り、加入者電話機のベルを鳴らしました。この磁石発電機をもつ電話機のことを磁石式電話機と呼んでいます。木箱の中に磁石発電機、磁石電鈴、誘導線輪などの附属品が入っており、一次電池はそのすぐ下にテーブルのように取り付けた別の木箱の中にレクランシー電池2個が入っています。デルビル電話機は壁掛型の他、卓上型も作られました。その後、共電式、自動式と並行して小規模局で1965年頃までの長期にわたって使用されました。 |
| 資料番号 | 00004 |
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| 情報所有館 | 郵政博物館 |
| 特徴 | これはドイツ製足踏式押印機で、1884年当時駅逓総官であった野村靖が欧州に出張した際に公的に購入したものと伝えられています。19世紀後半には、各国とも近代郵便制度が社会に浸透したため差し出される郵便物が増加し、手作業による押印作業は困難を極めるようになりました。そのため、各国とも押印機の研究開発に努め、ドイツで開発されたのがこの足踏式押印機でした。このドイツ製足踏式押印機は東京郵便局で試用されましたが、1分間に100通前後しか押印できなかったようです。これは日本の封筒の紙質がこの機械の性能に合わなかったためで、残念ながらこの押印機の導入は幻となりました。 |
| 資料番号 | 00005 |
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| 情報所有館 | 郵政博物館 |
| 特徴 | 郵便が創業して間もない頃は、郵便物の輸送には専ら「人車」(じんしゃ)が用いられていました。人車は人力で荷物を運ぶ車で、郵便物運搬用の人車には枠車と函車の2種があり、赤い躯体と大きな車輪が特徴的でした。現在の郵便局のバイクや郵便自動車は赤い色ですが、郵便物運搬用の人車にはすでに赤い色が使われていたことが分かります。当時、赤い人車は大変珍しく、町なかでは非常に目立っていたため、「東京中の多くの人々に郵便のことを知らせる広告となった。」と、後に前島密が『郵便創業談』の中で語っています。1892年に小包郵便の取扱いが開始されてからは、人車は小包の輸送のみならず、配達にも利用されました。 |