陶製鏡餅
| 資料番号 | 00026 |
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| 情報所有館 | 瀬戸蔵ミュージアム |
| 特徴 | 昭和14年(1939)頃、食料の供給減少などの情勢をうけて、代用品の鏡餅が流通するようになりました。「三分搗きの黒い米の時代に、ネズミにかじられない白い餅が飾れる」と好評だったそうです。年代:昭和14年(1939)頃 |
| 資料番号 | 00026 |
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| 情報所有館 | 瀬戸蔵ミュージアム |
| 特徴 | 昭和14年(1939)頃、食料の供給減少などの情勢をうけて、代用品の鏡餅が流通するようになりました。「三分搗きの黒い米の時代に、ネズミにかじられない白い餅が飾れる」と好評だったそうです。年代:昭和14年(1939)頃 |
| 資料番号 | 00027 |
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| 情報所有館 | 瀬戸蔵ミュージアム |
| 特徴 | 太平洋戦争中、お寺の鐘や家庭の金属製品などを武器の材料としての回収が進められるとともに、様々な代用品がつくられました。昭和18年(1943)頃、硬貨もまた将来の原料不足を見越して、やきものによる代用貨幣の開発が始められました。試作は、瀬戸・有田・京都で進められ、昭和19年(1944)から順次生産に取り掛かりますが、終戦を迎え流通することはありませんでした。瀬戸では一銭・五銭・十銭が生産され、その数量は約1300万枚。そのほとんどは占領軍の進駐の前に粉砕処理されました。そのため現存するものはわずかで、流通しなかったことも含め、「幻の陶貨」と呼ばれています。年代:昭和20年(1945) |
| 資料番号 | 00028 |
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| 情報所有館 | 瀬戸蔵ミュージアム |
| 特徴 | 光和陶器株式会社。高38.6cm。男女一対のこの作品は風になびく髪の毛や服の様子が細かく表現され、石膏型による鋳込成形の技術の高さが感じられます。戦後、大型のノベルティが生産されるようになりますが、その中でも30センチを超える見栄えのする作品の一つです。年代:昭和時代 |
| 資料番号 | 00029 |
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| 情報所有館 | 瀬戸蔵ミュージアム |
| 特徴 | 光和陶器株式会社。高46.0cm。瀬戸では装飾用のやきものの置物をノベルティと呼びます。ノベルティは主にアメリカ向け輸出品として生産され、その種類は多彩で、人形・鳥・動物・花・装飾付食器や花瓶など様々です。本作品は大手ノベルティメーカー・光和陶器が昭和時代に製造したもの。鳥の羽根や土台の岩や木など写実的な表現が特徴的です。ノベルティの製作は原画から原型師が粘土で製作した原型をもとに石膏型をおこし、泥漿を流し込んで形をつくります。複雑な鳥は頭、胴、羽、脚など細かく部品に分けて成形し、粘土で接着して焼成。焼成後に上絵付を施してさらに焼成して完成させます。年代:昭和時代 |
| 資料番号 | 00030 |
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| 情報所有館 | 瀬戸蔵ミュージアム |
| 特徴 | テーケー名古屋人形製陶株式会社。高37.0cm。瀬戸ではレース状の飾りのついたノベルティをレース人形と呼びます。レース人形は粘土を着けた布レースに襞を寄せて、人形のボディに接着して本焼成したもので、ノベルティの中でも高級な花形商品として輸出されました。通常は衣類の表現の一部にレース飾りが使用されるますが、本作品は衣類そのものを全てレースで再現したもので、総レース人形と呼ばれます。元々はアメリカで始まったレースドールの技術を取り入れ、テーケー名古屋人形製陶がノベルティの技術を活かして瀬戸市では初めて開発しました。年代:平成3年(1991) |
| 資料番号 | 00001 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 沖縄本島中部以北から採れる赤土と白土を使い、釉薬をかけて焼きあげた施釉陶器を沖縄では上焼(ジョウヤチ)と呼んでいる。上焼の多くは、赤土で成形したあと器の表面を白くするため白土をかける「白化粧」という技法が施されている。本作品もそれに当たる。透明釉を施し本焼をしたあと、上絵具で彩色し、800℃ほどで焼き付ける「赤絵」の技法により、正面に梅が、その背面に松が描かれている。梅は緑色の枝に赤、黄、桃色をした花が描かれ、竹は緑と青で描かれている。沖縄県立博物館・美術館所蔵の沖縄県指定有形文化財「枝梅竹文赤絵碗」と同系統の作品である。【壺屋焼/19世紀】 |
| 資料番号 | 00002 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 焼成時にとけて流れた緑釉の濃淡が鮮やかなグラデーションとなり外面全体を覆っている。このような形の製品を沖縄では嘉瓶(ユシビン)と呼んでいる。嘉瓶とは、お祝い事に使用される沖縄独特の酒器のこと。ご祝儀用の泡盛を入れて、お祝いの相手方に贈るために使われた。贈られた嘉瓶は中の泡盛を他の容器に移したあと、持ち主に返される。そのため、なかには肩のあたりに家紋が入っている嘉瓶もある。嘉瓶の「ユシ」は、沖縄の言葉でおめでたいことを意味する「カリユシ」に通じるといわれる。嘉瓶がひょうたんの様な形をしているのは、くびれている事で小脇に抱えやすい為だといわれている。【壺屋焼/19世紀】 |
| 資料番号 | 00003 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 外面全体に掛けられた飴釉の発色が鮮やかな作品である。このような形の製品を沖縄では抱瓶(ダチビン)と呼んでいる。抱瓶とは、携帯用の酒器のことで、左右の耳に紐を通し、肩から吊るして持ち運んだ。腰に当てるため三日月状の形をしているのが特徴で、沖縄独特の形である。琉球王府時代、地方の豪農たちが持ち、外出時に携帯したものとされる。【壺屋焼/18世紀】 |
| 資料番号 | 00004 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 口縁から肩まで飴釉が、腰部から底部にかけて白化粧と透明釉が施されている。胴部には、ロクロを回転させながら器に鉤状の鉋で刻み目を入れる「飛鉋(とびかんな)」という技法で模様が刻まれ、飴釉が流し掛けられている。このような形の製品を沖縄では渡名喜瓶(トナキビン)と呼んでいる。渡名喜瓶とは、泡盛を墓前に供えるために使われた酒器である。【壺屋焼/18~19世紀】 |
| 資料番号 | 00005 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 異なる色の釉薬を分けて掛ける「掛け分け」という技法で、口縁部から胴部に透明釉が、胴部から底部に飴釉が掛けられている。また、釉薬で流し文様をつける「流し掛け」の技法で口縁部から胴部にかけて掛け流された緑釉が鮮やかに発色している。竹の形をかたどった花生けである。【壺屋焼/19世紀】 |
| 資料番号 | 00006 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 沖縄本島中南部から採れるジャーガルと呼ばれる黒土と、島尻マージと呼ばれる赤土を使い、釉薬を掛けない陶器、および泥釉・マンガン釉を掛けた陶器を沖縄では荒焼(アラヤチ)と呼んでいる。荒焼は水甕、味噌甕、酒甕など貯蔵を目的とした大型のものから、升瓶などの小型の製品まで作られている。本作品は酒を貯えるのに用いた酒壺である。外面全体にマンガン釉が掛けられ、口縁から胴部にかけて、焼成時に窯の中でふりかかった灰が自然釉となり景色をうんでいる。胴部には2本筋の線模様が描かれ、肩には3つの耳が付けられている。【壺屋焼/19世紀】 |
| 資料番号 | 00007 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 無釉の陶器で、水を貯蔵するために使われた。縄目文は粘土で作ったひもをぐるりと巻き、指で凹凸をつけるもので、古い水甕に見られる。頚部には帯(ウービ)と呼ばれる線がヘラで描かれている。【壺屋焼/19世紀】 |
| 資料番号 | 00008 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 外面全体にマンガン釉が掛けられている。胴部には波文が透かし彫りの技法でくりぬかれ、盛り付けの技法で竜と雲が施されている。盛り付けとは仕上がった器面に、粘土で作った文様を施す技法で、沖縄ではタックヮーサーと呼ばれている。頚部にはシーサーが盛り付けられている。【壺屋焼/20世紀】 |
| 資料番号 | 00009 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 無釉の陶器で、味噌を仕込んで貯蔵するために用いられた。肩にはヘラ描きで二本筋が、その上には耳が3つ施されている。戦前は多くの家庭で自家製の味噌を作っており、味噌は貴重な貯蔵食品であった。【壺屋焼/20世紀】 |
| 資料番号 | 00010 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 無釉の陶器で、塩漬けの豚肉を入れるために使われた。肩にはヘラ描きで二本筋が、その上には窯印が施されている。荒焼用の単室登り窯ではそれぞれの窯元の製品をまとめて窯に詰めて焼成するため、窯印をつけてどの工房の製品かわかるようにされているものがある。豚肉は沖縄を代表する食材。戦前は養豚も家庭単位で行われていた。【壺屋焼/20世紀】 |
| 資料番号 | 00011 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | シーサーの原形はオリエントやインドに生息していたライオンといわれる。シルクロードを通って中国に伝わる間に姿・形を変えて獅子になり、13~15世紀頃沖縄に伝わり独特のシーサーになった。14世紀頃シーサーは王族の権力の象徴として、寺社や王族の墓などに用いられた。17世紀頃になると、村落の入口などに石獅子が魔よけや火災よけとして置かれるようになった。作者の國場真一(1887~1968)は、陶工達の間でも「彼の右に出るものはいない」と称されるほどシーサーの名工として知られていた。尻を立て威嚇する姿勢や顔を横に向けるスタイルは彼が考案したものといわれている。【國場真一作/20世紀】 |
| 資料番号 | 00012 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 壺屋焼の荒焼の製法で作られた頭部(チブル)だけのシーサー。陶製のシーサーが壺屋で作られるようになったのは19世紀末期から。始めに作られたのが荒焼のチブル(頭部)シーサー。そのころ、瓦葺き職人が瓦と漆喰で作る漆喰シーサーも普及していった。大正から昭和にかけて全身像のシーサーが焼物で作られるようになり、戦後は上焼のシーサーなども作られるようになった。現在では、屋根の上や門柱に据えられているシーサーを沖縄の至る所で見ることができる。【壺屋焼/19世紀】 |
| 資料番号 | 00013 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 白土で成形し焼成した作品。作者小橋川永仁(1922~1977)は、ロクロの技術は父・仁王から、絵付けは兄・永昌から、そしてシーサー作りは國場真一から学んだ。壺屋の伝統を守りつつ新しい技術を取り入れる革新的存在であり、シーサー作りに石膏型を利用したのは永仁が最初といわれている。非常にアイディアが豊富で、シーサー形の灰皿を考案するなど、新しい形の製品を次々と生み出した。壺屋陶器事業協同組合の初代理事長として壺屋焼の発展に貢献した。【小橋川永仁作/20世紀】 |
| 資料番号 | 00014 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 皿の中央に二尾の魚が、縁には2本筋と連弁文様が線彫りで描かれている。飴釉、濃紺、鮮やかな青色に発色するそれぞれの釉薬を使い分けて画面の構成を行っている。1963年12月に行われた第6回壺屋陶芸三人展出品作品である。濱田庄司は「次郎の魚は笑っている」と評した。金城次郎(1911~2004)は沖縄県真和志村字与儀(現那覇市)生まれの陶芸家。1985年に国指定重要無形文化財「琉球陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。魚文がトレードマークともいえる次郎だが、インタビューで「沖縄は海に囲まれているので、沖縄らしい模様を作りたかった。そこで魚と海老を選んだ」と答えている。【金城次郎作/1963年】 |
| 資料番号 | 00015 |
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| 情報所有館 | 那覇市立壺屋焼物博物館 |
| 特徴 | 器全体に鉄釉が施されている。スポイト状の道具を使い、液体状にした白土で模様を描くイッチンと呼ばれる技法で、魚と波紋が描かれている。また、口縁部にも白土がぬられ、器面全体を引き締めている。底部・高台内には「金次」の刻銘がある。高台には紐が通せるように穴が二つあけられており、壁面に下げる飾り皿としての意図がうかがえる。琉球電信電話公社総裁でもあり、また沖縄民藝協会を支えた人物の1人でもある新里善福の旧蔵作品。【金城次郎作/1960年代】 |