お歯黒を描いた浮世絵
| 資料番号 | 00019 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 平安時代の上流階級の女性は、歯を黒く染めていた。公家の男性が女性の化粧を真似てお歯黒を塗ったと言われている。平安時代の“枕草子”、“紫式部日記”、“源氏物語”には、はぐろ、はぐろめ などの呼び方でお歯黒が出てくる。“源平盛衰記”にもあるように、平家の武将もお歯黒を塗っていた。江戸時代の浮世絵には、お歯黒を塗る女性が多く描かれている。浮世絵は「玉藻前」、「暦中段つくし」、「婦女さとし種」、「時代かがみ」などがある。 |
| 資料番号 | 00019 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 平安時代の上流階級の女性は、歯を黒く染めていた。公家の男性が女性の化粧を真似てお歯黒を塗ったと言われている。平安時代の“枕草子”、“紫式部日記”、“源氏物語”には、はぐろ、はぐろめ などの呼び方でお歯黒が出てくる。“源平盛衰記”にもあるように、平家の武将もお歯黒を塗っていた。江戸時代の浮世絵には、お歯黒を塗る女性が多く描かれている。浮世絵は「玉藻前」、「暦中段つくし」、「婦女さとし種」、「時代かがみ」などがある。 |
| 資料番号 | 00020 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 明治政府は開国のあと、1870(明治3)年2月5日に“華族を対象にお歯黒と眉剃り禁止”の布告を出した。その法令や新聞記事が残されている。さらに明治6年3月2日には、昭憲皇太后自らがお歯黒、眉剃りを止められる宣言をおこなった旨の新聞記事がある。しかし、若い女性以外の庶民の間では、お歯黒の習慣は明治の終わりころまで続いた。 |
| 資料番号 | 00021 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 現存する日本で最古の木の入れ歯は、1538(天文7)年に亡くなった和歌山市願成寺の尼僧(通称:仏姫)の使っていた木の入れ歯である。当館にもいくつかの木の入れ歯がある。入れ歯は黄楊を彫刻して、前歯の見える部分は人の抜けた歯、象牙、蝋石などを上手にはめ込んである。奥歯は、銅や真鍮の釘を打って硬い食べ物も噛むことができた。その証拠に咬耗の跡がある、前記の仏姫の入れ歯は、前歯も顎の部分も全体が木で彫刻されている。又女性用のお歯黒の入れ歯も当館にある。 |
| 資料番号 | 00022 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 木の入れ歯は、仏師の手なぐさみからはじまったと云われている。奈良時代に鋳造仏が増えて、木彫仏の注文が少なくなり、仏師が失業し彫刻技術を活かして入れ歯師に転向したという。“装剣奇賞(そうけんきしょう)”1781(天明元)年には、2名の根付師が木の入れ歯を制作したという記載がある。江戸時代になると、小野玄入、長井兵助など入れ歯師という専門職ができ、抜歯や歯痛の治療などをおこなうようになった。江戸時代の木床義歯の広告、明治の開港の後、西洋から輸入されたゴム床の義歯の広告、木床義歯とゴム床義歯と両方を手掛けている入れ歯師の広告など日本の医制の変化に伴って変遷の軌跡を見ることができる。 |
| 資料番号 | 00023 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 幕末から明治初期にかけて、横浜居留地には外国人歯科医が開業した。外国人歯科医は、当時のアメリカの最新歯科材料や技術を日本に持ち込んだ。ゴム床義歯は、生ゴムに硫黄を混ぜた材料を圧力釜の中で高圧、高熱を加えて硬くしたものである。外国人歯科医の助手を通じて、技術が伝わりゴム床義歯は「西洋義歯」と呼ばれ、明治中期には「皇国義歯」と呼ばれた木の入れ歯はだんだん少なくなった。戦後、義歯の材料としてプラスチックが輸入されるまでゴム床義歯は世界中で使われていた。 |
| 資料番号 | 00024 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 「江戸名所図会」などには楊枝店の様子を見ることができる。江戸時代中期になると、歯木から現代の歯ブラシに相当する川柳、黒文字、肝木を材料に加工した房楊枝が商品化された。明治中期頃まで、庶民は房楊枝を使っていた。浅草寺の境内には、美人の看板娘を置いた楊枝店が数十軒あり賑わっていた。 |
| 資料番号 | 00025 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | インド、モロッコ、ギニアなど南方では歯木を見ることができる。古代インドで、釈迦が弟子たちに仏前に詣でる前に歯木(小枝の端を噛んで繊維を出したもの)で歯を清掃することを勧めたのが歯みがきの始まりである。釈迦が使った小枝は、菩提樹かニームであると云われている。西遊記の三蔵法師のモデルとなった中国の僧・玄奘三蔵は、インドで16年間仏教を修業し、中国に帰って歯みがきを伝えた。中国には、菩提樹の木がないため楊柳の枝を使い歯をみがいたため「楊枝」と呼ばれたという。 |
| 資料番号 | 00026 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 当館には種々の小楊枝が展示してある。房楊枝の一端の尖った部分が独立したと言われている。小楊枝、爪楊枝、妻楊枝という言い方がある。江戸時代や明治時代には、小楊枝は楊枝師による手作りであり、キセル、白魚、ウナギ、鉄砲、船の櫂、房楊枝を小型にした形態に削ったものなどがある。材料は、柳、黒文字、うつぎ、白樺、竹などである。小楊枝を使っている浮世絵も数枚展示してある。 |
| 資料番号 | 00027 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 歯みがき粉は、1625(寛永2)年、丁子(ちょうじ)家喜佐衛門が朝鮮から来た人に教えて貰い、“大明香薬砂”、“丁子家の歯磨”という商品名で売り出した。安房の国の房州砂を水飛し細かい粒子にしたものに龍脳や丁子などを加えて、紅でピンク色に染めた。歯みがきは、江戸の名物で、浅草寺の境内の楊枝店、小間物店、銭湯、歯みがき売り(百眼米吉:ひゃくまなこよねきち)などで購入した。当館には数多くの歯磨き粉の袋と広告がある。明治、大正、昭和のものも展示してある。 |
| 資料番号 | 00028 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | フロイスによる“日本覚書”、松田毅一訳1986(昭和61)年には、“われらは抜歯鋏、鉗子、鸚鵡(おうむ)の嘴(くちばし)などを用いて歯を抜く。日本人は鑿(のみ)、木鎚、弓と矢、鉄の釘抜きを用いる”とある。当館には「瘍科秘録」本間玄調著にある抜歯道具を再現したものなどを展示している。 |
| 資料番号 | 00029 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 江戸時代には、麻酔をしないで抜歯したとされている。しかし、華岡青洲は、整骨師が使っていた朝鮮アサガオ、マンダラケなどの毒薬を調合した麻酔薬(麻薬,魔薬と呼んだ)で手術をしていた。口中医や入れ歯師は、現代の表面麻酔のように、これらの薬物を調合、綿糸に染み込ませて歯の周り歯肉に押し込み時間をおいて抜歯したという。当館には「口中医書」の写本などがある。 |
| 資料番号 | 00030 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 江戸時代は、虫歯になり歯痛があると、1.神仏に祈願、2.おまじない、3.鍼灸、4.生薬などの民間薬、5.口中医や入れ歯師、香具師など口中薬などを用いた。水戸光圀が、藩医・穂積甫庵に命じて出版された「救民妙薬」、1693(元禄6)年刊には、動植物を用いた歯痛止めの薬が記載してある。 |
| 資料番号 | 00031 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 歯周病は、江戸時代には口がくさくなるため「歯くさ」とか「走馬牙疳(そうまげかん)」と呼ばれた。歯くさの薬として、昆布、あかざ、白礬、茄子のへたの黒焼、乳香、甘草を粉にしてつけるとある。口中の臭きには、びゃくしを粉にして食後水にて用いて良しとある。このような「歯草」治療の教書として「広益秘事大全」「妙薬博物筌」などがある。 |
| 資料番号 | 00032 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 奈良時代には、耳目口科として医科の一つであった。平安時代に、口科として独立し上流階級の人々を対象に治療をおこなっていた。鎌倉・室町時代には、朝廷や大名に仕えた口中医として金康安兼、本康宗硯などがいる。口中医は時代によって異なるが、江戸時代は、歯、口、喉、舌を治療対象にし、口中秘伝書数冊を検証すると入れ歯は作らなかったようである。 |
| 資料番号 | 00033 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 1865(慶應元)年10月に、アメリカ人歯科医W.C.イーストレーキが横浜居留地108番で開業したのが近代西洋歯科医学が伝来した最初である。従来、1860年に来日したと云われていたが新聞広告などにより1865年9月27日(西洋暦)に来日していることが分かった。その後、バーミンガム、レスノー、ウィン、アレキサンダー、エリオット、パーキンス、ギューリックなどが来日し、多くの日本人助手を養成し、当時始まった医術開業試験にその日本人助手たちが合格した。彼ら日本人歯科医は近代歯科医学を伝承したわけである。当館にはこれらの来日した外国人歯科医および伝承を受けた日本人歯科医の広告などがある。 |
| 資料番号 | 00034 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 1928(昭和3)年に日本歯科医師会は、第一回の“ムシ歯予防デー”を6月4日に実施した。日中戦争が始まり、健康な青年を兵隊として戦力にするため、5月2日~8日を健康週間とし、“護歯デー”とし5月4日に制定した。1949(昭和24)年、日本歯科医師会は6月1日~7日を“口腔衛生週間”と改称し、戦前は“ムシ歯予防デー”とした。これ等のポスターを見ることができる。 |
| 資料番号 | 00035 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 江戸時代の商品の宣伝広告は、引札(現代のチラシ)に平賀源内や式亭三馬などが宣伝文を書いた。看板は、商品の歯みがき粉の購買意欲を盛り上げる手段として制作された。暖簾、のぼりなどで商品を印象づけるために用いられた。看板は、文字より商品の絵、実物の模造を使用した方が効果的であった。 |
| 資料番号 | 00036 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 1800年頃の歯磨き剤は、陶材や金属の容器に入れて売られていた。入れ物の蓋に内容や特徴が表示してある。石鹸やビンロウなどを加えたものが散見される。 |
| 資料番号 | 00037 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | これらは1590年頃Antonio Perezによってスペインからフランスに伝わったとされている。歯ブラシは中国の発明でシルクロードを通ってヨーロッパに伝わったものとされている。柄は銀、象牙、動物の骨が使われている。彫刻のあるもの、両端に植毛されている物もある。当館には1800年頃のヨーロッパで使われた歯ブラシ類がある。銀製の歯ブラシなどを使った王侯、貴族たちの生活がうかがわれる。年代:1800年 |
| 資料番号 | 00038 |
|---|---|
| 情報所有館 | 歯の博物館 |
| 特徴 | 当博物館には歯石除去器が展示してある。小さな携帯用のセットは上流階級の個人用のものである。柄の長いものは歯科医用である。ちなみにアメリカの歯石取りの値段は広告によれば、3シリングから6シリングと書いてある。独立前のイギリスの植民地時代でシリングを用いている。年代:1800年 |