手織機
| 資料番号 | 00001 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 日本で古くから使われていた手織機の1つ。家内工業として木綿、絹、麻等を原料とする衣料の製造に用いられたが、明治20年(1887年)頃から自動織機の急速な発展によって次第に衰退し、今では特殊な民芸品を作るほかには、ほとんど使われなくなった。 |
| 資料番号 | 00001 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 日本で古くから使われていた手織機の1つ。家内工業として木綿、絹、麻等を原料とする衣料の製造に用いられたが、明治20年(1887年)頃から自動織機の急速な発展によって次第に衰退し、今では特殊な民芸品を作るほかには、ほとんど使われなくなった。 |
| 資料番号 | 00002 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 紡績の混綿工程で使用される生産設備の1部で、明治39年(1906年)のイギリス・プラット社製。 |
| 資料番号 | 00003 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 明治21年(1888年)に書かれた下村紡績所への伝習生(実習生)志願書。クラボウは日本では珍しく全てリング精紡機からスタートをしており、ミュール精紡機に加えてリング精紡機も設備していた下村紡績所に、伝習生の受け入れを要請した。長期間の実習を終えたこの伝習生たちはクラボウの新鋭紡機の運転にあたり、中核となって貢献し、その後、リング精紡機の使用と優れた技術力を持つ従業員の協力により、国内から品質面で高い評価を受けた。 |
| 資料番号 | 00004 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | クラボウの登録商標「三馬」。明治28年(1895年)中国向け綿糸の輸出を開始する際、品質の責任を明らかにするためにクラボウ独自の商標として、3頭の奔馬をあしらった商標「三馬」を制作した。デザインは倉敷出身で、数年間、中国に留学した画家である衣笠豪谷氏に依頼。「三」は古来中国では縁起が良い数として好まれ、「奔馬」は驀進、勇勢を表すことからモチーフに採用された。この後、クラボウの輸出綿糸も奔馬が天を翔けるような勢いで中国各地へ広がった。 |
| 資料番号 | 00005 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 創立時の第1号株券。創立総会は明治21年(1888年)に社名を有限責任倉敷紡績所とし、倉敷村誓願寺で行われた。すでに大原孝四郎を頭取(社長)に内定した旨を早々に発表していたため、大原頭取による紡績所設立を知り、クラボウの貧村救済という創設の理念に共鳴し、創立者の熱意にほだされた倉敷及び岡山県下の人々から多数の株式引受の申込があった。 |
| 資料番号 | 00006 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 明治30年(1897年)にイギリスから輸入した消防用蒸気ポンプ。綿などのワタを扱う紡績工場では、火災は会社の死活を左右し、なによりも工場で作業する従業員の生命にかかわる重大な問題だった。しかし明治時代には龍吐水・手押ポンプなど極めて貧弱な消防器具しか国内にはなかったため、クラボウは消防用蒸気ポンプを海外から購入し、またそれ以外に消防用具の整備、防火壁・防火扉の新設改修、高架水槽の設置、火災保険の契約を行い、防火体制を固めた。 |
| 資料番号 | 00007 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | クラボウの社章で、社訓「謙受」の精神をシンボライズ。人々はとかく一番になると、慢心して心が緩み退歩するので、たとえ一番になったときでも、常に二番・三番にいる気持ちで、真の一番を目指すつもりで努力せよ、という訓戒をカタチにしている。 |
| 資料番号 | 00008 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 機械紡績業が発達するまで、日本の家庭で広く用いられていた糸紡ぎ機の1つ。 |
| 資料番号 | 00009 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 意味は「満足して驕り高ぶる者は損なわれ、謙虚に努力する者は利益を受ける」で経典「書経」の一節「満招損、謙受益、時乃天道」に由来する。この言葉は、初代社長の大原家が代々家訓として伝えていた言葉で、慢心を諫め絶え間ない努力こそが会社経営の根本精神だと、社員達に説いた。 |
| 資料番号 | 00010 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 明治25年(1892年)頃の倉敷紡績所建物の模型。 |
| 資料番号 | 00011 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 大正15年(1926年)5月に摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が、当時最新の工場といわれたクラボウの万寿工場と、同工場内にあった倉敷労働科学研究所(現 大原記念労働科学研究所)をご視察された記念に制作された絵はがき。 |
| 資料番号 | 00012 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | クラボウの2代目社長大原孫三郎の執務机。大原孫三郎はその優れた経営手腕で綿紡績以外に毛紡績、レーヨン事業、金融、電力などの分野に事業を拡大した。また孤児院院長の石井十次の影響を受け、数多くの社会的貢献に力を注いだ人物だ。大原美術館、倉紡中央病院(現 倉敷中央病院)、倉敷労働科学研究所(現 大原記念労働科学研究所)などを開設し、現在も人々の文化面、社会面等で役立っている。 |
| 資料番号 | 00013 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 従業員の寄宿生活を改善した分散寄宿舎の模型。明治40年(1907年)頃は休憩や睡眠は二の次とし、会社が従業員に過酷な生活環境を強いる風潮があったが、「従業員の健全な生活を確保し、勉学にも精をだせる環境を整えることも会社として行うべき崇高な使命である」という考えのもと、第2代社長 大原孫三郎を中心に福利厚生等の改革を進めた。まずは従業員が雑居し、衛生上不備な点が多かった寄宿舎において、分散式家族的寄宿舎を建設。この施設は従業員が安らげるように少人数用に部屋が区分けされ、また学校、裁縫室、診療所、販売所、花壇やレクレーション用の舞台も設備した。(日本労働遺産認定) |
| 資料番号 | 00014 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | クラボウの従業員のために建てられた総合病院の写真。従業員のために各科診療のできる総合病院を大正12年(1923年)に創設。その後一般の方の診療にも応じ、昭和2年(1927年)に倉敷中央病院と改名。現在は1,000を超えるベット数を持ち、先進的な医療を行う病院として地域に貢献している。 |
| 資料番号 | 00015 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 倉敷労働科学研究所(現 大原記念労働科学研究所)が、作業に対するエネルギー消費の大きさを測定するために考案した労研式ガス分析器。倉敷労働科学研究所は工業化、産業化に伴って発生する労働問題について医学的、心理学的研究に基づいて改善するための施設で、工場内の温湿度と健康確保、労働衛生、生産能率向上の問題に取り組んだり、労働者の所要カロリーを割り出し、給食炊事の献立も提案。(日本労働遺産認定) |
| 資料番号 | 00016 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 大正時代の紡績・織布工程写真。 |
| 資料番号 | 00017 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 平良敏子先生より寄贈していただいた作品。平良敏子先生は、沖縄女子挺身隊の一人として、万寿航空機製作所に入所。その時、クラボウの4代目社長 大原總一郎が、勤労の傍ら沖縄の伝統織物である芭蕉布の製織技能を習得する機会を設け、平良敏子先生は、その技能を沖縄帰郷後も磨き、人間国宝になられた。 |
| 資料番号 | 00018 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | クラボウの社是で、社内の和と団結を第一とし、若手の力を十二分に発揮できる環境づくりを目指して初代社長の大原孝四郎が社是として掲げた言葉。一人一人の働きや才能が異なっていても、目的を達成するために、皆が心を一つにして互いに力を合わせて協力していこう、という意味。儒家の始祖であり、中国春秋時代の思想家、孔子の史書の代表的な注釈書「春秋左氏伝」にある一節。 |
| 資料番号 | 00019 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | 日本の主力産業であった紡績業の工場を、天皇陛下がご視察になられた時に使用した机椅子。天皇陛下が四国御巡幸の途次、昭和25年(1950年)に当時、国内でもっとも新しい代表的綿紡織工場であった北条工場へ御臨幸になられた。 |
| 資料番号 | 00020 |
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| 情報所有館 | 倉紡記念館 |
| 特徴 | クラボウの4代目社長 大原總一郎社長が後援していた棟方志功先生が工場の礼法室の襖に描いた書画。戦時中、大原總一郎社長が従業員の精神の高揚を失わないようにと、棟方志功先生に従業員の心のよりどころとなる作品を依頼。棟方志功先生は「玉琢かざれば器とならず、人学ばざれば道をしらず」の文字を書き、それに稲妻とハマナスを配した作品を襖に描かれた。これは激しい戦争中でも、ハマナスのように強く生き、美しい花を咲かせられるように勉強を続けようという意味。 |