明治初期の製紙会社の文書類
| 資料番号 | 00019 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 明治初期の製紙会社である抄紙会社、有恒社、パピールファブリックの販売日記、建築費、外国人との往復文書、製造機械類の記録である。 |
| 資料番号 | 00019 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 明治初期の製紙会社である抄紙会社、有恒社、パピールファブリックの販売日記、建築費、外国人との往復文書、製造機械類の記録である。 |
| 資料番号 | 00020 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 昭和8年(1933)、王子製紙、富士製紙、樺太工業が合併し、シェア85%の大製紙会社が誕生したが、その前年の仮調印書である。藤原銀次郎、大川平三郎の署名がある。 年代:1932 |
| 資料番号 | 00021 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 旧王子製紙販売部調査課成田潔英編。明治初めの本邦近代製紙産業創業期の抄紙会社・有恒社・パピールファブリックの各工場、担当者、お雇い外国人、辞令などの写真と製品見本が貼付けてあり、表題のように先人の努力の跡が偲ばれる貴重な記録である。写真は王子製紙について記された部分。 年代:1941 |
| 資料番号 | 00022 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 西濟(元十條製紙社長)が旧王子製紙王子工場、中部工場、気田工場の製品を収集し、原料配合、薬品配合、坪量、 抄紙機、品名、製造日付などを克明に記入したもので、当時の製品や製造条件などがわかる資料である。見本85葉。 年代:1910~1913 |
| 資料番号 | 00023 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 旧王子製紙敷香工場。紙幅1000×径850mm。昭和20年3月に樺太(現サハリン)の敷香工場で抄造された当時最高品質のクラフト紙巻取りである。戦前、樺太は日本の製紙産業に重要な役割を果していた。現存する数少ない樺太産の紙製品である。 年代:1945 |
| 資料番号 | 00024 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 木製。365×240×315mm。この書類箱は現在の日本製紙連合会が発足した当時のものである。わが国の洋紙製造業は西南戦争(1877)後から始まった不況のもと、販売不振と輸入紙との競争に喘ぎ、明治13年製紙会社(後の王子製紙)の主唱で製紙会社、神戸製紙所など同業者の11名が会合して、同業会組織を結成することを決めた。これに洋紙商も加わって同年12月製紙所聯合会が発足した。 年代:1880頃 |
| 資料番号 | 00025 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 木製。高2420×幅1515mm。パピールファブリックは明治9年(1876)京都の西郊梅津に開業した京都府営の製紙工場で、翌年には明治天皇が行幸された。(写真、門柱の脇に明治天皇行幸所製紙場の石碑がある)。 門扉にはドイツ語でパピールファブリック(製紙工場)と彫られている。 |
| 資料番号 | 00026 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 280×290×100mm。明治9年(1876)1月開業の同社の瓦。 |
| 資料番号 | 00027 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 500×300×120mm。中央製紙は明治39年(1906)岐阜県中津町有志の懇請により渋沢栄一、大川平三郎等が設立し、大川平三郎が支配人兼工場長として明治41年に操業を開始した。大正15年に樺太工業と合併した。現在は王子製紙中津工場として操業している。この鬼瓦は大正10年頃事務所建設の際に作られたものである。 年代:1921頃 |
| 資料番号 | 00028 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 380×190×190mm。樺太(現サハリン)恵須取町の大平炭鉱(王子製紙直営)の瀝青炭で、良質なことから目無し炭と称された。この石炭は日本各地から朝鮮、満州と王子製紙系の各製紙工場に送られ盛んに使われた。戦時中、タバコのパイプやブローチにも加工されて使われた。 年代:1935~1944 |
| 資料番号 | 00029 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 紙は可燃物であるので製紙工場は当初から防火、防災に留意していた。左は旧王子製紙王子工場第二工場建設当時の消火用スプリンクラーヘッドで、わが国で最初のものである。左は明治20年代頃のもの。右は同じ工場の建物に設置されていたものと思われるが1924年の刻印が入っている。いずれも輸入品と推定される。 |
| 資料番号 | 00030 |
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| 情報所有館 | 紙の博物館 |
| 特徴 | 青銅製で、中世ヨーロッパのライン河畔の紙漉所内の情景をデザインしたもの。和紙についても造詣が深かったドイツの著名な紙の歴史研究者アーミン・レンカー氏より、特に紙の博物館のために寄贈されたことが、下部に刻印されている。 年代:1955 |
| 資料番号 | 00051 |
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| 情報所有館 | 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム |
| 特徴 | 全長26.3メートルもある10分の1戦艦「大和」は、設計図や写真、潜水調査水中映像などをもとに、可能な限り詳細に再現。大和ミュージアムのシンボルとして平和の大切さと科学技術のすばらしさを後世に語り継いでいる。 |
| 資料番号 | 00052 |
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| 情報所有館 | 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム |
| 特徴 | 呉で建造された記念すべき最初の艦艇で、4年10ヶ月の期間をかけて建造された。偵察機やレーダーがない当時、通報艦は敵艦隊の情勢を偵察し、味方へ通報する役割を担っていた。日露戦争中の1904年5月14日、中国遼東半島の旅順沖で機雷にふれ沈没。 |
| 資料番号 | 00053 |
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| 情報所有館 | 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム |
| 特徴 | 製鋼や大砲を製造する技術など、全てを国産の技術により建造された最初の主力艦で、日本の近代造船技術史上特筆される艦。日露戦争初頭、戦艦「八島」「初瀬」が機雷にふれ沈没したため、その代艦として日夜兼行で建造されたが、戦争には間に合わなかった。1917年1月14日、横須賀において火薬庫の爆発事故のため沈没。艦名は、茨城県筑波山に由来する。 |
| 資料番号 | 00054 |
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| 情報所有館 | 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム |
| 特徴 | 八八艦隊計画の最初の戦艦として建造される。新造時では煙突が2本だったが、その後改装され1本となる。模型はレイテ沖海戦時の状態を再現したもの。「長門」は終戦まで生存した唯一の戦艦だったが、1946年7月1日に南太平洋ビキニ環礁でアメリカの空爆実験に供せられた。その後引き続き行われた原爆実験(水中爆発実験)によって沈没した。 |
| 資料番号 | 00055 |
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| 情報所有館 | 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム |
| 特徴 | 八八艦隊計画で巡洋戦艦として起工されたが、ワシントン海軍軍縮条約で空母に変更された。新造時には飛行甲板は三段式だったが、改装され一段式となった。太平洋戦争では真珠湾攻撃などに旗艦として活躍したが、1942年6月6日ミッドウェー海戦の折、アメリカ海軍空母機の爆撃を受け大破、翌日海沈処分。 |
| 資料番号 | 00056 |
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| 情報所有館 | 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム |
| 特徴 | 電気溶接構造を広く用いて建造された。新造時の主砲は15.5cm砲だったが、後20.3cm砲に換装された。しかし、「艦艇類別」では二等巡洋艦のままだった。1944年10月25日、レイテ沖海戦で被弾大破し、海没処分された。模型は最終時の航空巡洋艦の状態を再現している。 |
| 資料番号 | 00057 |
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| 情報所有館 | 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム |
| 特徴 | 丙型と呼ばれるタイプの潜水艦で、水上機を搭載しないかわりに、魚雷発射管を8門に強化した。真珠湾攻撃やアフリカのディアゴスアレス攻撃には、二人乗りの特殊潜航艇「甲標的」を後部甲板に搭載する母艦となった。1944年5月19日に、ソロモン諸島北方方面でアメリカ海軍駆逐艦の攻撃を受け沈没する。 |
| 資料番号 | 00058 |
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| 情報所有館 | 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム |
| 特徴 | 乙型と呼ばれるタイプの潜水艦で、小型の水上偵察機を1機搭載した。最初の回天特攻部隊「菊水隊」の回天4基を後部甲板に搭載し、1944年11月8日に呉を出撃したが、同月19日に南太平洋パラオ諸島方面で、アメリカ海軍駆逐艦の攻撃を受け沈没した。 |