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大浦川上流より見る大浦川と大浦居留地

大浦川の中流域には、古くからの藁葺(わらぶ)きの農家に加えて、おそらくは居留地関連の仕事に従事する瓦葺きの民家が早くから密集していたようである。一番手前の家に大量の洗濯物が干されているのもその例であろう。現在の大浦東町から川上町にかけてである。しかし上流部はまだ棚田や段々畑のままであった。川上町の大浦国際墓地付近から撮影されている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.4cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


大波止沿岸

出島の西端から江戸町、大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期。極めて鮮明な写真である。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18(1885)年から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.4cm)

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東山手の十二番館

明治元(1868)年に再築された東山手12番館。文久元(1861)年からアメリカのウォルシュ商会が入居し、慶応元(1865)年までアメリカ領事館。再築前年の慶応3(1867)年までは、社員が領事となり、プロシア領事館であったが、明治初年にはロシア領事館になっていた。翻っている旗がいずれのものかは判明しないが、建物の新しさからすれば竣工直後の撮影であろう。この12番館は木造ながら、幅広いヴェランダが3面に付き、領事館らしい堂々とした外観である。外壁の下見板張りはわが国最古の例。背後の丘には何も建っておらず、十人町の民家の屋根が覗く。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.4cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


大浦川と居留地

明治6(1873)年頃の撮影。大浦川口から上流の川上町外国人墓地を望む。右手左岸は右端の洋館が下り松40番の雑貨商のレーキ商会。その横の入母屋造りは洋館で37番旧エキスプレスの後部で、その横の二階建て2棟は36番のホテルとロンドン居酒屋。川幅が狭まる場所の、白壁の家が35番のニュー・クラブハウス(ボウリング・玉突き場)である。左側右岸は手前から大浦14、15番(空き地)で、道を挟んで大浦29-31番と続く。この一帯はグラバー商会かオルト商会の貸地として又貸しされていた。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×26.2cm)

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松ヶ枝橋と大浦居留地

明治3(1870)年に創架された初代の松ケ枝橋(当時は下り松橋と呼んだ)は、画面で鮮明に見えるように中央に石積みの橋台を置き、そこから3本の束を立てて支える木製の桁橋であった。よく見ると欄干には地覆(土台)がなく、手すりごと所々に止め金を巻いて桁に固定していたことが分かる。橋の背後のアーチ型ヴェランダ装飾がある洋館は大浦11番Aの三角地に、隣の大きな寄棟屋根の洋館は同11番地に建っていた。後者の前面には屋上をテラスとした平屋部分が延びている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×27.8cm)

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中島川と桃渓橋

桃渓橋は堂門川に、延宝7(1679)年、永島仁左衛門こと僧ト意(ぼくい)が架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。この写真は大井手橋の上から中島川二股を撮影したものである。右側人家後ろの樹木は、伊勢宮神社の楠の大木である。堂門川と銭屋川(中島川)の合流点角の岸には川へ下りる階段が設けられている。写真左側には、手前から白壁の蔵、唐船海上安全祈願灯、松の大木、不動明王堂等が見え、江戸時代の名残をとどめている。
(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.6cm)

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中島川と高麗橋

左側白い塀のところが伊勢宮神社、後ろに武功山の稜線、川には高麗橋、その奥に阿弥陀橋、右側は八幡町である。堂門川と合流する直前の銭屋川(中島川)の風景である。出来大工町の不動明王堂のところからの撮影で、高麗橋の袂の伊勢町側に明治4(1871)年に建設された街灯が見えないことから、明治初年頃のものと思われる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.8cm)

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伊勢の宮神社

明治6(1873)年頃、長崎伊勢町37番地にあった伊勢宮神宮を正面から撮影している。石橋は中島川に架かる高麗橋である。この神社はキリシタン時代に荒れていたが、寛永16(1639)年に伊勢宮として再興された。諏訪、松の森とともに長崎三社の一つ。明治元(1868)年1月に長崎奉行の江戸への脱出後、薩・長・土・肥の藩士の会議所政事となった。代わって長崎総督に就任した沢宣嘉の国道発揚により優遇される。右の街灯、門下の可動式椅子、髷の男性に維新直後の雰囲気が感じられる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.8×28.4cm)

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中島川と阿弥陀橋

左岸に伊良林の水神社の森、川の下流に阿弥陀橋が見える銭屋川(中島川)の風景である。阿弥陀橋は、伊勢町-八幡町間の長さ13.4m、幅4.5mの唐風石橋である。元禄3(1690)年、貿易商人園山善爾の喜捨で架けられた。橋の袂に阿弥陀堂があるため阿弥陀橋、別名極楽橋とも呼ばれた。江戸時代、西坂で処刑される罪人が市中引回しの際に必ずこの阿弥陀橋を渡り、極楽浄土を願ったことに因んで極楽橋と呼んだと言われる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.8cm)

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上野彦馬邸と中島川

左側の白い武家塀の家が上野彦馬邸(上野撮影局)、その手前大きな屋敷が東京の湯島・佐賀の多久と共に日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂である。その対岸の樹木が見える所が伊良林の水神社で、江戸時代に上水道として敷設された倉田水樋の水源に近い。上野彦馬邸には明治5(1872)年頃新築された2階建ての写場が見える。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×25.8cm)

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