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亜鉛華製造用坩堝(るつぼ)

当社の前身「光明社」は明治12年(1879年)鉛中毒を起こさない、亜鉛華を主原料とする「無毒おしろい」(亜鉛華=酸化亜鉛=白色顔料)の製造に成功したのが起業のきっかけでした。その製法は、炭火の上にこの坩堝を置き、その上に素焼きの皿を重ねて砕いた亜鉛の地金を乗せ、溶けた段階で皿を割って中に落とし、それがジューンと蒸発したのを回収するというものでした。年代:1881

情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中) 


水簸用木製鉢

「錆止め顔料:光明丹」は鉛を高温で溶かし、さらに焼成してオレンジ色に発色させる方法で製造されていました。溶けた鉛の一部は燃料(石炭)の中に弾け落ちるので、冷えたあとにそれらを水を入れた鉢に移して廻し、鉛を分けて回収していました。年代:1881

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内製した28ポンド鉄丸缶

明治から大正時代にかけて、舶来塗料はおもに28ポンド(12.7kg)の丸缶で流通していました。国産塗料工業の鼻祖である当社は、国産品への切り替えを促進するため、使用済舶来容器を再利用し、後には容器をそれらに模倣し、社内で製造していました。年代:1887

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木製56ポンド樽

たくさん使われる塗料は、56ポンド入り木製樽を容器としてを販売していました。 品名表示等は天蓋に舶来の塗料を模倣して英語表記していました。年代:1912

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スピードラインミル

塗料は、顔料・樹脂・溶剤・添加剤で構成されています。これらを細かく砕くため高速回転する上下の石臼の100μm前後の隙間を通します。スピードラインミルは、米国モアハウス社から伝わりました。写真のミルは、同じ方式の国産品です。昭和32年(1957年)から昭和55年(1980年)まで使用されており、一時間あたり2t の粉砕ができました。年代:1957

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石材ロールミル

回転するローラーの間に材料を入れ、細かく砕く装置をロールミルと呼びます。この方式は明治36年に英国から輸入されました。本機は大正10年(1921年)に製造された特殊雲磐製の国産機で、昭和47年(1972年)までの約50年間使用されました。当時はひとつのモーターからベルトによって数台を駆動させる連動式になっていました。年代:1921

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改良特許鋼製第1号金庫

東京銀座尾張町にあった山田金庫店特製の金庫、昭和50年代まで使われていました。「改良特許鋼製第1号金庫」と銘記されています。年代:1935

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カーチス号

本田宗一郎が自動車修理工場のアート商会で修行中に、主人の榊原郁三らとともに製作したレーシングマシン。米国ミッチェル製のシャシーに、複葉機カーチス・ジェニーのV8エンジンを搭載。乾式多板クラッチやギヤ類は手作りとなっている。本田宗一郎は榊原郁三の弟・真一が運転するマシンに、点火時期の調整役として助手席に同乗し、大正13年の自動車競技会で優勝した。年代:1924

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自転車用補助エンジン

本田宗一郎が第2次世界大戦後、旧陸軍が放出した無線機用小型発電機のエンジンを改造し、補助エンジンとして自転車に装着。エンジンは自転車の三角形のフレームの中に吊り下げられ、Vベルトを介して後輪スポークに取り付けられたプーリーに動力を伝える仕組みで、途中に設けられた手動式のベルトテンショナーはクラッチの役目も果たし、普通の自転車としても使えるように工夫されていた。年代:1946

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A型

ホンダの名が付けられた、最初の自社製自転車用補助エンジン。2サイクルロータリーバルブ、50ccのエンジンは、市販の自転車に簡単に取り付けられることから好評を博した。A型を製造していた浜松の野口工場はフル稼働の状態となり、1951年まで生産が続けられた。年代:1947

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