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ホームクーラー(W-31)

当社ルームエアコン第1号。 1958年, 資料サイズ:630mm×410mm×460mm, 販売価格:125,000円, 品名:エアコン

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電気自動炊飯器(SR-18)

当社炊飯器発展の原点。 1959年, 資料サイズ:340mm×250mm×275mm, 販売価格:4,500円, 品名:炊飯器

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シリンダー型電気掃除機(MC-8)

当社掃除機躍進の原点。 1958年, 資料サイズ:440mm×140mm×165mm, 販売価格:13,800円, 品名:掃除機

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17インチカラーテレビ(K17-30)

当社テーブル型カラーテレビ第1号。 1960年, 資料サイズ:750mm×628mm×650mm, 販売価格:370,000円, 品名:テレビ

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トランジスタラジオ「ゴールデン・エイト」

第12回ミラノ・トリエンナーレ展金賞受賞。 1960年, 販売価格:11,500円

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VHSホームビデオ「マックロード」NV-8800

松下電器VHS方式ビデオ第1号。 1977年, 販売価格:268,000円

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電気カミソリ MS-28

往復刃メンズシェーバー。 1959年, 販売価格:4,000円

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タクシー無線 車載用ユニット

B2Bビジネスの先駆けとなった業務用無線システム。 1958年

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超小型テレビ TR-001

当時世界最小(1.5インチ)のテレビ。 1969年, 販売価格:99,000円, 大阪万博の「タイムカプセル」にも収納されています。

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試作テレビ第一号

12インチのブラウン管を使用。 奥行きが長いので、ブラウン管を縦に置き、上面に45度の角度に配置した鏡で反射させて視聴しました。 1938年

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日本初の白熱電球

藤岡市助(当社の創業者)は、1884年(明治17)に渡米してエジソンが発明した白熱電球の製造工程をくわしく見学し、国産電球製造を深く心に期した。1890年(明治23)に白熱電球の製造販売を目的として、「白熱舎」(当社の前身)を京橋槍屋町に設立した。社長には同郷(現:山口県岩国市)の三吉正一が就任した。最初は木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソンが日本の竹を用いたと聞き、竹フィラメントの白熱電球を日本で初めて製造した。年代:1890年

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日本初の電気扇風機

電気扇風機が日本に初めて輸入されたのは1893年(明治26)である。翌1894年(明治27)に芝浦製作所(当社の前身)は、直流エジソン式電動機の頭部に電球をつけた国産第一号の電気扇風機を製造した。白熱電球が登場して間もないころに、スイッチ操作一つで、頭部に電灯がともり、同時に風が出る扇風機は、真っ黒で分厚い金属の羽をつけた頑丈なものだった。年代:1894年

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電気ストーブ C-7441

芝浦製作所(当社の前身)が暖房用電熱器をはじめて製作したのは、台所用電熱器と同じころの1915年(大正4)で、ストーブや電球を利用した湿潤器がその初製品である。このころのストーブは発熱体として、ニクロム線ボビン式や熱板式が使われ、対流式のものが大部分であった。また、外観も鋳鉄を使って美術的につくられ、高級装飾品として室内に調和するよう洋風および和風趣味を盛り込んだ豪華なものが多かった。年代:1915年

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日本初のギバX線管

東京電気(当社の前身)がX線管の研究に着手したのは1914年(大正3)のことで、当時第一次世界大戦が勃発してドイツからの輸入が途絶えた為である。その頃、実験室(後のマツダ研究所)では真空管の特殊材料の研究が成果をあげており、電球製造用の排気設備や熟練した製造技術もあり、1915年(大正4)に国産初のX線管を完成し、ギバX線管と命名した。ギバとは釈迦の弟子で名医と名高かったギバ尊者から名づけられている。年代:1915年

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日本初の単相積算電力計 I-14形

1907年(明治40)頃から家庭用電灯が急速に普及し、点灯料金の公平を期すため、定額料金制から従量料金制への変更が促進され、1910年(明治43)には電気測定法が公布された。当時、まだ国産の積算電力計はなく、米国GE社などの輸入品に頼っていた。そこで東京電気(当社の前身)は、電球で技術提携をしていたGE社から積算電力計の技術導入を行い、1915年(大正4)に国産初の単相2線式積算電力計(I-14形)の型式承認を得た。年代:1915年

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三相積算電力計 D-6形

日本初の単相積算電力計(I-14)は、GE社の設計によるものであり、また大部分の部品もGE社から輸入していたことから、GE社と同じ形名で1915(大正4)に製造・販売することになった。翌年の1916年(大正5)には三相積算電力計(D-6)が型式承認され、これもGE社の設計であった。以来、当社の単相積算電力計の形名に“I”を、三相積算電力計に“D”を用いているのは、こうした経緯があったからである。年代:1916年

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日本初の三極真空管(オージオンバルブ)

東京電気(当社の前身)は、1916年(大正5)に日本初の三極真空管(オージオンバルブ)を完成した。これは米国のド・フォーレが実用的な三極真空管を完成してから10年目である。その後、UF101、UF102などの生産が始まり、1923年(大正12)の関東大震災の打撃を克服して完成したUV-199は、初めてトリタンを陰極とした本格的な真空管で、翌1924年(大正13)に始まったラジオ放送の受信用主力管となり、同年末には月産1万本に達したと記録されている。年代:1916年

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現存する日本最古の特別高圧油入開閉器

日本で最初の高圧開閉器は、接点を油の中で開閉する油入開閉器で、輸入品が採用されていた。明治後期、芝浦製作所(当社の前身)が米国GE社から技術を導入し、高圧油入開閉器を日本で最初に国産化した。現存する最古の図面は、1902年(明治35)製図の品川電燈向け油入開閉器に遡る。写真は、現存する最古の特別高圧油入開閉器で、1917年(大正6)に王子製紙(株)苫小牧工場第1変電所に納入された3相E-2形油入開閉器の1相分である。年代:1917年

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日本初のクーリッジX線管

東京電気(当社の前身)の実験室に於いて日本初のギバX線管の完成に先立つこと2年、即ち1913年(大正2)に米国でクーリッジX線管が発明された。早速、当社の研究所に於いてこのクーリッジX線管の材料の自給と製作方法の研究に着手し、遂に1920年(大正9)にU型クーリッジX線管の製作に成功した。続いて1921年(大正10)にS型、1924年(大正13)に深部治療用H型、翌1925年(大正14)にR型、及び分析用水冷式三型を相次いで完成した。年代:1920年

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世界初の二重コイル電球

米国GE社のラングミュア博士によるガス入り電球の発明で、タングステン電球の寿命を延ばすことが可能になった。窒素やアルゴンなど不活性ガスがタングステン線の表面を包み、線の直径が太いほどガス損失が少ないことが発見され、直線をコイルに巻き有効直径を太くするコイル状タングステン線が考案された。1921年(大正10)に東京電気(当社の前身)の三浦純一技師は、従来の単一コイルをもう一度コイル化した二重コイル電球を世界で初めて試作した。年代:1921年

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電気アイロン

芝浦製作所(当社の前身)が初めて電熱器具類を製作したのは明治の末期で、わが国での家庭電気器具開発の草分けである。当時は電熱器に使われるニクロム線や電熱器の多くは輸入品であった。その後、電熱器の便利さが世間に認識され、需要が増してきたので、1915年(大正4)に電気アイロンなどを生産するようになった。写真の製品は、1922年(大正11)頃に製造された電気アイロンで、ハンドルは木製、台は陶器製である。年代:1922年頃

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真空管式ラジオ受信機 ジュノラ1A

1925年(大正14)3月に東京放送局が芝浦に開設され、わが国最初のラジオ放送が始まった。芝浦製作所(当社の前身)では早速ラジオ受信機の開発を進め、感度高く、遠距離に使用し得る無線受信機の研究および単球受信機、二球可聴周波増幅器、三球受信機等の研究開発によって、同年中頃にサイモトロンUV-199を1球使った真空管式受信機(ジュノラ1A)を発売した。その後、ジュノラⅡA/ⅢA型の受信機を開発し、市場に出すに至った。年代:1925年

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世界初の内面つや消し電球

ガス入り電球の出現で、電球の効率は高まり、光源の光度が強くなり、その表面輝度は高くなった。その為、眩しさが一般照明の大きな問題となった。最初はガラス球を外面からつや消しする方法が取られたが、表面が汚れ易く、従って光の透過も急速に減少するという欠点を持っていた。そこで、当社の不破橘三技師がガラス球の内面をつや消しすることに着眼し、研究を進め、苦心努力の結果、1925年(大正14)にガラス球の強度においても遜色の無い内面つや消し電球の製作に成功した。年代:1925年

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携帯用ラジオ受信機 サイモホンC型

1923年(大正12)に放送用施設無線電話規則が制定され、東京電気(当社の前身)は、ラジオ・アマチュアのために真空管UV-200、UV-201を開発し、「電波の器」を意味する「サイモトロン」の名称で販売した。1925年(大正14)3月に東京放送が芝浦でラジオ放送を始めると、さっそくラジオ受信機の開発を進め、1926年(大正15)に真空管UV-199を使用した携帯用ラジオ受信機「サイモホンC型」を製作し、当時の価格224円20銭で発売した。年代:1926年

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送信用真空管(ブライオトロン) UV-204A

東京電気(当社の前身)は、1919年(大正8)に逓信省から特命を受け、国産初の送信用真空管(ブライオトロン)を製作納入した。これはガラス枠にタングステン線を巻いて陽極とし、入力30ワット程度で、短距離ながら無線電話送信用に使われた。その後、1926年(大正15)に短波用送信管SN-204、SN-208を製作した。また同年、トリウムタングステンフィラメントを使用したUV-203A、UV-204Aを試作した。年代:1926年

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日本初の電鉄用鉄製水銀整流器

水銀整流器とは、内部を真空に排気した鉄製容器内に水銀を陰極とし黒鉛の円柱を陽極として封じ込み、水銀アーク放電を利用して交流を直流に変換する装置である。芝浦製作所(当社の前身)は、鉄製水銀整流器の鉄槽構造、真空装置、陽極および陰極導体の絶縁と気密性の維持などゼロからの研究を行い、1927年(昭和2)に国産初の600V、300kW電鉄用鉄製水銀整流器を完成、盛岡電灯の花巻温泉電軌鉄道花巻変電所に納入した。年代:1927年

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エジソン直筆署名入りポートレート

1930年(昭和5)に渡米する東京電気(当社の前身)の山口社長は、電灯50年記念会(代表:社団法人電気協会の井上会長)からエジソンに進呈する記念メダル、照明学会の名誉会員推薦状を託された。エジソンは病気療養中で直接面会は出来なかったが、後にエジソンから山口社長に贈られた1930年(昭和5)4月12日付の直筆署名入りポートレイトである。その後、電灯50年記念会は1931年(昭和6)10月18日のエジソン永眠を機に京都石清水八幡宮にエジソン記念碑を建設した。年代:1930年

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エジソン直筆署名入り感謝状

1930年(昭和5)に渡米する東京電気(当社の前身)の山口社長は、電灯50年記念会(代表:社団法人電気協会の井上会長)からエジソンに進呈する記念メダル、照明学会の名誉会員推薦状を託された。エジソンは病気療養中で直接面会は出来なかったが、後にエジソンから山口社長に贈られた1930年(昭和5)4月12日付の直筆署名入りの感謝状である。その後、電灯50年記念会は1931年(昭和6)10月18日のエジソン永眠を機に京都石清水八幡宮にエジソン記念碑を建設した。年代:1930年

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日本初の電気洗濯機 Solar A型

1930年(昭和5)に芝浦製作所(当社の前身)が国産第一号の撹拌式電気洗濯機“ソーラー(Solar)”の製作を開始した。自動絞り機付きの洗濯機本体は、米国ハレー・マシン社から技術導入するとともに、撹拌翼はアルミ中空体の3枚羽根が上から下に向かって20°の傾斜があるGE社の技術を採用し、最先端技術を駆使した製品であった。洗濯容量は6ポンド(約2,7Kg)で、価格370円と高く、とても一般家庭では購入できなかった。年代:1930年

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日本初の電気冷蔵庫 SS-1200

1929年(昭和4)に芝浦製作所(当社の前身)が、米国GE社製をモデルに研究開発を始め、翌1930年(昭和5)に日本初の密封型家庭用冷蔵庫(SS-1200)を東京工場(現:JR大井町駅前)で完成した。この冷蔵庫は、内容積125リットル、重量157キロと金庫を思わせる堂々たる風格であり、モニタートップと称する圧縮機・凝縮器・制御装置その他一式がキャビネットの上に露出しているのが特徴であった。年代:1930年

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日本初の写真用閃光電球

1929年(昭和4)にドイツ人ヨハネス・オステルマイエル氏によって閃光電球が完成し、わが国でも1931年(昭和6)に東京電気(当社の前身)がマツダ閃光電球として製作した。外形はマツダ白熱電球100ワットと同一で、口金はエジソンベースである。硝子球の中に低圧純粋酸素とアルミニュームの極薄箔があり、発火用の口金から来た2本の電線の先に極短い加熱される抵抗線がある。この抵抗線條が加熱されて薬品に火が付き、アルミニュームの箔が60分の1秒位強烈に燃焼し、発する光度は実に20万燭光となる。年代:1931年

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日本初の電気掃除機 VC-A型

1931年(昭和6)に芝浦製作所(当社の前身)がGE社製をモデルに開発した日本初のアップライト型真空掃除機VC-A型である。価格は110円で当時の大卒初任給の2ヶ月分に相当した。この掃除機の吸込用床ブラシとモータが一体化した先端部には走行車輪がつき、軽く手で押すだけで掃除が出来るよう工夫されている。掃除機の性能を左右する集塵袋は、埃を濾過させるフィルター効果と通気性を考慮し、布を縫い合わせた袋状になっており、アルミ金具で押さえてある。年代:1931年

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マツダオリオン電気蓄音機 800号

1933年(昭和8)に発売されたマツダオリオン電気蓄音機800号は、ラジオ受信機と電気蓄音機併用の高級品として専門音楽家の推奨を受けた。ラジオ受信機としては、電源整流管などにマツダ真空管を使用して、清澄な音色と豊富な音量とを提供している。更に、電気蓄音機としては優良なるピックアップを用い、レコードの再生を低周波増幅器で拡大しており、これに速度調節器、自動停止装置等が付随している。年代:1933年

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世界最大級のラジオ放送用送信管 UV-171

満州事変が始まると、無線通信装置の製作は各方面とも多忙をきわめ、放送機も一段と出力が増大された。放送機の基幹となる送信管についても、1934年(昭和9)に150kW放送機用の陽極損失250kWの水冷三極管UV-171を完成し、戦前の送信管製作史上に一大隆盛期をもたらした。UV-171は全長165cm、最大直径25cmの送信管で、設計から製作まで当社独自の方法によったもので、当時は世界最大級に属するものである。この送信管は1936年(昭和11)に完成した東京中央放送局の150kW放送機に使用された。年代:1934年

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日本初のタイムスイッチ

当社がタイムスイッチをはじめて製作したのは、1934年(昭和9)のことである。最初の製品はマークタイムスイッチと呼ばれるゼンマイ式のもので、わが国での第一号器でもあった。第二号器はミゼットモータを使用した電気時計セレクトスイッチで、12時間内の任意時刻に動作できるようにしたものである。戦後になってマークタイムスイッチの生産を再開し、1954年(昭和29)に開発した新器種は色彩豊かなプラスチックを用いたので家庭電化のイメージに合い,好評を博した。年代:1934年

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日本初のテレビ用撮像管(アイコノスコープ) 7015

当社が1935年(昭和10)に完成した日本初のテレビ用撮像管(アイコノスコープ)を1953年(昭和28)のテレビ放送開始に合わせてフィルム送像機(テレシネ)用に商品化した撮像管である。当時は、ニュースなどは映画フィルムで撮影し、放送局で現像したフィルムをフィルム送像機(テレシネ)で撮像送信した。この撮像管を用いたフィルム送像機の光陰極は世界の注目を浴びた高感度の材料(Ag-O-Cs)である銀セシウム光電膜を採用し、日本のテレビ時代を先駆けた。年代:1935年

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放送機用熱陰極水銀蒸気格子制御整流管(サイラトロン) TV-926

1935年(昭和10)に200kW大電力送信機に使用する増幅管とともに、大形水銀整流管を完成した。また放送機用の熱陰極水銀蒸気格子制御整流管(サイラトロン)TV-926も完成したが、これは当時の150kW送信機の電源用整流管としては最大逆耐電圧18000V、最大平均電流30Aという世界屈指の大容量のものであった。1937年(昭和12)、東京放送局に据え付けられ、大電力電源として鉄槽型整流管と比較使用した結果、動作堅実、信頼度大なることが確かめられた。年代:1935年

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日本初の蛍光ランプ

米国GE社のインマン博士が発明した蛍光ランプが実用化されたのは1934年(昭和9)である。東京電気(当社の前身)は、早急に事業化しようと、1939年(昭和14)に3名の技術者をGE社に派遣し、直接インマン博士から技術指導を受け、翌1940年(昭和15)に少量ながら日本で初めて蛍光ランプの製作に成功した。すべての部品が手作りであり、GE社のインストラクションを頼りに試作が進められ、4本足の真空管のベースを取り付けて完成させた。年代:1940年

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法隆寺壁画模写に使用された蛍光灯スタンド

大和法隆寺の金堂は世界最古の木造建築であるが、大改造を要する時期となり、その壁面にある有名な壁画を模写して、後世に残すため、1940年(昭和15)8月から模写事業が開始された。金堂の内は、晴天でも1ルクス以下という暗さで、照明には輻射熱の少ないこと、光色が昼光と同じであること、電力が少ないこと、紫外線の少ないことの4条件が要求されたが、丁度当社の蛍光灯が完成した時であり、早速これが利用された。初点火は8月27日で、この日和田画伯の最初の一筆が下ろされた。年代:1940年

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三笠宮殿下に献上された蛍光灯スタンド

1941年(昭和16)5月24日に三笠宮殿下が東京芝浦電気株式会社マツダ支社をご訪問され、光栄を記念して蛍光ランプスタンドを献上した。スタンドの笠はチーク材仕上げの木製にて、20Wの蛍光ランプ1本及び付属起動装置を収納したもので、電灯器具課の設計になるものである。また、同年12月9日に海軍省軍令部を訪ね、楠製漆塗りの15W昼光色蛍光灯スタンドを高松宮殿下に献上した。これに引き続き天皇、皇后、皇太子殿下など皇室関係者にも献上した。年代:1941年

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万能真空管「ソラ」

海軍の航空用万能五極管として1943年(昭和18)に日本無線のFM-2A05Aが制定された。これはテレフンケン社のNF-2に近い構造を持ち、万能管としての性能も優秀で、機械的に頑丈であったが、量産の点で問題があった。海軍は当社にも生産するようにと要求したが、当時の技術本部長西堀栄三郎(後の第一次南極越冬隊長)は製造の難しいことを理由に了承せず、当時すでに航空機用に使われ始めていた「RH-2」を原型とした「ソラ」の開発に成功し、納入した。年代:1943年

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万能真空管「ソラ」組立作業教本

日本無線の万能真空菅(FM2A05A)は、量産が難しく絶対数が不足していた。その為、海軍からの依頼を受け、当社は航空機用として使われていたGT管(RH-2)を原型に、1943年(昭和18)に「ソラ」の開発に成功した。「ソラ」は大量生産できることを前提に設計され、材料も極度に不足している状況から「トタン屋根を剥しても作れる」ように考えられ、素人にもわかり易い製造マニュアルを作成して「新橋の芸者を集めてでも製造可能」と言う優れたものだった。年代:1943年

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ガラス製水銀整流器

1947年(昭和22)に製作されたガラス製水銀整流器で、形状から「タコ」と呼ばれた。陰極は水銀溜であり、封入気体は主として陰極より蒸発する水銀蒸気である。この水銀整流器は点弧装置等の付属装置を必要とするため、余り出力電流の小さい範囲はセレン整流器などが使われ、20A以上が適用範囲である。また最大電流容量は当時の製作技術では400Aであるが、欠点はその構造上機械的に弱く、400A以上のものを製作することは困難であった。年代:1947年

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日本初の5球スパー全波ラジオ受信機 ZS-1007

全波受信機は、超高級品であるという観念を打破しようと、小型で普及型として1948年年(昭和23)に発売された日本初のスーパーヘテロダイン式全波ラジオ受信機である。当時の米国と同じGT管シリーズを使用した世界標準の性能で、部品に対しても、バンド切換スイッチ、電解コンデンサー、スピーカー等の他、0,01μF程度のバイパスコンデンサーにはチタン酸バリウムの極めて小さなものを使うなど、積極的に最新の技術を取り入れている。年代:1948年

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日本初の小型撹拌式免税洗濯機  P型

戦後の洗濯機の生産は、主に進駐軍向けとして再開されたが、価格も高く、とても庶民には手の届かない商品であった。そこで何とか日本の家庭に洗濯機を普及させようと、1952年(昭和27)に価格3万円を切る小型撹拌式洗濯機P型を発売した。また、その年の物品税(贅沢税)の改正で、消費電力が100W以下のこのモデルは日本で初めての免税洗濯機となり、「P型」の愛称で大ヒットした。翌年1953年(昭和28)は、電化元年と呼ばれている。年代:1952年

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強制空冷3極送信管 8T71R 

1951年(昭和26)民間ラジオ放送の開始とともに、中波放送機用各種送信管の製作が盛んになり、陽極損失25kWの強制空冷三極管8T71R(文化放送50kW、NHK福岡、札幌の100kW放送機に使用)を完成した。この8T71Rは、RCA―5671と互換性を有する大型強制空冷3極管で、従来この種大型管では、試みられなかったトリウム・タングステン・フィラメントを使用し、グリッドを板封じにし、高周波の動作安定をはかってある。年代:1953年

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東芝7吋テーブル型テレビセット 73A型

1953年(昭和28)2月1日のNHK東京テレビジョン局の開局で、わが国で初めてのテレビジョン本放送が開始された。テレビが珍しい時代から、家庭でテレビが使用される時代となり、この目的にそって作られたのが本機で、いわば家庭用の普及型小型テレビセットである。ブラウン管は、7インチ電磁型180C-B4を使用し、使用真空管は16球である。本機は小型にも拘らず、大型同様の性能を有し、家庭用としてのあらゆる条件を備えている。年代:1953年

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テレビ用角型ブラウン管(静電集束) 14HP4

当社のブラウン管の歴史は1924年(大正13)に測定用ブラウン管を製作した時に始まった。浜松高等工業学校で進められた高柳健次郎博士の研究も、当社のブラウン管(光電管)を使用して行なわれた。戦後、1953年(昭和28)のテレビ放送の開始に備え、RCA社との技術提携やブラウン管製造部門の整備を行い、角型ブラウン管(電磁集束)14CP4の量産体制に入った。1954年(昭和29)に角型ブラウン管(静電集束)14HP4を完成し、テレビセット価格の低減に寄与した。年代:1954年

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日本初の計数形電子計算機 TAC

当社が製作した最初の計数形電子計算機は、1954年(昭和29)3月に東京大学に納入したTAC(Tokyo Automatic Computer)である。当時、マツダ研究所では電子計算機の将来性に着目して、その研究を行なっていた。TACはブラウン管の静電的記憶装置を有し、真空管式の演算回路によるもので、長寿命の真空管7,000本、記憶装置のブラウン管16本、安定電源整流器、制御卓からなる12架1卓の実装回路設計であり、構造設計を完了して、東大に納入した。年代:1954年

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日本初の自動車用シールドビーム電球

アメリカ製の自動車前照灯の反射鏡とレンズとを封じ込んだシールドビーム電球は、従来の前照灯に比べて格段の優れた点があるが、国内の状況はアメリカ製品のままでは不都合である。アメリカ製品は左側の対向車に対して眩しさを与えないようになっているが、日本では右側の対向車に対する必要があり、当社は1954年(昭和29)に日本初の全部左側通行用としたシールドビーム電球を発売した。明るく、耐久性が優れていたため、多くの自動車に使われた。年代:1954年

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