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昭和6年、肥料の重量表示が尺貫法からメートル法に変わりました。これについての協会からの通達です。これにより、従来の"10貫入り"が"37.5kg入り"となりました。(メートル法は大正13年に法律が出来ましたが猶予期間がありました)
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当社はアンモニアの生産を開始するため、米国NEC社と、窒素工場等の建設に関する契約を昭和3年10月10日に締結(アンモニア日産25屯能力)しました。これは、当時NEC社から入手した技術資料です。
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昭和5年12月9日、アンモニアが初生産された日の引継簿です。アンモニアは、各種化学製品の基礎原料であり、当社が燐酸系肥料と硫酸の製造会社から近代化学工業会社へと前進した記念すべき日であります。また、この日は、住友関係者の多年の念願であった、硫酸の大量処理が実行に移された最初の日でもあります。
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アンモニア工場の保証運転(NEC法)は昭和6年3月17日から4月15日迄実施されましたが、その前の2月15日から引継簿も英文にて記載されています。
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当初(昭和5年当時)は独Borsig社製のNo1,No2だけだった圧縮機に後から加わった国産圧縮機の銘板。住友鉱山新居浜製作所(住友重機械工業(株)の前身)製。
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昭和8年、当社は濃硫酸を直接製造できる(それ迄は硫酸を濃縮していた)CCC社(Chemical Construction Corp)のセルデン式接触硫酸製造法を採用し日産45屯の新工場を建設しました(翌9年3月完成)。この工場は、我が国で最初の大規模な接触硫酸工場であり、予想したとおりの効果をあげました。この資料は、当時CCC社から入手したものです。
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昔は肥料の出荷は殆ど船で行なわれていました。何千、何万とある叺(かます)や袋の数を確実に数えることは大変でした。この為に用いられたのがこの万棒(まんぼう)です。
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ホルマリン、アンモニア水、硫酸等の工業薬品向けの容器として、古くから使用されてきました。容量は20リットル入りで、手ごろな大きさとして親しまれていました。中の瓶はガラス製で、外側を竹で編んだ籠で保護しています。
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過燐酸石灰の連続式製造法に関する報告書です。昭和26年8月、月産1万1千屯の生産試験に入りましたが、結果は良好でめざましい成果をあげました。それまで4時間を要していた製造時間がわずか15分に短縮され、所要人員も10分の1に減少できたということです。この連続式生産設備の採用は我が国で初めてのことで、その後、多木製肥、日本鋼管など10数社に技術を譲渡しました。
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肥料工業の合理化の一つに硫酸の合理化がありました。当時その製造に多くの焙焼設備を使っており、多数の人と、設備を維持するため多額の費用が必要でした。このため、かねて研究していた流動焙焼炉の試験に入り、昭和27年これに成功しました。その後、逐次流動焙焼炉に切り替え、最終的には全炉この方式になりました。この結果、人員、保守等について大幅な合理化を達成することができました。
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当時硫安は国内需要を上回る生産量に達していましたが、国内価格が上がらず、一方輸出も赤字であり、苦しい状況が続いていました。そのためアンモニアの合理化が急務でした。合理化の主題は原料ガスを安価に製造することにありました。この為、原料ガスについて様々な検討が25年頃からなされていました。この資料は在来のコークス法を含めた各種の方法について、技術的特徴、問題点等を中心に討議した模様を示すものです。
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昭和39年、ケロッグ社に、アンモニアの合理化について見積書の作成を依頼して出来たものがこれです。当時のものは日産300屯でした。その後、色々の経過を経て日産750屯の計画になりました。
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昭和38年に始まった世界的な肥料増産対策は、肥料の合理化対策の一環として、「アンモニア工場の大型化」が図られました。「アンモニア工場の大型化」はコスト削減のため、国の強い行政指導のもと、実施したと伺っております。その結果、尿素は当時世界有数の生産力とコストを誇っていました。当社は、ICI-Kellogg法を採用し昭和42年4月スタートしました。当社の採用した低圧、遠心圧縮機法は日本では最初のものでした。これは起業の申請書です。
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昭和60年11月20日、低圧法アンモニアの生産を停止しました。アンモニアについては、昭和5年12月初生産以来、55年の歴史をここに閉じることになりました。この間、生産したアンモニアは、旧法の296万屯を含み、合計702万屯にも達しました。このほか粗製メタノールも17万屯生産しました。これは停止した当日の工場の引継簿です。
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肥料は昔から殆ど叺に入れられていました。昔は7.5貫、10貫、15貫等ありましたが、メートル法が施行されてから37.5㎏入りとなりました。それも昭和30年代になると合成樹脂の袋へと変わって行きました。
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カルナは1970年代のレジャーブームを受け、高性能な手持ち双眼鏡を普及させることをコンセプトに開発された。従来よりスリムでコンパクト、斬新なデザインを目指した双眼鏡で、1978年7月に6倍と8倍モデルが発売され、ボディカラーは黒とメタリックシルバーの2色、デザインはボディ一体型で、当時ブームのスーパーカーかUFOを連想させた。優れたデザインが評価され、1980年にニューヨーク近代美術館に収蔵された。
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この天体望遠鏡は1938年(昭和13年)頃に五藤光学研究所によって製造され、1980年代初頭まで東京都のある高校の天文台で使用され、多くの天文好きの少年少女を育てた望遠鏡である。天体を追尾するためにまだモーターは使われておらず、錘の重力でガバナという機構を回転させ、等速度回転を行う重錘式運転時計を備えている点が、今では非常に貴重なものである。
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五藤光学研究所が創業時に発売した天体望遠鏡。対物レンズは単レンズではあったが、当時著しく高価だった天体望遠鏡を、庶民や学校で購入できる価格に設定し、天体望遠鏡、天文学の普及に大きく貢献した。有効径25mm、焦点距離800mm。大正15年から5機種が製造された。保存されているものは恐らく昭和3年頃の「新普及型天体望遠鏡」と呼ばれる機種であろう。
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ウラノス号という望遠鏡は1928年から1960年まで製造され、戦前・戦後30年以上もの長期間生産された天体望遠鏡である。英国式経緯台という架台の形式をとっている。長期間全国の学校やアマチュア天文家にゆきわたったため、当時の天体望遠鏡のある意味でのスタンダードになっていた。30年間で4回のモデルチェンジ(5世代)をしており、保存されているものは第3世代のものである。
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マークX赤道儀は1976年に発表された天体望遠鏡のシステムの名称である。赤道儀を構成する軸や接続金具をパーツ化し、組み合わせによって幾通りもの天体望遠鏡に変化するように考え出されている。この結果、様々な形式の望遠鏡が存在するが、代表的な構成として口径8cm屈折式望遠鏡の構成を保存している。発売当時非常に高価であったため、現在でもマニアあこがれの機種となっている。
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1957年以降、ソ連、米国の人工衛星打ち上げにともない宇宙ブームが到来した。この軌道を計測するために日本では高校が主体となって観測網が整備され、その観測に供するための広視界の望遠鏡が各望遠鏡メーカーからあいついで発売される。これは五藤光学研究所によって製造されたものである。この望遠鏡を何台も南北に並べ、人工衛星の子午線通過を観測していたようである。
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天体ナビゲーション機能搭載の天体望遠鏡用コントローラー。4.7インチの大型カラー液晶を採用したことにより、文字表示のみの画面と比べ、大幅に情報量が増加した(天体情報数は約2万3000体に実現)。搭載機能は、天体の自動導入や星の自動追尾、さらに各種天体の解説や案内付。これまで必要であった天体ガイドブックや星座早見盤、星図などの多くのアイテムを一つに集約し、天体観測シーンに新しいスタイルを提案。
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7×50SP・IFは1982年に発売され、平坦像面(特許あり)、多層膜コーティングを採用した高性能双眼鏡。このボシュロムタイプの7×50双眼鏡は1949年発売以来改良を重ねながら現在も販売を続けている長寿命製品。
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陸軍制式双眼鏡。接眼レンズの一部に凸レンズ片を貼り付けガリレオ式双眼鏡でありながら対物レンズの貼り合わせ面に刻んだ目盛りを読めるようにしたものでありこの双眼鏡の他には海外にも類を見ない(特許185430)。仕様;4×40mm。コンベア方式の生産工程も日本では初めてであった。
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1922年に開発され1924年(大正13年)に陸軍に十三年式双眼鏡として採用されたもの。接眼レンズが60°の広視界であり(特許87139)携行性の良い小型の広視界双眼鏡として他社にはないものであった。仕様;6×24mm、10°
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飛行機からの手持ち偵察用として一型は1942年に開発、製品化され陸軍に採用された。10×70mmで接眼レンズは70°の当時としては超広視界のもであった。手持ち用の70mm口径、広視界の双眼鏡は当時としては類がない
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口径比F6の明るさとさらに6×9判まで対応の広いイメージサークルを有した。アマチュア用としては業界初のオートガイダーも使用可能であった。眼視観測と併せて星野写真鏡として当時最高の性能を有しその後発展した短焦点距離フォトビジュアル望遠鏡の先駆けであった。有効径:80mm、焦点距離:480mm、4群5枚アナスチグマート、アポクロマート(EDレンズ2枚使用)光学系、イメージサークル:φ100mm
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業界初のEDガラス採用の2枚玉分離タイプ対物レンズによるF12アポクロマート鏡筒であった。口径比F12のシャープな像は定評あり。有効径:100mm、焦点距離1200mm、2枚玉アポクロマート
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1925年に製造開始した。倍率は主に20倍、15倍が多く製造された。直視タイプ、高角タイプなど多種のものが生産された。同様の大型双眼鏡はニコン製を手本に東京光学でも生産された。仕様;20×120mm 、3°
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ε(イプシロン)は、従来のニュートン式短焦点反射やシュミット光学系とは全く異なった、新開発のカタディオプトリック式アストロカメラである。イプシロン光学系は主鏡にハイパーボライド(双曲面)を使い接眼部に補正レンズを配置した設計となっている。天体写真に悪影響を及ぼすコマ収差や非点収差を補正しているので、フレアが無くコントラストが極めて良い星像を結ぶアストロカメラである。
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フローライトF8シリーズは、フローライトの持つ優れた光学性能を極限まで追求し、操作性の良い短焦点で完全色消しを実現した望遠鏡。屈折望遠鏡ではこれまでにないシステム光学系という新しい思想を吹き込んだ画期的な光学系である。
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リッチークレチアンは、球面収差もコマ収差も無いが、非点収差と像面湾曲がかなり大きいのであまり広角にできない。リッチークレチアンの主鏡と副鏡のRを同一にしてやると、非点収差のみが残存する光学系となる。この非点収差は補正しやすい形なので、パワーのないフラットナーレンズで補正した広角でほぼ無収差の光学系が完成する。当社ではこの光学系をベーカーリッチークレチアン(BRC)と呼んでいる。
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1960年代の1人用チェーンソーの普及に伴い、チェーンソーの振動による血行障害の事例が多く発生するようになった。その問題を解決するため、弊社では、レシプロエンジンに比べ、振動の少ないロータリーエンジンに着目し、世界で初めてロータリーエンジンを搭載したチェーンソー(RH57)を販売した。展示のRH350は、さらに小型化したものである。
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当時、車両系林業機械において、林業用アタッチメント取付け時の安定性の劣化が懸念されていた。弊社は、母機メーカとして、母機の安定性を考慮した、小型軽量のグラップルや独自の乱巻防止機構※1を採用した軽量化ウィンチの開発により、狭い林道内でも作業が容易な後方小旋回機において優れた安定性を確保した。また、業界初の安全ガードの採用により、安全・快適に作業を行える車両系林業機械を提供した。(※1: 特許第4109388号)
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昭和3年(1928年)米国クライド鉄工所製の60馬力のエンジン付4胴集材機が当時の長野県で初めて使用された。その結果、機械の軽量化と共に国産化が求められ、昭和6年(1931年)レロイの70馬力エンジン付の森藤鉄工所製の集材機が製作され長野県に納入された。(写真は昭和30年頃に撮影)
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無線遠隔操作による自走式搬器。構造をシンプルにできる油圧駆動方式、エンジン出力を有効活用できる自動2段変速機構など、先進的な装置・機構の採用により、小型軽量と高性能を高い次元で実現。2~3人で簡単に架設から集材・撤収までできる機動性を活かし、小面積の短スパン集材で威力を発揮した。また、安全性、操作性、汎用性、メンテナンス性にも優れているため林業・農業・土木などあらゆる運搬作業に広く普及した。
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国産初のグラップルソー。材径70cmの大径木に対応した切断装置は、ソー位置を微調整できるソーアジャスト機構を有していた。しかも、切断速度が速いため高能率な玉切り作業が可能であった。また、ベースマシンとして油圧ショベルを用いるそのパッケージは、現在につながる日本林業機械の原型であり、作業性および安全性を飛躍的に向上させる革新的なものであった。
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国産初のミニバックホー。今では建設機械として広く普及した機械ではあるが、元々は傾斜地での階段作りや歩道作り、植穴堀り、溝掘りを目的に開発された林業機械である。車体幅が狭く、僅か1トンの軽量を活かし、傾斜地の多い林業の現場で活躍。しかも、ブームのスイング機構により、狭い場所での作業性を確保しながら広い掘削範囲を実現した。また、全油圧式で運転操作が容易なうえ故障も少なく、維持管理の面でも有効であった。
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国産初の林業用トラクタ。奥地林へ容易に導入できる小型軽量ボディと低接地圧、高地上高といった特徴から、軟弱地や林地走行で威力を発揮。しかも、二重差動方式の操向装置により運転・取り扱いが容易で、急坂下降時の操縦性にも優れていた。また、ウインチなど様々な作業機を取り付けられることから、林業の他、土木、農耕、船内、港湾ヤードなど幅広い作業で活躍した。なお、本機は文科省事業の南極昭和基地建設にも使用された。
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