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電気洗濯機用ライオン粉石鹸

1952年に電気洗濯機用粉石鹸の発売に引き続き、1953年に日本で初めて蛍光剤を配合した電気洗濯機用粉石鹸である。電気洗濯機の普及に伴い好評を得た。

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ハイトップ

日本市場で初めての泡コントロール洗剤として、1962年に発売され、消費者の高い支持を受けた。この洗剤の発売をきっかけに、日本の洗剤市場は、泡コントロール洗剤が主流となり、洗濯石鹸から合成洗剤の時代に切り変わった。

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ブルーダイヤ

白い粒のなかに、洗濯の仕上げに輝きを与えるブルーの粒(エッセンス)を配合した、日本で初めてのミックスタイプの洗剤で1965年に発売された。見た目に新しい斬新的な感覚を持った洗剤で、金銀パールプレゼントのCMでも話題になった洗剤である。

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ダッシュ

生分解性が優れ、洗浄力の高い新原料、アルファオレフィンスルホン酸ナトリウムを世界で初めて開発し応用したソフト洗剤で1967年に発売された。強い洗浄力と、繰り返し洗いでも強いスタミナを発揮し、高い支持を得た洗剤である。

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せせらぎ

合成洗剤が日本に導入されてから、性能向上剤としてリン酸塩を使用するのが一般的であった。湖の富栄養化の一原因とされたリン酸塩を使わない、日本で初めての無リン洗剤で、環境に配慮した洗剤である。せせらぎの発売をきっかけに、その後日本の洗剤の多くが無リン洗剤に変わっていった。

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無リントップ

1979年に蛋白分解酵素を応用して発売されたトップに引続いて、1980年に無りんトップが発売された。洗浄力が高く、耐硬水性の優れた界面活性剤、アルファオレフィンスルホネートと、リン分に代わる優れた洗浄補助剤ゼオライトに蛋白分解酵素のアルカラーゼを配合した本格的な環境対応無リン洗剤である。

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Hiトップ(コンパクト洗剤)

蛋白質分解酵素プロテアーゼと、バイオテクノロジー技術を使ってできた耐アルカリ性で油脂分解能力の高い酵素リパーゼを、業界に先駆けて応用した洗浄力の高いコンパクト洗剤である。

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アクロン

おしゃれ着専用の中性洗剤。毛絹などの繊細な衣類も簡単に汚れが落ち、柔らかくフックラと仕上がる。1973年からは、使い易さの点から液体へと変わっていった。1963年発売以来、支持を得ているロングセラー商品である。

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ソフランS

カチオン活性剤のミクロ粒子が繊維に付着して、柔軟、静電気防止効果を発揮し、衣類をふっくらとやわらかく仕上げることを特徴として1975年に発売された。花の香りも好評で、永く消費者の支持を得たロングセラー商品である。

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ライポンF

日本で初めての野菜、果物、食器洗い専用の台所用洗剤で1956年に発売された。厚生省の指導もあり、回虫卵保有率の低下や野菜の農薬洗浄などに効果を発揮し国民の衛生水準の向上に貢献した。日本食品衛生協会推奨商品第一号である。1959年には、液体ライポンFが発売され永く消費者に支持されたロングセラー商品である。

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ママレモン

手になめらかな、ローションタイプの台所用洗剤として、1966年に発売された。市場に大きな影響を及ぼし、ローションタイプ全盛時代を築いた商品で、永く消費者に支持を得たロングセラー商品である。手に優しい成分を配合し、且つ洗浄力が優れた台所用洗剤である。

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ママローヤル

アルファオレフインスルホン酸ナトリウムと、特殊マイルド化剤(アルキルアミンオキシド)を主成分とし、手荒れの原因であるタンパク変性を起こさず、しかも強い洗浄力をもった台所用洗剤。特に油汚れにすばらしい洗浄力を発揮し、且つ手荒れは水だけで洗った時と変わらないレベルの特徴を持った台所用洗剤で、1979年に発売された。手荒れが少なく、且つ洗浄力のある台所用洗剤の方向に強い影響を与えた商品である。

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エメロンシャンプー

ブルーはさわやかなラベンダー、ピンクはあまいジャスミンの花の香りでイルガサン(殺菌剤)を配合し、フケやカユミ止めの効果のあるシャンプーで1965年に発売された。洗い上がりがしっとりとして、リンス効果があるシャンプーとして高い支持を得た。

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エメロンクリームリンス

髪をしなやかに、つやとうるおいをあたえるクリームタイプのリンスで1970年に発売され高い支持を得た。「ふりむかないで、おねがいだから」のCMも多くの女性の話題を呼び、女性の髪のおしゃれと、リンス市場の拡大に貢献した。

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ソフトインワンシャンプー

リンス性能を備えたリンス不要のシャンプーとして発売され、ヘアケアを大切にしつつ、利便性、合理性を望む女性に支持を得た。アニオン活性剤にカチオン、カチオン化ポリマー、油分を効果的に組み合わせて、髪にしっかりと吸着させ髪をしなやかにすることに成功した。

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小林富次郎 傅

ライオン株式会社の創業者である小林富次郎は、1891年に小林富次郎商店を創業した。本書は、小林富次郎の幼少期から始まり、苦難に満ちた創業期、事業の成功期、欧米漫遊、クリスチャンとしての信仰生活、慈善事業や家庭生活などの創業者の生涯をまとめた書籍である。

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啓発教育用資料「洗濯の仕方」

農村の衛生思想の普及が重要な時期であり、1925年から全国購買農業協同組合連合会を通じて、洗濯講習会を実施した。1928年には、東京府立第一高等女学校の家入たけ子教諭に執筆をお願いして「洗濯のしおり」という小冊子を作成した。当初は農村婦人会に配布するためのものだったが、評判がよく、「洗濯の仕方」と改題され昭和初期の衛生思想の普及、洗濯の普及に大きな役割を果たした。

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啓発教育用資料「標準家庭洗濯法」

1930年代は、スフのよい洗濯方法が開発されていない時代であった。ライオン洗濯科学研究所は、水に濡れると弱いスフの洗濯方法を普及させることが重要と考えて「標準家庭洗濯法」を開発作成し、全国で講習会を実施した。3年間で講習会の実施回数600回、聴講者10万人という記録が残っている。又この資料は、女子諸学校の教材に採用、広く利用された。

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啓発教育資料「新興織物撰集」

1930年代は、衣類の整理整頓、洗濯の仕方についての普及が重要とされており、女子学校衣類整理教育に貢献するために「新興織物撰集」を作成し刊行した。当時の日本の家政学の最高の先生方の知見を結集し、我が国の主な繊維製品、50種類を取上げ、それぞれのサンプルについての解説、保存方法、取扱、整理、洗濯の方法を記述した標本である。

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洗浄剤関連の啓発教育用資料「生活科学シリーズ」

1960年〜1970年代の高度成長時代にかけて、衣類用、住居用、台所用、身体用などの多くの洗浄用商品が発売された。洗浄剤や繊維の知識、商品の使い方、安全性や環境問題に至るまで、消費者の立場にたって解かりやすく、10巻にまとめて生活科学シリーズとして編集した。学校教育関係、消費者センターなど広く利用されている。

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洗浄剤関連の啓発普及活動用16mm映画

1960年代の高度成長時代における、啓発普及活動用映画で文部省選定を受け、全国の講演会や、一般向けの貸出を行った。洗浄剤の基礎理論、洗浄の評価方法、台所の衛生問題、安全性、環境問題などの内容が含まれている。1.「さわやかな日々のために—洗濯にも科学の目を—」、2.「清潔な暮らしのために」、3.「暮らしの知恵—清潔な食生活のために」の3巻がある。

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石鹸型打機(ジョンス式ダブルスタンパー)

1960年代は、ラインの大量生産化が推進され、型打機はシングルスタンパーから約1.5倍の能力アップが図れるダブルスタンパーに変わっていった。その時に導入されたのが佐藤鐵工所製の型打機、ジョンス式ダブルスタンパーで現在も稼動中である。

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化粧石鹸 軟包装機

当時石鹸包装の主流であった軽包装から、少しオシャレな軟包装への転換期であった1972年に導入された、イタリア製の包装機である。特にギフト製品の包装に活躍した。

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石鹸ラッピングマシン

人手対応で行っていた頃は、ベルトコンベアーの両サイドに20名もの作業者が必要だった。この包装機が1966年に導入され、ラインの自動化が図られ生産性が飛躍的に向上された。現在も稼動中である。

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粉末用(衣料用合成洗剤)自動充填機

自動カートン充填機(粒洗)ベラミーパーソン(米国)で1961年に導入した。粒状洗剤の計量の調整が容易な8ヘッド間欠タイプ重量計量方式で中型カートンの生産に適した充填機である。

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粉末用(衣料用合成洗剤)自動充填機

粒状洗剤用自動カートン充填機で、当時のロータリータイプ容量計量方式高速充填機の代表機種である。川崎工場の建設に合わせ、当社が2号機として1964年に導入し、衣料用粒状洗剤の急速な普及とともに活躍した。当社1号機は、1958年に東京工場に導入され現在も海外で稼動している。

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合成洗剤乾燥設備

粉末洗剤を製造する主要設備である噴霧乾燥塔。当時世界最大級の能力を持ち、且つ良質な製品を製造できる乾燥塔として、噴霧を複数段で行なうマルチステージや、乾燥効率を上げるための旋回流方式の熱風導入方式などの新規技術を導入して開発された。 

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オートクレーブ(高圧油脂分解装置)

1910年ライオン株式会社の前身である、合資会社ライオン石鹸工場が創設される際に、ドイツから導入した日本で最初のオートクレーブ(高圧油脂分解装置)である。日本で初めての分解脂肪酸による市販用石鹸の製造や、グリセリン製造法の確立などに貢献した。

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界面活性剤製造設備(TOリアクター)

1976年に当社で自社開発、世界で初めてα-オレフィンスルホン酸塩の工業化に成功した二重円筒型の薄幕式スルホン化反応装置。α-オレフィンとS03ガスとの間にカーテンエアーを導入し反応をマイルドにコントロールする事により、色調が良好でかつ反応率が高いα-オレフィンスルホン酸塩の製造が可能になった。現在も稼働中である。

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カロチンプラント

カロチン抽出原理の発見により、パーム油をメチルエステル化したのち、カロチンを回収、精製する技術を世界で初めて実現した。プロセスは、抽出、分子蒸留、クロマト精製、製剤化の組み合わせであり、製品は、国内のみでなく、世界中に販売されている。

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初期の石油発動機

わが国の稲作は、長い間、耕起など一部の作業では牛・馬を使ったが、大部分は人手で行う酷しい作業であった。明治に入り、わが国は欧米から優れた機械を取り寄せ、これらを参考にして、わが国で使える原動機を生産しようと努力を重ねてきた。この機械は、1921(大正10)年ころにアメリカから輸入されたフェアバンクスモ−ルス社製の石油発動機で、その後の国産発動機のモデルとなった。

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初期のディーゼルエンジン

ディーゼルエンジンは、明治の終わりころにわが国にも輸入され使用された。しかし重量が重く、稲作作業に使われることはほとんどなかった。このため、小形化して農業にも使えるようにとの努カが重ねられ、1930年代に入ってその開発に成功した。この機械は、ヤンマーHB型ディーゼルエンジンで、1933(昭和8)年から1941(昭和16)年にかけて生産された。小型ディーゼルエンジンとしては、世界最初の商品である。

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空冷エンジン

大正から昭和にかけての時代(1920〜40)に、農用エンジンの軽量化が図られ、稲作への利用が進んだが、重量は大きく、定置して使うことが多かった。戦後、軍需産業からの農業分野への参入などがあり、農用エンジンの性能は急激に向上した。その一つが、農用空冷高速エンジンの出現で、軽量化に成功し、耕うんや脱穀機の搭載エンジンとして、移動しながら作業を行うことが可能となった。わが国の農業用ガソリンエンジンの第1号機。

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三相誘導電動機

わが国の稲作への電動機の利用は、1902(明治35)年に、ドイツのシ−メンス社の電動機による水田潅漑とされている。当初は他の原動機と同様に、わが国の電動機の生産は欧米諸国の模倣生産に始まったが、明治の終わりごろには、国産化できるようになった。この機械は、1910(明治43)年に生産された日立製作所の三相誘導電動機で、国産第1号機である。

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打ち鍬

鍬は数百種あるとされる。これは室町時代以降、全国各地の野鍛冶によって、作業の目的や土の硬さなどに応じ、刃の形や大きさを変えたり、刃と柄の角度を変えたためである。耕すことを主たる目的とした「打ち鍬」は、刃と柄の角度は70゜以上。土さらいや畦塗りを目的とする「平鍬」は同角度が40°ぐらい。刃の形状も、一枚の板になっているもの、2-4本の刃で作られているものなど種々である。明治、大正、昭和年代に使用。

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平鍬(あぜ塗り)

水田の畦塗り作業用に用いる鍬で、刃の部分の構造によつて、風呂鍬(1)と金鍬(2)がある。風呂鍬は、木製の台に刃と柄を取り付けたもので、金鍬は刃部のすべてが鉄製である。風呂鍬は刃を修理するとき、刃の部分を着脱すればよく、金鍬に比べ軽量で使いやすい。金鍬は重いが、頑丈でこわれにくい。鍬は、現在もなお補助農具として、全国各地で使われている。1700年代に堺の農人と野鍛冶屋により開発。1960(昭和35)年頃まで使用。

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長床犂

明治に入ったころでも、水田耕起の多くは鍬による人力作業であった。しかし西日本では犂を用いての牛馬による耕起が行われ、とくに北部九州ではさかんに牛馬耕が行われていた。このころ使われていた犂は、長床犂、無床犂と呼ばれる犂であった。長床犂は長い犂床をもっていて、安定が良く使いやすい。しかし、牽引に大きな力が必要で、深耕や畦立ての作業がしにくい。1935~1945(昭和10~20)年に使用。

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無床犂

この犂は、佐賀県で使われていた無床犂で、抱持立犂と呼ばれた。無床犂は長床犂と共に、当時を代表する犂である。無床犂は犂床が全く無いので、使用中の安定が悪く操作には熟練を必要とする。しかし、長床犂に比べ深耕ができ、狭い水田で使いやすいという利点を持っている。使うときにだき抱えるように持つのでこの名前がある。使われていた地域は九州の北部。後に短床犂に発展する原形となった。1945(昭和20)年頃まで使用。

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短床犂(単用犂)

長床犂と無床犂の長所をとり、短所を補ったのが短床犂である。北部九州で明治中期以降改良が加えられ、短床犂の出現を見た。短床犂は短小な犂床を持ち、牽引抵抗が小さく土の反転・破砕が良好で、安定した操作ができるなど使いやすい。この短床牽ができたことで、以降、全国的に牛馬耕が行われるようになった。この犂は宮崎県で使われていた短床犂(単用犂)で、東洋社製。1960(昭和35)年ころまで、広く全国で用いられた。

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短床犂(双用犂)

犂の改良のなかで工夫が重ねられたものの一つに、犂底の形状がある。稲作では、水田の漏水防止が不可欠である。犂耕時に犂床で土を固めて耕盤を作って漏水防止を図るが、その良否は犂底の形状に左右される。単用犂は進行方向に対し常に一定方向にしか土を反転することができないが、双用犂はレバーの操作で、往耕も復耕も土を同じ方向に反転することができ、水田の平面耕や小区画の田の耕起に適している。1961年頃まで使用。

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短床犂(双用・二段耕犂)

二段耕犂は短床犂の犂体前方に小さな犂体(前犂)を取り付けたもので、まず前犂で土を浅く耕起し、ついで本犂でその下を耕起する。これにより単用犂の土の反転作用の不足を補い、後作業の砕土を容易にする。戦後に入って双用二段耕犂の改良はさらに進められ、犂身を含めてすべて金属製となり、歩行牽引型トラクターの作業機として使われることになる。

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初期の動力耕耘機

この機械は、スイスのシマーモートキュルトア社の耕耘機である。1921(大正10)年に輸入された。本機は、機体の後部に回転式カルチベーター(所謂ロータリー)を取り付け、土の耕起と砕土を同時に行うことができる。昭和に入って製作された動力耕耘機は、これをモデルにしたもので、日本のロータリー式耕耘機の元祖の一つである。

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初期の国産の動力耕耘機

大正の中頃、欧米から畑作用の数種類の耕耘機が輸入され、これらを参考に水田用耕耘機への改良が試みられた。そして大正の末ころには、板野式・藤井式などのロータリ型、続いて広瀬式(クランク型)、古川式(スクリュー型)などの耕耘機が開発・市販された。その後、耐水性などにより湛水田での作業に耐える機構へと改良が重ねられ、1960年ころには牛馬耕に代わってロータリ-型耕耘機が水田耕耘の主役となった。

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乗用トラクタ−(ロ−タリ−付き)

1955(昭和30)年ころ欧米から大型トラクターが輸入され使われたが、防水性能などに問題があり、トラクターの国産化が図られた。国産トラクターは、水田におけるロータリー作業に重点をおいて設計され、防水性・走行性・砕土性が考慮された。1970(昭和45)年ころにはほぼ完成し、普及していった。現在では水田耕起のほとんどは、ロータリー耕耘部を直装した車輪型トラクターを用いて行われている。

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馬鍬

水田の代をかき(土を柔らかくし)、平らにする農具である。畜力用の作業機で、犂による牛馬耕の遅れた東日本でも、代かきは主として馬による作業であった。歯杆が並ぶこの形式の馬鍬(写真左下)は江戸時代から使われ、大正時代以降、歯杆回転型・刃車回転型(写真右上)など各種の馬鍬が考案・使用された。1955(昭和30)年ころまで使われ、動力耕耘機の普及と共に姿を消した。1958年頃まで使用。

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均平作業機(レーザーレベラー)

トラクターの普通車輪を水田車輪に、耕うん部を幅広の代かき専用ローターに替えて、代かき作業も乗用トラクターで行えるようになった。従来、水田代かき(均平)作業は、水面を目安に均平化を行っているが、水田の区画が大きいと風の影響を受け、均平が図れない。このため、水田の一隅からレーザー光を発し、トラクターの均平板で受けて田面を平らにする方法も行われるようになった。

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田植用具

田植機が開発される1970(昭和45)年ころまで、稲作のほとんどすべてが手植えであった。移植苗の縦・横のそれぞれの間隔を等しくする正条植の効用は早くから言われていたが、真剣に取り組むようになったのは中耕除草機が普及した1892年頃からで、苗列が揃っていないと除草機が使えないためである。田植綱・田植車・田植定規は苗を正条に植える補助具である。田植車は転がして印をつける。1868年代に考案。1965(昭和40)年頃まで使用。

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初期の田植機

田植えの機械化は昔からの夢であった。1960年代の経済の高度成長に伴う厳しい農村労働力の流出に対応して1965(昭和40)年ころから、官民あげて田植機の開発に取り組んだ。試作機はすべて歩行型で、使う苗は土付き苗や根洗い苗、挿苗は自然落下やピンセットによる強制植付けなど、多種多様であった。本機は、カンリュウ式農研号。帯状にした土付き苗を切り離しながら植える人力1条用の田植機で、市販田植機の第1号機である。

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歩行型田植機

どのような苗をどのような方法で植えるかを試行錯誤の末、1970(昭和45)年ころ、ほぼ稚苗・マット苗方式に落ち着いた。稚苗とは2葉(苗丈10㎝以下)ぐらいの苗で、手植え時代の苗(4〜6葉、苗丈30cmぐらい)に比べて極めて小さい。1975(昭和50)年ころ自走型田植機の出現により、歩行型田植機はより軽量化・簡素化され、中山間の比較的狭いほ場や規模の小さい農家向けの田植機として使われている。

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乗用型田植機

当初、トラクターに田植機構を装着しようと試みた田植機も、試行を重ねる間に、自走式の専用機となり、苗台や植付部は機体の後部に配置され、植付け深さ・苗の掻取り量などは自動制御化された。1985(昭和60)年ころ、ロータリ式の植付機構が開発され、作業速度を従来の1.5倍(1.0〜1.4m/s)に速めることができた。同時に植付ける苗条は4〜8条である。このような高速・高精度の田植機の出現で、手植えはほとんど見られない。

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