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岩崎(小彌太)家元箱根別邸図面(6枚)

石造2階建て、49坪の洋館で、岩崎邸の建物の中では非常に簡素な造りである。関東大震災で崩壊した。震災後建物は再建され、10万坪にも及ぶ広大な敷地内にはゴルフ場も設けられた。現在、旧ゴルフ場は成蹊学園の鍛錬場、その他は小田急山のホテルとなり、受け継がれている。

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島津忠重邸(図面65枚)

薩摩の島津本家の邸宅として建設された。円弧状に張り出したベランダに建つ柱は2本ずつペアになっており、バロック的手法が窺える。ステンドグラスには薩摩の紋が入っており、邸宅の主を示している。設計図には3段階の案が残されており、平面図の決定プロセスが窺える。建物は、戦後、清泉女子大学の施設となって現存している。

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北下浦別邸(図面1枚)

図面に「Country Villa at Kita Shitaura」と記されているものの、誰のために計画された別荘であるのか定かでない。大正6年とはコンドルの最晩年に当たる時代で、図面上では近代的な優れた建物である。建設されたと考えれらる現在の北下浦地区(津久井・長沢・野比)は、当時、真に交通の不便な所であった。

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古河虎之助邸(現:古河庭園)(図面58枚)

足尾銅山などを経営する古河財閥3代目の邸宅として建設された。東京の北区西ヶ原に位置するのは、私淑した渋沢栄一邸に近く、東京から足尾に向かう方角に当たっていたからである。真鶴の新小松石を用いた外壁は粗く仕上げられ、切妻を強調した構成を見せる。これはスコットランドのスコティッシュ・バロニアル様式を試みたものとされる。建物前の庭園もコンドルの手になるもので、下段の日本庭園は京都の庭師小川治兵衛の作庭である。現在、古河庭園として、建物・庭園ともに現存している。

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山縣有朋小田原別邸(図面7枚)

山縣が70歳を機に営んだ広大な別邸古稀庵に設けられた洋風の寝室棟である。和風の本館から庭園に向かって突き出すように建てられた、実用的な建築である。また、山縣がコンドルに設計を依頼した経緯は不明である。建物は震災によって消滅した。

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成瀬正行邸(図面31枚)

コンドルによる建築の中で唯一鉄筋コンクリート造の成瀬邸は、大正8年に竣工した。戦前から堤康次郎邸となっていたが爆撃により焼失した。後にこの敷地は個人住宅として使用された時期もあったが、現在は西武の施設として活用されている。現在正門に当たる門柱がコンドル時代の名残をわずかにとどめている。

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川崎芳太郎邸(図面1枚)

川崎芳太郎は川崎造船などを興した人物である。神戸の布引山下に計画された邸宅案で、和風部分は実現されたが、コンドルの手になる洋館は実現される前に施主も設計者も他界してしまった。全面石張りの外壁は、古河邸に見られるスコティッシュ・バロニアル様式をさらに本格的に展開した例である。コンドルは左右対照を基本としながらもそれを僅かに崩す構成を好んでおり、ここでもその手法が見られる。

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渡辺専次郎鎌倉別邸(図面9枚)

木造2階建が明治39年6月に完成したと伝えられている。渡辺専次郎は三井物産の幹部であった。現在は江ノ電和田塚駅付近の住宅地になっている。

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墓標(図面6枚)

コンドルは来日外国人の墓標を数多く手がけたと言われているが、誰のための墓標か判るのは設計図面が残っているものだけである。そのうち1つは、ウォルシュ・ホール商会や神戸製紙会社を経営した英国人のジョン・ウォルシェのものである。また、エドワード・ダイバースは工部大学校で化学教師を務めた人物で、青山外国人墓地に建てられた彼の妻の墓標がコンドルによるものである。その他、在日英国大使を務めたクラウド・マクドナルド、英国陸軍少尉ハンフリー・ウィルソンらの墓標もコンドルによるものであることが判っている。

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裏霞ヶ関宮邸(図面1枚)

裏霞ヶ関宮邸は、「Official Residence. Urakasumigaseki」と記された建築図面からコンドルが設計したことが知られているが、これだけではどの政府機関に属する官邸で、いつから計画されたものであるか不明である。しかし、裏霞ヶ関に官邸を持つのは外務省だけ(『各省所管有財産目録』明治25年)であり、土地も同様であった。その他のことからもこの建物が外務次官官邸として建設されたと考えられるが、実際に建設されたのか、或いは未実施なのかは判らない。

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工部大学校教師室書棚(図面1枚)

書棚のデザインは豪華でも目立った特徴があるわけでもなく、コンドルにとっては小作品であったと考えられるが、来日間もない時期の作品として注目される。この書棚が取り付けられていた教室は、「造家學製圖室隣博士ノ室ノ壁面」と図面に記されており、コンドルの研究室であったことが判る。

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居留地商館(図面5枚)

図面に記入された建物が面する通りの名前などから、横浜居留地のサミュル商会の図面であると考えられる。建物は煉瓦造総2階建で、1階にはカウンターがある。しかし、コンドルによる現存する図面が、サミュル商会のものであるか定かではなく、また、サミュル商会のものであったとしても、図面通りに建設されたかどうか不明である。

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住宅(A)(図面1枚)

「住宅(A)」とは仮称である。図面には依頼主が書いたと思われる間取りの簡単なスケッチが貼り付けられている。各室名がドイツ語で記されており、そこから住宅の計画であると判断できる。また、ドイツ語が使用されていることから、依頼主がドイツ系外国人であることが判る。

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教会(A)(図面6枚)

「教会(A)」は現存する建築図面からコンドルによる作品であることが知られているが、名称や設計時期が不明なため、仮称を用いてある。建物は、木造下見板張り、面積は約56坪の簡素で小規模な教会である。

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教会(B)(図面2枚)

「教会(B)」は現存する建築図面からコンドルによる作品であることが知られているが、名称や設計時期が不明なため、仮称を用いてある。建物は煉瓦造で、面積約75坪、バシリカ式の教会堂である。

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教会(C)(図面3枚)

「教会(C)」は現存する建築図面からコンドルによる作品であることが知られているが、名称や設計時期が不明なため、仮称を用いてある。この教会堂に関する図面は、内陣部の室内装飾に関する図面しか現存していないため、建物全体の様子は、判らない。内陣の図面から、半円形の平面であること、構造は煉瓦造の可能性が強いこと、等が判るのみである。

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教会(D)(図面1枚)

「教会(D)」は現存する建築図面からコンドルによる作品であることが知られているが、名称や設計時期が不明なため、仮称を用いてある。建物は木造で面積約10坪のごく小規模な教会堂である。図面から、独立した建物ではなく、増築、或いは付設されたものと考えられる。図面の裏側に「赤城下」と記された墨書があり、赤城下教会である可能性もある。しかし、この墨書がいつ記されたのか明らかでない。赤城下教会とは、地名「赤城下町(牛込区)」に由来するものであり、隣接する同区築地20番に在った聖バルナバ教会を指すものと考えられる。

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教会(E)(図面2枚)

「教会(E)」は現存する建築図面からコンドルによる作品であることが知られているが、名称や設計時期が不明なため、仮称を用いてある。建物は木造下見板張りで、隅部に尖塔を建て、正面および側面上部にバラ窓を設けたゴシック風の教会堂である。現存図面は「小笠原教会」と扱われているが、「コンドル博士作物一覧」に掲載された小笠原教会と異なっている。

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三菱一号館棟飾

御雇外国人として来日したコンドルは明治23年、民間の建築家となる。彼は御雇時代に岩崎家の住宅を手がけていたことから、三菱の建築顧問となり、岩崎家と三菱の建築を手がけることとなる。三菱の仕事として最も重要なのは、丸の内のビジネス街で、明治27年にジャコビアン様式のわが国最初のオフィスビルとして知られる1号館が完成している。このゴシック色の強い棟飾り等一部の部材は、昭和44年の解体にあたり、関東閣に運ばれ保存された。

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三菱二号館門柱の一部

明治28年完成のルネサンス系のスタイルで、マンサード屋根と角の釣鐘形のドームが印象的である。当初は2号館全体を明治生命が使用していた。昭和9年の現明治生命館が完成し、2号館は解体された。その際、現明治生命館を設計した岡田信一郎が玄関回りの部材を東京美術大学(当時、岡田は同校の教授であった)へ持ち帰り保存した。

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鹿鳴館の持ち送り

コンドルの全作品のうち、最もよく知られているのが、鹿鳴館だろう。明治16年に完成、明治20年まで欧米諸国との社交の場としての役割を果たしていた。その後、明治23年に宮内省に移管され、一部を華族会館が使用し、明治27年地震に被災したのを機に土地建物共に華族会館に払い下げられ、明治30年に再びコンドルが改修工事を手がけている。昭和2年に徴兵生命保険に売却され、昭和15年解体された。主要構造は煉瓦と石であったが、軒を下から支える持ち送りは雨が最もかかりにくい部分だからか、木製であった。今井健次郎氏が保存したものである。

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鹿鳴館の階段の一部

鹿鳴館の昭和15年に行われた解体は世間一般にはほとんど取り上げられることはなかったが、一部建築関係者の間では、部材の保存などを行う者もあった。東京帝大の建築学科は主階段の一部を切り取って、保存している。

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鹿鳴館の杭

鹿鳴館の土地建物を入手した徴兵生命保険は、昭和15年に建物を解体し、その後、その地を前庭として使用していた。その後、大和生命が昭和57年にビル新築にあたり、地下を掘り返したところ、鹿鳴館時代の松杭が出土した。

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鹿鳴館の上向腕ランプ

鹿鳴館で使用されていたガス燈である。竣工当時の鹿鳴館では、ガス灯だった。

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鹿鳴館の壁紙見本

明治27年に華族会館に払い下げられた後の、明治30年のコンドル設計による改修時のもの。日本特産の金唐紙である。

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鹿鳴館の電気燈

明治27年に華族会館に払い下げられ、明治30年にコンドルの設計による改修が行われたが、その改修後の電気灯である。

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鹿鳴館の椅子

尚友倶楽部が引き継ぐ華族会館の家具のうち、鹿鳴館時代から使用されていると考えられるもの。ジャコビアン的なデザインからも窺える。

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鹿鳴館のテーブル

テーブルの裏面に「二四年八月調ロ印二四号 三之内 鹿鳴館」と記されたラベルが貼られ、その下にさらにもう1枚ラベルが貼られているのが見える。そのデザインからも鹿鳴館で使用されたコンドルのオリジナル家具であることは間違いないであろう。鹿鳴館→華族会館→尚友会→尚友倶楽部と引き継がれたものである。

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鹿鳴館の漆塗りの椅子

鹿鳴館では漆塗りの和洋折衷の家具が使用されていた。それらは明治政府が始めて芝に設けた対外用ゲストハウスである延遼館から鹿鳴館に移されたものである。これら漆塗りの家具のデザインは誰の手によるものかは定かではない。なお、コンドルは来日早々延遼館のインテリアデザインを手がけている。

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鹿鳴館のディナー用ナイフ(柄:象牙)

 華族会館が昭和2年に旧鹿鳴館の建物を出る際に、会員の間で備品のオークションを行った。そのオークションで手に入れた会員により保存されてきたものである。

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鹿鳴館のディナー用フォーク(柄:象牙)

フォークの部分には、紋章状の囲いの中にラッパのマークの入る商標と四文字の花文字刻が印されているのが見える。華族会館が昭和2年に旧鹿鳴館の建物を出る際に、会員の間で備品のオークションを行った。そのオークションで手に入れた会員により保存されてきたものである。

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鹿鳴館のフォーク

華族会館が昭和2年に旧鹿鳴館の建物を出る際に、会員の間で備品のオークションを行った。そのオークションで手に入れた会員により保存されてきたものである。

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鹿鳴館のケーキ用フォーク

華族会館が昭和2年に旧鹿鳴館の建物を出る際に、会員の間で備品のオークションを行った。そのオークションで手に入れた会員により保存されてきたものである。

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鹿鳴館の大皿

食器の裏に「精磁会社」と記されていることから、深川精磁の製品であることが判る。精磁会社という記載のデザインからして、華族会館時代の物ではなく、鹿鳴館時代もしくは延遼館時代のものであると考えられる。華族会館が昭和2年に旧鹿鳴館の建物を出る際に、会員の間で備品のオークションを行った。そのオークションで手に入れた会員により保存されてきたものである。

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鹿鳴館の砂糖壺

食器の裏に「精磁会社」と記されていることから、深川精磁の製品であることが判る。精磁会社という記載のデザインからして、華族会館時代の物ではなく、鹿鳴館時代もしくは延遼館時代のものであると考えられる。華族会館が昭和2年に旧鹿鳴館の建物を出る際に、会員の間で備品のオークションを行った。そのオークションで手に入れた会員により保存されてきたものである。

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鹿鳴館の深皿

食器の裏に「精磁会社」と記されていることから、深川精磁の製品であることが判る。精磁会社という記載のデザインからして、華族会館時代の物ではなく、鹿鳴館時代もしくは延遼館時代のものであると考えられる。華族会館が昭和2年に旧鹿鳴館の建物を出る際に、会員の間で備品のオークションを行った。そのオークションで手に入れた会員により保存されてきたものである。

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鹿鳴館の七宝焼きの花瓶(1対)

磁器の表面にも七宝の技法で装飾を付けた珍しい七宝焼きである。底には「大日本七宝製造会社 工人 竹内忠兵衛」と記されている。大日本七宝製造会社は現在の安藤七宝店で、竹内忠兵衛は名古屋薮下町の当時知られた七宝焼職人であったという。この磁器は延遼館→鹿鳴館→華族会館→震会館と伝えられたもの。

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三菱二号館模型

明治28年完成のルネサンス系のスタイルで、マンサード屋根と角の釣鐘形のドームが印象的である。当初は2号館全体を明治生命が使用していた。昭和9年の現明治生命館の完成し、2号館は解体された。その時、製作された模型である。

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飲用乳(宅配 ガラス容器)

1998年より発売されている宅配用商品(主に飲用乳。ガラス容器。200mlと100mlの2種類)は、従来品よりも軽量化した点、ポリキャップの密閉性の良さ、リキャップ及びリサイクル出来る点、シュリンクフードによる飲み口の衛生性などが、容器包装リサイクル法などの観点から高く評価されている。

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宅配商品 ガラス容器(昭和20~30年代使用品)

昭和20~30年代頃に使用していた宅配用商品(主に牛乳)のガラス容器。容量は500mlと900mlの容器である。

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ブリックパック型紙容器商品

直方体の紙容器でブリックパックと呼ばれる牛乳・加工乳・乳飲料用の代表的な紙容器である。100ml~1000ml容量のものまで幅広い形態で発売されている。上部端面をハサミで切るか、もしくはストローを差し込んで飲用する。内容物に直接接する紙の内面部分はポリエチレンでコーティングされており、常温保存可能商品(LL商品:Long Life商品)では封かん強度を増すため、さらにアルミ箔で補強した加工紙が用いられている。

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ゲーブルトップ型紙容器商品

上部の注ぎ口が屋根型をしていることからゲーブルトップと呼ばれている牛乳・加工乳・乳飲料用の代表的な紙容器である。500ml~1000ml容量の形態のものが一般的である。内容物に直接接する内面部はポリエチレンでコーティングされており、内容物が漏れることはなく、またガラス瓶に比べて軽量で持ち運びやすいため、昭和40年代より急速に普及した。容器の成形から内容物の充填まで一台の機械で連続的に行われる。

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守谷工場

業界トップクラスの高い技術水準と品質保証体制、最先端のテクノロジーを導入した管理体制および環境と安全への徹底した配慮に基づいて建設され、1998年6月より稼動。作業内容によって厳密に区分されたゾーニング、生産棟と物流棟の完全分離による製品温度上昇防止、一方向物流による逆流汚染防止、省エネルギーと環境を配慮した独自のシステム、生産棟周辺の発埃・発塵防止、鼠族・昆虫の進入防止、ESL製法による細菌品質レベルまでの品質向上、ゴミゼロ化に向けた3Rの展開を取組みとして行っている。関東地区の新たな拠点として位置づけている。

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東北工場

2000年秋、東北地区の生産・物流の拠点として稼動開始した。最新の設備とITを駆使した管理システムを備え、環境にも配慮し、お客様の安心・安全を実現する高品質な製品作りを目指している。具体的な取り組み:HACCPに対応した品質管理体制。衛生管理を徹底するゾーニング・環境管理。ESLの展開。生産指示の自動化と生産実績データのリアルタイムな収集と一元管理。ゴミゼロ化の展開。省エネルギー化による環境への配慮。

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明治ハネーヨーグルト

我が国において工業的に生産された最初のヨーグルトである。発売以来50年以上を経過し、今なお多くの人に親しまれているロングセラー商品である。昔ながらのガラスビンを使用するとともに、発売当初の風味をそのまま現在に引き継いだ定番商品である。さわやかなヨーグルト風味にマッチしたほのかなハチミツの香りが特徴的である。

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明治ブルガリアヨーグルト プレーン

大阪万博のブルガリア館で紹介されたヨーグルトが開発の契機となり、1971年に国産初のプレーンタイプのヨーグルト「明治プレーンヨーグルト」が発売された。その2年後本場ブルガリアでその風味が絶賛されたことで、「ブルガリア」の名を使うことが許可された。ここに「明治ブルガリアヨーグルトプレーン」が誕生した。このゲーブル型紙容器は、現在使用している角形紙カップ容器に変更された1981年まで発表されていた。

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明治ブルガリアヨーグルトLB81

当初、ゲーブル容器が使用されていたが、1981年に現在、大容量ヨーグルト容器の定番になっている角形紙カップ形態となった。これはブルガリアヨーグルトが先駆者であり、包装産業界で最も栄誉ある「木下賞」(1982年度)を受賞した。1996年には使用乳酸菌LB81の健康促進効果が科学的に認められ、特定保健用食品の表示が許可された。現在は、健康志向に沿った食品として消費者に定着している。

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明治ブルガリアのむヨーグルト LB81 プレーン

1985年にファミリーユースの「明治ブルガリアのむヨーグルト」として発売され、ドリンクヨーグルトの市場拡大に貢献した。液状の加糖タイプで、爽やかな味が特徴である。現在のタイプは1993年にLB81乳酸菌(ブルガリカス2038株とサーモフィラス1131株)を使用してリニューアルし、1997年には厚生省から整腸作用において特定保健用食品として許可された。日本においてドリンクヨーグルトのスタンダードとしての地位を築いている。

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明治プロビオヨーグルトLG21

抗ピロリ菌効果に優れた「LG21乳酸菌」を配合したヨーグルトである。プロビオとはプロバイオティクスの造語であり、「体に好影響を与える生菌や生菌を含む食品等」のことである。我が国におけるプロバイオティクスヨーグルトの先駆的な商品であり、店頭品(120g)と宅配専用品(90g)の2種類が発売されている。甘さ控えめの低糖タイプであり、40歳代以上の中高年の方をメインターゲットとしている。

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パトローゲン

鈴木梅太郎博士の手により開発され、初めてビタミン類が強化された、今日的意味での調製粉乳の国産第一号である。それまでは、加糖練乳(コンデンスミルク)、それも多くは輸入品が人工栄養の主流を占めていた。因みに、鈴木梅太郎博士はオリザニン(ビタミンB1)の発見者としても知られる。そのオリザニンの発見は、乳児栄養においても、その後のビタミン類や微量元素の栄養としての必要性を研究するきっかけとなっている。

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