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五十嵐牧太宛 書簡

滞在中のドイツから中国承徳で調査中の五十嵐氏に宛てた書簡。245×335mm。ペン書。原稿用紙。

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伊藤忠太 写真

中国熱河承徳飛行場にて大同行きのセスナ機を待つ。伊藤忠太・五十嵐牧太・熱河省次長連氏。キャビネ判。

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東京帝国大学工科大学造家学科卒業証書 武田五一

当時の東京帝大の教授陣の氏名が列記されている。

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武田五一 学位記

1915(大正4)年、2月9日、文部省より工学博士学位授与。525×388mm。

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武田五一 文官大礼服一式

大正4年10月、正五位に叙せられた時にあつらえた。トランク入り。

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田辺淳吉宛 葉書一括

明治36年東大建築学科卒業の同級生(丼会)のメンバーからの自筆絵葉書103点。

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スケッチブック(貼り込み)

田辺淳吉遺品。風景・人物・間取り図など小さなスケッチ画を貼り込んだもの。287×203mm。

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重要文化財 旧日本聖公会京都聖約翰教会堂 正面建図

附指定。SCALE1:50。解体工事中、定礎石の調査を行った際発見されたもの。図面にProposed CHURCH, KYOTO JAPAN / FRONT ELEVATIONと記入されている。青焼き図面。513×369mm。

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重要文化財 旧日本聖公会京都聖約翰教会堂 平面図

附指定。縮尺百分之壱。自筆署名入り。解体工事中、定礎石の調査を行った際発見されたもの。Proposed CHURCH, KYOTO JAPAN / GROUND FLOOR PLAN / FIRST FLOOR PLAN。青焼き図面。450×562mm。

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重要文化財 旧日本聖公会京都聖約翰教会堂 切断図

附指定。尺度五拾分の壱。解体工事中、定礎石の調査を行った際発見されたもの。CROSS SECTION。青焼き図面。

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重要文化財 旧日本聖公会京都聖約翰教会堂縦断図

附指定。尺度五拾分の壱。解体工事中、定礎石の調査を行った際発見されたもの。LONGITUDINAL SECTION。青焼き図面、500×761mm。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎), 二階図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として県庁新築に従事した清水義八の遺族に残された清水家旧蔵文書の中にあった。昭和39年~48年に明治村へ寄贈された。和紙に墨、室名記入。410×814mm。附指定図面11枚。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)二階図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族より明治村へ寄贈された。405×582mm。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)新築階下図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族により明治村へ寄贈された。和紙に墨、室名記入。21尺=62。500×798m。)

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)階下図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族より明治村へ寄贈された。和紙に墨、室名記入。8尺=25。409×580mm。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)階上図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族より明治村へ寄贈された。和紙に墨、室名記入。主としてこの図面により復元した。(移築時)524×771mm。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)階下図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族より明治村へ寄贈された。和紙に墨、室名記入。21尺=63。移築復元の際主としてこの図面を元にした。565×783mm。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)階上図

附指定。明治13年7月の明治天皇庁内御巡幸図。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族より明治村へ寄贈された。和紙に墨、室名記入。209×295mm。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)階下図

附指定。明治13年7月の明治天皇庁内御巡幸図。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族より明治村へ寄贈された。和紙に墨、室名記入。279×700mm。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)第一階子段図・天井廻縁之図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族より明治村へ寄贈された。和紙に墨、十分の一。600×820mm。

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)第二階子段図・第三階子段図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族により明治村へ寄贈された。和紙に墨、1/10、1/20。(620×780mm)

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三重県庁舎(重要文化財 旧三重県庁舎)軒蛇腹詳細図

附指定。創建当時に三重県庁新築掛として従事した清水義八の図面。昭和39年・48年遺族により明治村へ寄贈された。和紙に墨、1:01。(1364×1060mm)

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三重県師範学校本館設計図

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清水義八旧蔵図面文書一括

伊勢の棟梁清水義八(1846~1914)の手による建築図面と文書。内文書19点。三重県庁や師範学校などの官公庁や三重県内の寺社建築が多くみられる。

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『アラビアン』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、梨地系の地紋にアラビア文字を連想させる模様をあしらっている。

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『いしがき』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、石垣をモチーフにしている。

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『いろり』(型板ガラス) 

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品はその終わり頃のもので、それまでの奇抜なデザインではなく和風建具にあう無難な柄になっている。名前は、筆で描いたような井桁模様が囲炉裏を連想させることからきている。

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『いわも』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、護岸の積石や城の石垣を連想させる。

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『おりづる』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、名前は折り紙の鶴からきている。高密度の細線で模様を入れており、光の方向で表情を変える。この手法は1962年の「このは」から始まったもので型ロールの彫刻に比較的高度な製造技術を要する。

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『かすり』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つであるが、吾妻障子や打込障子などの和室のガラス建具に好まれ、広く普及した。名前は着物の絣模様からきている。

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『からたち(大)』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つであるが、カットグラスの光を表現するために、微細な四角錘が連続する洋風の地紋に、切子の技法を用いた鋭い模様を配している。ガラス工芸専門の各務クリスタルによる最も特徴的なデザインの一つ。

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『からたち(小)』(型板ガラス)   

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つであるが、カットグラスの光を表現するために、微細な四角錘が連続する洋風の地紋に、切子の技法を用いた鋭い模様を配している。ガラス工芸専門の各務クリスタルによる最も特徴的なデザインの一つ。

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『かるた』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、大柄な構成だが、その一つ一つに細かな線をハッチングすることにより、光の方向によって輝きがかわる工夫をしている。この細線の手法は1962年の「このは」で初めて試みられた手法である。

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『きらら』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つだが、前年大ヒットした「このは」の対抗商品で、「このは」同様に繊細のハッチングにより光の方向で表情が変わる。「このは」とともに多く売れた。

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『銀河』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、梨地系の地紋に切子のような星模様を入れている。吾妻障子や打込障子などの和風の建具をはじめとして比較的よく普及した。

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『銀モール4分』(型板ガラス)

終戦後わずか7年目であるが、すでに国内ガラスメーカーは旭硝子、日本板硝子に徳永硝子が参入し、激しい競争をするまでに市場が成長していた。その代表品種の一つで、建築のほか家具によく使われた。1950年代はまだ戦前のデザインを継承しており、この製品も昭和初期の「モール」に梨地系の地紋を重ねたものである。

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『銀モール8分』(型板ガラス)

終戦後わずか7年目であるが、すでに国内ガラスメーカーは旭硝子、日本板硝子に徳永硝子が参入し、激しい競争をするまでに市場が成長していた。その代表品種の一つで、建築のほか家具によく使われた。1950年代はまだ戦前のデザインを継承しており、この製品も昭和初期の「モール」に梨地系の地紋を重ねたものである。

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『クローバー』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つであるが、地紋に畳の目のようなデザインを採用している珍しいタイプである。

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『元禄』(型板ガラス)

それまで「ダイヤ」「モール」などの戦前系のデザインしかなかった型板に、新しいデザインを持ち込んだ、戦後派製品のはしりである。モダンリビング世代らしさが垣間見える独特の雰囲気である。この後各社とも新柄を出すようになり、わずか3年後には「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争を迎えることになる。

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『こずえ』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、殆ど凹凸の無い型板で、レコードの溝のような微細な模様を転写している。型ロールの製作にもガラスの製造に高度な品質管理が求められる技法で、同様の手法に「ほなみ」がある。

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『こだち』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及し、1961年からは、「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売戦争になった。その殆どが住宅用の厚さ2mmの薄板だったが、この製品は7mmの厚板専用で、深く力強い型彫りがされており、エッチングガラスの代替品として主に店舗に使われた。デザインは工芸ガラス専門の各務クリスタル。なお、エッチング代替厚型板は旭硝子の「田毎」(戦前)が最初である。

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『古都』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、平地に街区が点在するようなデザインである。このような、柄としては無難な型板はよく売れた。

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『このは(大)』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年からは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売戦争になった。そのきっかけを作ったのがこの製品で、微細な線のハッチングという、当時としては極めて高度な技術を試みたことにより、光の方向で表情が変わるという新たな機能を実現した。その新しさと、当時普及してきたテレビを媒体に宣伝したことが功を奏し爆発的にヒットした。

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『このは(小)』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年からは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売戦争になった。そのきっかけを作ったのがこの製品で、微細な線のハッチングという、当時としては極めて高度な技術を試みたことにより、光の方向で表情が変わるという新たな機能を実現した。その新しさと、当時普及してきたテレビを媒体に宣伝したことが功を奏し爆発的にヒットした。

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『さくら』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、桜の花が舞い散る様子が描かれている。和風のガラスとして、住宅のほか、日本料理店の入口などにも使われた。

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『ささ』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、名の通り笹の葉をあしらっている。吾妻障子などの和風建具に好んで使われた、販売数の多い型板のひとつである。

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『さらさ』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、古代文字を思わせるような、抽象的な模様の繰り返しが特徴である。

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『しきし』(型板ガラス)

日本の経済の復興は迅速であったが、ガラス業界もこのころは既に激しい競争社会を迎えていた。型板はまだまだ戦前の模様を販売していたが、中にはこのような新しい柄も試みはじめられていた。そのような新柄の先駆的な例である。

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『スイトピー』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つで、スイトピーをモチーフにしている。柄の線はよく見ると一本の線ではなく、方向性のある点を連続させている。型板のデザインは、実はこのように微細なデザインの計算がされている。

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『つた』(型板ガラス)

日本では高度成長期の住宅建設とアルミサッシの普及に伴い型板ガラスが普及した。特に1961年から75年頃までは「型模様戦争」と呼ばれる激しい販売競争により数十種の製品が出たが、殆どは1年程の短命であった。この製品もその一つであるが、浴室ドアなどに好まれ、多く売れている。2年前の「なると」を発展させたようなデザインに仕上がっている。

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