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細長い竹棒を縄で重ね縛ったもので、縄の方を手で掴み、竹の先でゴミや水を集めたり、底板と側板、側板と側板の隙間をこすって洗浄する。ほとんどの桶の洗浄に使用。
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310石積の弁財船富士宮丸。文政・天保期(1818~1844)ごろを中心に中野又左衛門の酢を江戸へ運んだ船を実物大で復元しています。(複製)弁財船の特徴は、1枚の大きな帆に受ける風を唯一の動力とすることです。弁財船の中央には大きな帆柱が1本だけあり、これと帆桁を組み合わせて大きな1枚の帆をはります。帆はとくに丈夫に作られた木綿をつなぎ合わせて1枚にしたものです。この帆の向きと高さを調節しながら航海しました。もう一つの特徴は、船体が板を次ぎ合わせて造られていることです。底・側面すべての板は船体に合うように曲げて、船首に突き出した「水押」といわれる材に接合されています。
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文化13年(1816年)又左衛門は隠居を決意し、太蔵を正式に二代又左衛門としました。初代又左衛門の「言置」は大要次のようなことを二代目に求めていました。1、神仏を大切に信心し、先祖代々の年忌は怠りなく勤めよ。1,火の元はとくに気を付け、醸造倉の釜や工場は必ず見て回るようににせよ。など八か条。
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「酢屋店卸帳」は、中野又左衛門が自らを「酢屋勘治郎」と名乗り作成した帳簿です。現在でいう損益計算書と貸借対照表の形式を持つ複式帳簿です。中野家の経営は酢方と酒方に分かれており、「酢屋店卸帳」は酢方の帳簿です。「酢屋店卸帳」最初の酢造りは、1810年(文化7年)の冬から翌秋にかけての270日間、2人の職人によるものでした。この年の総売上は約101両。純利益は約21両でした。翌年からは年間通して酢造りを行いました。その後、総売上は1833年(天保4年)には2000両を超えました。1837年(天保8年)の総売上は約3591両となり、順調に売上を伸ばしていく様子がこの帳簿から読み解くことができます。
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醸造・土地経営などの事業全体の収支を決算するための帳簿です。1838年(天保9年)より1902年(明治35年)まで毎年作成されました。その間、決算帳簿としての体裁がしだいに整えられていきました。最初は個別の取引相手や金額を記載していました、後には個々の情報は、「大福帳」などの諸帳票に譲り、その収支のみが記載されるようになりました。江戸の森田半兵衛も最初のころは「森半」として記載されていましたが、帳簿の整備にともない、その記載もなくなりました。「年内勘定帳」では、酢の販売は江戸方面、尾張・三河・伊勢などの地元、廻船の三つに区分されました。
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江戸両国のすし屋与兵衛から中野又左衛門らに宛てた手紙です。中野又左衛門と並んで記されている清八と重吉は、現在でいえば会社の重役にあたる支配人、為助は船頭です。すしや与兵衛は「早ずし」を始めたともいわれる人物です。この手紙が書かれたと思われる幕末期ごろでは、江戸でも最も有名なすし屋の1軒でした。与兵衛の他にも中野又左衛門は堺屋松五郎やけぬきずしなど有名なすし屋ともつながりがありました。この手紙は何か品物をもらったことに対する与兵衛からの礼状です。この時に与兵衛が中野又左衛門からもらった品はわかりませんが、中野又左衛門は与兵衛に毎年夏には瓜の粕漬、冬には海鼠腸を贈っていたようです。
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1864年(元治元年)、酢造りと酒造りを兼営していた中野又左衛門は自らが持つ酒造株1514石と購入した651石を、約300石ずつ中野小吉などの一族や中野家関係の深い人々に譲渡しました。
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「買帳」は支出を記録した帳簿です。酢の原料である酒粕、樽や桶、袋などの道具類、蔵で働く人々への給料など、中野又左衛門が支払った金額と費目・相手などが日を追って記されている。展示されている「買帳」は1845年(弘化2年)9月から約1年間の記録。(複製)
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1884年(明治17年)商標条例が施行されると、商標の専有には登録が必要になり、登録者以外の使用が禁止されました。商標使用の権利は登録出願の先着者が優先されました。中野又左衛門は、それまで同じ丸環印を使ってきた他の酢屋に遅れを取り、新たな商標を考える必要に迫られました。そこで、中野家の家紋丸にさんぎをもとに、今のミツカンマークをデザインしました。ミツカンマークの商標は1887年(明治20年)5月に登録が認可されました。最初は「三ツ環」としましたがすぐに「ミツカン」と表記を改めました。
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ミツカンマークの商標登録披露会を開催した際の資料。東京の新富座を借り切り、得意先など1,500人を招待し、ミツカンマーク入りの猪口などを配った。その費用1,300円は中埜又左衛門と東京の特約店の中井三郎で折半した。
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四代目又左衛門は1884年(明治17年)に現在のJR半田駅付近に畜舎や事務室などを建設して、「愛養舎」の名前で牛乳搾取・販売業をはじめました。愛養舎は1900年(明治33年)に「愛養舎牛乳之責任」と題するビラを発行しました。そこには、乳牛の飼育や牛乳の管理体制が万全であることなど責任を持って対処することが記されています。
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中野又左衛門は、1887年(明治20年)、甥の盛田善平にビール製法の調査を行わせ、翌年200石の丸三ビールを売り出しました。その後、順調に売上を伸ばし、1898年(明治31年)には、レンガ造りの工場を新築し、本格的なドイツビールを目指しました。新銘柄のカブトビールは、エビスなどに次いで国内5番目のシェアを誇りました。その直後、大手ビール会社同士の熾烈な販売競争が始まり、ビール会社の経営権は東京の根津嘉一郎の手に渡りましたが、カフェ文化の隆盛とともに、カブトビールの名は全国に知れ渡りました。1943年に製造は中止しましたが、近年になり当時の味わいをもつカブトビールが復刻されました。
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株式会社中埜酢店としての第一期(1923年7月~1924年6月)営業報告書。9月1日、最大の市場である関東一円が関東大震災に見舞われ、12月27日には、最大の生産拠点であった半田第一工場にて大火災が発生したことが記載されている。株式会社としてのスタートはきびしいものでありました(複製)
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昭和39年(1964年)「ぽん酢味付け」発売。1980年に「味ぽん」に商品名を変更。「味ぽん」発売初期の頃のラベルと壜。初期は丸い壜ではなく、三角壜でした。(複製)
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【小麦をよりわける「唐箕」】唐箕は、いまでいう精選機のことです。むかし、農家では収穫されたお米や小麦などの穀物の粒をわけたり、ゴミを取り除くために使われていました。醤油づくりでも、良い小麦だけをよりわけるために使われていました。
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【大豆を蒸す釜「甑」】大豆を蒸すことを豆蒸しといいます。豆蒸しは、高さ1mもある甑に大豆を入れ、お湯の入った釜の上にのせます。甑は、釜の湯の蒸気が下の穴から入り、大豆を蒸しながら上ぶたのすきまからぬけるしくみになっています。
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【小麦を炒る大鍋「焙烙」】焙烙は、小麦を炒るための大きな鍋です。火をたく竈戸は土やレンガでつくられていました。鍋の部分は小麦を焦がさないようにかきまぜるため、ふちが浅くなっています。焙烙で炒った小麦は、石臼で割られます。
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【麹をつくる「麹室」】麹室は、大豆、小麦、種麹を混ぜ合わせたものを寝かせ、麹をつくるところです。室内は温度や湿度を自由に調整でき、麹菌が育ちやすいように工夫されています。麹は約3日間かかって出来上がります。
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【麹と食塩水を入れもろみをつくる「大桶」】麹室でできた麹と食塩水を大桶に仕込みます。もろみは倉人たちに育まれ、1年かかって熟成します。大桶の中のもろみを、まんべんなく熟成させるために櫂でかきまぜます。仕込み初めの頃は毎日行われます。
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【醤油を整える「火入れ釜」】圧搾機でしぼられた生醤油は、火入れ釜で熱せられます。火入れは酵母や麹菌の働きをとめ、色、味、香りを整える大切な工程です。火入れ加減は最も難しい作業の一つで、おいしい醤油をつくる重要なポイントです。
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ポリネシア タヒチ島のダブルカヌー。1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。この華やかに装飾されたダブルカヌーは、昔タヒチ島のさまざまな儀式に使われたカヌーを実物通りに復元したものです。復元はハワイのビショップ博物館の篠遠喜彦博士のご協力により、オセアニアの古代カヌーの専門家であり、優れた芸術家であるハーバート・カネ氏がデザインしました。これをタヒチ島の夕ウティラ村の人々の手で建造したものです。この儀礼用ダブルカヌーは、船首と船尾に装飾用の像がつけられ、デッキには小さな神殿が建てられていました。船首と船尾の像は、初期のヨーロッパ人来訪者のスケッチをもとに復元しました。
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1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。フィリピン南方スール一諸島を航海する、“レパ”と呼ばれる家船で、パジャウ人の住居であり、生業そのものの道具でもあります。夜は寝床、朝は食堂、昼は仕事場になります。船体はすっきりと突き出た船首と船べりを持ち、屋根はニッパヤシで作られています。アウトリガーも舷側もないので船が軽くなり、手漕ぎや帆走にすばらしい性能をも っています。収集当時はすでに船外機を取りつけたものが多くみられました。この“レパ”はフィリピン国立博物館の協力により、スール一諸島のシタンカイ島より贈られたもので、1975年の春まで漁師の一家が居住し、漁撈をいとなんでいました。
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バリ島で漁労に使われるダブルアウトリガー式のカヌー漁船です。船首は動物が口を開けたように二股になり、船尾は尾を表すように反り返っています。腕木は結縛される船体から大きく上に湾曲し、それに下に湾曲する添え木が結合されて竹で造られた浮き木に結縛されています。浮き木は先端が尖らされており、船尾、左舷側に舵がつき、帆は船首に近いところの横梁の穴に挿入された短いマストに三角帆が上桁の紐でぶら下がる構造になっています。マストは固定式でカロリン型のマストのように可動しません。2002年に建造したものを2013年に修復、収集しました。
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パプアニューギニア・ビスマルク諸島のワトム島のシングルアウトリガーカヌーで、1975年沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。腕木は自然に二股に分かれた枝を使い、二股の部分を縦にして、浮き木からまっすぐ伸びた、スペード型の二枚の支柱(ペグ)で挟むようにして装着しています。船体は白く塗られ、反り返るような船首と船尾材が船体に結合されています。とくに独特の船首の形態はカブトムシの角を模したと言われています。
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サモア ウポル島の漁撈用のシングルアウトリガーカヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。西サモアの漁村で使用されていたパドリングカヌーです。1~2名乗りで島の沿岸やリーフ内で1つのパドルでこぎながら漁を行います。海のおだやかな日にはリーフの外に出て外海での漁にも使われました。船体は、船首が内側に反りながら鋭く尖り、船尾はなだらかなカーブを描き先端が切り落とされたような形をしています。船首と船尾の上にはしばしば鋸歯状の装飾つくのがサモアのカヌーの特徴の一つで、このカヌーには船首上に帯状の突起があります。このカヌーは1970年代にすべて手作業で作られました。
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バヌアツ ペンテコスト島のシングルアウトリガーカヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。1950年頃に建造され、ペンテコスト島北部の漁村で70年代まで使用されていた交易用カヌーです。木をくり抜いた実用的なカヌーで、目的地が比較的近いせいか帆はつけていません。当時は4人以上の村人が乗って漕ぎ、竹の板の下には交易品の豚を入れ、その上にバスケットなどを置いたといいます。この種の伝統的な丸木船はペンテコスト北部には収集当時すでに4隻しかなく、完全に 原型を保っているのはこの1隻だけでした。アウトリガーや竹の板の結び方を知っている村人もわずかでした。
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タタラ舟は、台湾南西沖にある蘭嶼(ランユウ)島に居住するタオ(ヤミ)族の個人漁労用カヌーで、主にトビウオ漁で使われています。舟の構造は、船底、船首、船尾3本の竜骨を含めて、合計21枚の板を組み合わせて作られており、使われた材料は、全て島に自生する木材を使用しています。板の接着には島の桑の木を使った釘で固定しています。 船体は、赤・白・黒の顔料で彩色されいます。船首、船尾には、モロンと呼ばれる鶏の羽をあしらった装飾がなされており、 彫刻は各集落においてデザインが決まっており、どの集落所属の舟なのか一目で分かるようになっています。本資料は、東清集落の伝統的なデザインです。
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パプアニューギニア東セピック州シューテン諸島のシングルアウトリガーカヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。シューテン諸島の人々は、こうしたカヌーでニュ一ギニア本土と交易をしたり、子どもたちは学校に通学していました。船には水よけの板と帆がつくようになっていますが、主にパドルで漕ぎます。船体は内湾し、乗り手はカヌーにまたがるようにして乗ります。このカヌーは船体の舳先とスキー板状の薄い浮き木の先端がともに鰐のような彫刻が施され、船体にも特有の螺旋模様が彫刻や魚のような模様など芸術性の高い様々な模様が施されています。
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パプアニューギニア・セピック川流域のカヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。漁業ばかりでなく、川の上流と海岸沿いの間で、交易にも使われました。河川で使用されるカヌーでは一般的なアウトリガーを持たない細長い船体をしています。カヌーの長さは、通常5~6メ 一トル程ですが、30メートル程の長さのものもあります。船首にはそれぞれの部族を表す彫像が取りつけられており、このカヌーにはワニの彫像が取りつけられています。船外エンジンがセピック河地域にもたらされたのは、第二次世界大戦後のことである。船尾の割れ目はこの船外エンジンを取り付けるためのものです。
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カロリン諸島のポロワット島で2013年に製作され、島からグアム島まで約800キロを5日間かけて実際に航海を行いました。材料は島で採れる樹木・植物のみを使用し、船体の船底部や舷側板はすべてパンノ木を使用し、部材はすべてココヤシの実の繊維を撚った紐で結縛されました。帆は伝統的なパンダナスから作られ、船名のリエン・ポロワットとはポロワットの美しい女性を意味し、帆作りなどに貢献した女性たちを称えています。島の首長テオ・オノペイ氏ら8人の島民が航海を成し遂げ、その後解体して輸送し本船を館内で再組み立てました。カロリン型航海カヌーの特徴である前後同型であるが、アウトリガー側が若干膨らんでいます。
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パプアニューギニア ポートモレスビー地区の大型交易カヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。モトゥ族の女性たちがつくる大量の土器を積んで運ぶための交易用の船で、季節風を利用し9月~10月に西に航海し、11月~12月にはココヤシ、サゴヤシ、タロイモ、ビンロウジ、バナナなどを船に満載して帰郷しました。3~4艘の大型カヌーを結束して組み立て、積載量に優れ、カニ爪型の帆が特徴です。実際には舟の全長と同じくらいの高さをもつ巨大な帆ですが、展示用に縮小してあります。ラカトイによる交易は、20世紀半ばには衰退しましたが、このカヌーは島の人々が海洋文化館に出品するため建造したものです。
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パプアニューギニア・トロブリアンド諸島キリウィナ島のカヌーで、島民の好意により贈られた1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。「クラ」とは、トロブリアンド諸島の人々が島の間で行う、貝製の首飾りや腕輪を交換する儀礼のことで、このカヌーはその航海用のもので、近くのクラパートナーの島々との間を行き来しました。実際のクラ交易に使われ、帆まで残る完全なもので、今では現地でも見られなくなった貴重な資料です。精緻な彫刻と彩色、美しいタカラガイの飾りが施され、装飾のためであると同時に、船を守る呪術的なものでもあります。こうしたカヌーは、現在、本来の目的ではほとんど使用されなくなりました。
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タタナーは「ターチ(二つ)」「タナ(棚=舷側材)」という意味です。琉球王国時代や明治時代の記録に「二棚船」や「四棚船」という舟が現れますが、そのうちの「二棚船」にあたります。20世紀のはじめに「伝馬船」という別の舟と混同されるようになり、忘れられていきました。板材を鉄釘でつないだ平底の舟で、前後の区別がつけにくく、安定性や操作性がよいのが特徴です。その性能を生かし、おもに移動・運搬に使われました。
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マチキフニは松木舟の意味で、リュウキュウマツで作った丸木舟です。2012(平成24)年に約3か月かけて、西表島の祖納集落で樹齢約70年のリュウキュウマツを使用し造られました。祖納集落では、丸木舟のことを材料の名を取って呼び、他にアカンギフニ(赤木舟)などがあり、戦後までは耕作地への往復や漁労などに使用しました。その集落に専門の船大工はおらず、住民がユイ(結)と呼ばれる共働関係を結び、協力して造りました。
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明治時代以降、糸満で杉材を接ぎ合せたハギンニ(接ぎ船)をつくるようになり、ほかのサバニから区別するため「本ハギ」と呼ばれました。部材を接ぎ合せるのに鉄クギを使わず、フンドゥー、フンルーと呼ばれる木製の接合材やルークギと呼ばれる竹釘を使用しています。このサバニは2012に約3か月かけ、大城清が中心となって糸満市で建造したものです。1950年代を境にエンジン付きの漁船が普及し、ずいぶん少なくなりましたが、その後も各地のハーリー競漕で本ハギが求められたこともあり、その建造技術は、糸満市以外にも沖縄島南部の奥武島や石垣島の白保、伊江島など県内各地で受け継がれ、新たな製作者も現れています。
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南洋ハギと呼ばれる型のサバニです。2012(平成24)年に約2か月かけ、大城昇が中心となって糸満市で建造しました。戦前のサイパン島に移住した船大工、上原新太郎が考案したと言われます。現地で入手可能な板を曲げて鉄釘で接合し、補強材をつけ加えたものです。本ハギの代用品の簡素な舟と思われがちですが、薄い板材を曲げたり接ぎ合せたりする作業には熟練の技が必要です。補強材はサバニでは「南洋ハギ」ではじめて採用されました。のちのサバニの動力化や大型化を可能にした、画期的な技術革新でした。現在は需要もなく、建造技術の継承に課題が残ります。
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戦争中にアメリカ軍が沖縄に持ち込んだ多くの物資は、戦後、払い下げられ、さまざまな用途に転用されました。アメリカ軍用機の補助燃料タンクもそのひとつで、分割して舟として使いました。ジェラルミン製(鉄製)の燃料補助タンクを半分に分割して、木製の船べりを継ぎ足して作られています。
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大正末期から昭和2年にかけて建てられたカクキューの本社屋。平成8年には愛知県では初となる国の登録有形文化財に登録された。教会のような洋風な形だが、色は黒と白を基調としており、周りの味噌蔵の色と調和するデザインとなっている。※外観のみ見学可
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八丁味噌を天然醸造で熟成させる味噌蔵。工場見学では、大正13年に建てられた味噌蔵「甲子蔵(きのえねぐら)」の内部を見学することができる。八丁味噌は、岡崎市八丁町の気候風土の中で、二夏二冬(2年以上)天然醸造でゆっくりと熟成させる。木桶の上の円錐状の重石は天然の川石で、今でも10年以上修行をした熟練の職人の手で、味噌6トンに対して3トン(約350個)の石を積んでいる。
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明治40年に味噌蔵として建てられた当社最大の蔵。近くを流れる矢作川がかつては頻繁に氾濫して川の水が押し寄せてきたため、石垣が高く積んである。平成3年からは内部を改装して史料館として開館している。 史料館では等身大の人形を使って昔ながらの味噌造りの工程を再現しており、宮内省御用達関連の史料やレトロな味噌のパッケージなどを展示している。大蔵も本社屋と同様に平成8年に愛知県では初となる国の登録有形文化財に登録された。
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玄佺館(げんせんかん)は、19代 早川久右衛門の母方の実家である森家の蔵を移築し、2018年10月に開館。ここでは、カクキューの歴史や味噌の豆知識、全国味噌マップなどを常設展示している。森家は、元亀年間から約400年にわたり三重県四日市市で漢方医をしており、代々「森玄佺(もりげんせん)」という名を襲名している。この建物には、主に生薬などが保管されていた。「玄佺館」の名は「森玄佺」にちなんで名づけられた。
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史料館には、当社最古の天保10年(1839年)製の六尺桶が展示されている。八丁味噌は今も昔も、全て六尺桶(高さと底の直径が約1.8m)という大きな木桶に仕込んで熟成させる。なお、現役で使用している最古の六尺桶は天保15年(1844年)製。
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日本学術振興会南極地域学術観測隊の携行食品として当社の八丁味噌は昭和31年(1956年)9月、耐暑耐寒試験を受けた結果優良と認められ、同年11月の予備観測から昭和37年(1962年)4月まで毎回使用された。史料館には第八次南極観測越冬隊で豊田市出身の六峰咲年氏から贈られた感謝状および南極の石が展示してある。南極の石はブリザード(北極、南極地方で吹雪を交えて吹く寒い風)でえぐられた痕が確認できる。
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史料館入口手前にあるのは、かつて貯水タンクとして使用されていた「給水塔(きゅうすいとう)」である。大正時代に造られ、史料館から西へ数十メートル離れた大井戸(大正13年(1924年)完成)からポンプで水をくみ上げていた。大井戸からはかつて矢作川の良質な伏流水が得られていたが、昭和時代に井戸の水が枯れてしまったため現在は給水塔も大井戸も使用していない。大井戸の設計は、首都高速道路公団委員として「東京オリンピック(昭和39年(1964年))」道路の建設に尽力されたことでも有名な、鷹部屋福平(たかべやふくへい)氏が行った。
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私領傍示石(しりょうぼうじせき)とは、村と村の境界を示す標識のこと。「従是東岡崎領(これよりひがしおかざきりょう)」は「ここから東は岡崎の領地です」という意味で、かつての岡崎領の西の入り口に建立されていた(現在の安城市宇頭茶屋町と、安城市浜屋町との境界付近)。明治期になり各地の傍示石は隅に追いやられたり、移転したりして最後には廃棄されることが多かった中、「従是東岡崎領」はどういった経緯か不明だが、当社敷地内に移設され残ったため歴史的に貴重なものである。石の根本には、「元文元年(1736年)丙辰 石工小林當良」と刻まれている。
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