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バヌアツのシングルアウトリガーカヌー

バヌアツ ペンテコスト島のシングルアウトリガーカヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。1950年頃に建造され、ペンテコスト島北部の漁村で70年代まで使用されていた交易用カヌーです。木をくり抜いた実用的なカヌーで、目的地が比較的近いせいか帆はつけていません。当時は4人以上の村人が乗って漕ぎ、竹の板の下には交易品の豚を入れ、その上にバスケットなどを置いたといいます。この種の伝統的な丸木船はペンテコスト北部には収集当時すでに4隻しかなく、完全に 原型を保っているのはこの1隻だけでした。アウトリガーや竹の板の結び方を知っている村人もわずかでした。

情報所有館 : 海洋文化館 


タオ(ヤミ)族のタタラ船

タタラ舟は、台湾南西沖にある蘭嶼(ランユウ)島に居住するタオ(ヤミ)族の個人漁労用カヌーで、主にトビウオ漁で使われています。舟の構造は、船底、船首、船尾3本の竜骨を含めて、合計21枚の板を組み合わせて作られており、使われた材料は、全て島に自生する木材を使用しています。板の接着には島の桑の木を使った釘で固定しています。 船体は、赤・白・黒の顔料で彩色されいます。船首、船尾には、モロンと呼ばれる鶏の羽をあしらった装飾がなされており、 彫刻は各集落においてデザインが決まっており、どの集落所属の舟なのか一目で分かるようになっています。本資料は、東清集落の伝統的なデザインです。

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シューテン諸島のシングルアウトリガーカヌー

パプアニューギニア東セピック州シューテン諸島のシングルアウトリガーカヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。シューテン諸島の人々は、こうしたカヌーでニュ一ギニア本土と交易をしたり、子どもたちは学校に通学していました。船には水よけの板と帆がつくようになっていますが、主にパドルで漕ぎます。船体は内湾し、乗り手はカヌーにまたがるようにして乗ります。このカヌーは船体の舳先とスキー板状の薄い浮き木の先端がともに鰐のような彫刻が施され、船体にも特有の螺旋模様が彫刻や魚のような模様など芸術性の高い様々な模様が施されています。

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セピック川のカヌー

パプアニューギニア・セピック川流域のカヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。漁業ばかりでなく、川の上流と海岸沿いの間で、交易にも使われました。河川で使用されるカヌーでは一般的なアウトリガーを持たない細長い船体をしています。カヌーの長さは、通常5~6メ 一トル程ですが、30メートル程の長さのものもあります。船首にはそれぞれの部族を表す彫像が取りつけられており、このカヌーにはワニの彫像が取りつけられています。船外エンジンがセピック河地域にもたらされたのは、第二次世界大戦後のことである。船尾の割れ目はこの船外エンジンを取り付けるためのものです。

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リエン・ポロワット号-カロリン諸島の航海カヌー

カロリン諸島のポロワット島で2013年に製作され、島からグアム島まで約800キロを5日間かけて実際に航海を行いました。材料は島で採れる樹木・植物のみを使用し、船体の船底部や舷側板はすべてパンノ木を使用し、部材はすべてココヤシの実の繊維を撚った紐で結縛されました。帆は伝統的なパンダナスから作られ、船名のリエン・ポロワットとはポロワットの美しい女性を意味し、帆作りなどに貢献した女性たちを称えています。島の首長テオ・オノペイ氏ら8人の島民が航海を成し遂げ、その後解体して輸送し本船を館内で再組み立てました。カロリン型航海カヌーの特徴である前後同型であるが、アウトリガー側が若干膨らんでいます。

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ラカトイ

パプアニューギニア ポートモレスビー地区の大型交易カヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。モトゥ族の女性たちがつくる大量の土器を積んで運ぶための交易用の船で、季節風を利用し9月~10月に西に航海し、11月~12月にはココヤシ、サゴヤシ、タロイモ、ビンロウジ、バナナなどを船に満載して帰郷しました。3~4艘の大型カヌーを結束して組み立て、積載量に優れ、カニ爪型の帆が特徴です。実際には舟の全長と同じくらいの高さをもつ巨大な帆ですが、展示用に縮小してあります。ラカトイによる交易は、20世紀半ばには衰退しましたが、このカヌーは島の人々が海洋文化館に出品するため建造したものです。

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クラカヌー

パプアニューギニア・トロブリアンド諸島キリウィナ島のカヌーで、島民の好意により贈られた1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。「クラ」とは、トロブリアンド諸島の人々が島の間で行う、貝製の首飾りや腕輪を交換する儀礼のことで、このカヌーはその航海用のもので、近くのクラパートナーの島々との間を行き来しました。実際のクラ交易に使われ、帆まで残る完全なもので、今では現地でも見られなくなった貴重な資料です。精緻な彫刻と彩色、美しいタカラガイの飾りが施され、装飾のためであると同時に、船を守る呪術的なものでもあります。こうしたカヌーは、現在、本来の目的ではほとんど使用されなくなりました。

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タタナー

タタナーは「ターチ(二つ)」「タナ(棚=舷側材)」という意味です。琉球王国時代や明治時代の記録に「二棚船」や「四棚船」という舟が現れますが、そのうちの「二棚船」にあたります。20世紀のはじめに「伝馬船」という別の舟と混同されるようになり、忘れられていきました。板材を鉄釘でつないだ平底の舟で、前後の区別がつけにくく、安定性や操作性がよいのが特徴です。その性能を生かし、おもに移動・運搬に使われました。

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マチキフニ

マチキフニは松木舟の意味で、リュウキュウマツで作った丸木舟です。2012(平成24)年に約3か月かけて、西表島の祖納集落で樹齢約70年のリュウキュウマツを使用し造られました。祖納集落では、丸木舟のことを材料の名を取って呼び、他にアカンギフニ(赤木舟)などがあり、戦後までは耕作地への往復や漁労などに使用しました。その集落に専門の船大工はおらず、住民がユイ(結)と呼ばれる共働関係を結び、協力して造りました。

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本ハギ

明治時代以降、糸満で杉材を接ぎ合せたハギンニ(接ぎ船)をつくるようになり、ほかのサバニから区別するため「本ハギ」と呼ばれました。部材を接ぎ合せるのに鉄クギを使わず、フンドゥー、フンルーと呼ばれる木製の接合材やルークギと呼ばれる竹釘を使用しています。このサバニは2012に約3か月かけ、大城清が中心となって糸満市で建造したものです。1950年代を境にエンジン付きの漁船が普及し、ずいぶん少なくなりましたが、その後も各地のハーリー競漕で本ハギが求められたこともあり、その建造技術は、糸満市以外にも沖縄島南部の奥武島や石垣島の白保、伊江島など県内各地で受け継がれ、新たな製作者も現れています。

情報所有館 : 海洋文化館 


南洋ハギ

南洋ハギと呼ばれる型のサバニです。2012(平成24)年に約2か月かけ、大城昇が中心となって糸満市で建造しました。戦前のサイパン島に移住した船大工、上原新太郎が考案したと言われます。現地で入手可能な板を曲げて鉄釘で接合し、補強材をつけ加えたものです。本ハギの代用品の簡素な舟と思われがちですが、薄い板材を曲げたり接ぎ合せたりする作業には熟練の技が必要です。補強材はサバニでは「南洋ハギ」ではじめて採用されました。のちのサバニの動力化や大型化を可能にした、画期的な技術革新でした。現在は需要もなく、建造技術の継承に課題が残ります。

情報所有館 : 海洋文化館 


タンクブニ

戦争中にアメリカ軍が沖縄に持ち込んだ多くの物資は、戦後、払い下げられ、さまざまな用途に転用されました。アメリカ軍用機の補助燃料タンクもそのひとつで、分割して舟として使いました。ジェラルミン製(鉄製)の燃料補助タンクを半分に分割して、木製の船べりを継ぎ足して作られています。

情報所有館 : 海洋文化館 


本社屋

大正末期から昭和2年にかけて建てられたカクキューの本社屋。平成8年には愛知県では初となる国の登録有形文化財に登録された。教会のような洋風な形だが、色は黒と白を基調としており、周りの味噌蔵の色と調和するデザインとなっている。※外観のみ見学可

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


味噌蔵

八丁味噌を天然醸造で熟成させる味噌蔵。工場見学では、大正13年に建てられた味噌蔵「甲子蔵(きのえねぐら)」の内部を見学することができる。八丁味噌は、岡崎市八丁町の気候風土の中で、二夏二冬(2年以上)天然醸造でゆっくりと熟成させる。木桶の上の円錐状の重石は天然の川石で、今でも10年以上修行をした熟練の職人の手で、味噌6トンに対して3トン(約350個)の石を積んでいる。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


大蔵(現・史料館)

明治40年に味噌蔵として建てられた当社最大の蔵。近くを流れる矢作川がかつては頻繁に氾濫して川の水が押し寄せてきたため、石垣が高く積んである。平成3年からは内部を改装して史料館として開館している。 史料館では等身大の人形を使って昔ながらの味噌造りの工程を再現しており、宮内省御用達関連の史料やレトロな味噌のパッケージなどを展示している。大蔵も本社屋と同様に平成8年に愛知県では初となる国の登録有形文化財に登録された。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


玄佺館

玄佺館(げんせんかん)は、19代 早川久右衛門の母方の実家である森家の蔵を移築し、2018年10月に開館。ここでは、カクキューの歴史や味噌の豆知識、全国味噌マップなどを常設展示している。森家は、元亀年間から約400年にわたり三重県四日市市で漢方医をしており、代々「森玄佺(もりげんせん)」という名を襲名している。この建物には、主に生薬などが保管されていた。「玄佺館」の名は「森玄佺」にちなんで名づけられた。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


天保10年製の木桶

史料館には、当社最古の天保10年(1839年)製の六尺桶が展示されている。八丁味噌は今も昔も、全て六尺桶(高さと底の直径が約1.8m)という大きな木桶に仕込んで熟成させる。なお、現役で使用している最古の六尺桶は天保15年(1844年)製。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


南極の石

日本学術振興会南極地域学術観測隊の携行食品として当社の八丁味噌は昭和31年(1956年)9月、耐暑耐寒試験を受けた結果優良と認められ、同年11月の予備観測から昭和37年(1962年)4月まで毎回使用された。史料館には第八次南極観測越冬隊で豊田市出身の六峰咲年氏から贈られた感謝状および南極の石が展示してある。南極の石はブリザード(北極、南極地方で吹雪を交えて吹く寒い風)でえぐられた痕が確認できる。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


給水塔

史料館入口手前にあるのは、かつて貯水タンクとして使用されていた「給水塔(きゅうすいとう)」である。大正時代に造られ、史料館から西へ数十メートル離れた大井戸(大正13年(1924年)完成)からポンプで水をくみ上げていた。大井戸からはかつて矢作川の良質な伏流水が得られていたが、昭和時代に井戸の水が枯れてしまったため現在は給水塔も大井戸も使用していない。大井戸の設計は、首都高速道路公団委員として「東京オリンピック(昭和39年(1964年))」道路の建設に尽力されたことでも有名な、鷹部屋福平(たかべやふくへい)氏が行った。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


私領傍示石「従是東岡崎領」

私領傍示石(しりょうぼうじせき)とは、村と村の境界を示す標識のこと。「従是東岡崎領(これよりひがしおかざきりょう)」は「ここから東は岡崎の領地です」という意味で、かつての岡崎領の西の入り口に建立されていた(現在の安城市宇頭茶屋町と、安城市浜屋町との境界付近)。明治期になり各地の傍示石は隅に追いやられたり、移転したりして最後には廃棄されることが多かった中、「従是東岡崎領」はどういった経緯か不明だが、当社敷地内に移設され残ったため歴史的に貴重なものである。石の根本には、「元文元年(1736年)丙辰 石工小林當良」と刻まれている。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


早川氏庭榎の碑

この碑は、榎(えのき)の古樹の頌徳碑(しょうとくひ)で、植物の霊異を讃える大変珍しい碑。また、早川家の由緒をうかがえる重要な石碑でもある。元々現在の岡崎市舳越町の願照寺(創業家である早川家の檀那寺)北方の早川家所有地に建っていたが、戦後の農地改革で早川家がその土地を手放した為、昭和期に当社敷地内へ移設された。石碑には、早川家の祖先が元は今川義元に仕える家臣で、桶狭間の戦いで今川が敗れた際に、岡崎に逃げ延びたことなどが刻まれている。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


正直台

木桶の側面の板を「側板(がわいた)」、底にはまった板を「底板(そこいた)」と呼ぶが、側板同士、底板同士の接触面を「正直(しょうじき)」と呼び、「正直」を削るのが「正直台」という当社史料館にも展示している長い鉋(かんな)である。木桶は円形であり、また下へ向かってすぼまっている形であるため、「正直」を削る時に微妙な角度をつける必要があり、職人の豊富な経験および高度な技術が必要である(「正直」がぴったり合わさらなければすぐに漏れる木桶となってしまう)。そのため、『職人の技量がそこに正直に現れる』という意味で、削る面が「正直」と呼ばれるようになったのでは、と言われている。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


本蔵地蔵

江戸時代中期に蔵(本蔵)を建てようとしたところ、土の中から現れたお地蔵様。毎年八月に従業員一同で地蔵盆を行っている。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


岡崎城の庭にあった蘇鉄

徳川家康公生誕の岡崎城は、明治維新後に天守など主要建物が取り壊された。岡崎藩との関係を深めていた早川家は、維新後の取り壊しに当たって、藩から天守の用材および城内に植えてあった蘇鉄、牡丹を譲り受けた。それから現在まで生き続けているのがこの記念の蘇鉄。尚、藩からいただいた用材の内3本は、昭和34年に再建された岡崎城の天守内に展示中で、他の用材は早川家の建物に使われている。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


ボイラーとストーカー

本社屋前にあるのは、大豆を蒸すために使用していた「ボイラー」(左)と、石炭を効率的にボイラーへ供給するために設置されていた「ストーカー」(右)の一部。昭和16年に導入され、昭和50年頃まで使われていたが、燃料が石炭から石油、ガスへと変わっていったため使用されなくなった。

情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 


開拓記念館外観

大正8年建築、昭和11年移築し、昭和63年まで使用されていた旧開拓農家(富山県から入植)の住宅を中札内村の開拓の歴史を後世に伝えるために道の駅なかさつないに移築・復元したもの。富山県の上層農家に見られる「ワクノウチ造り」と呼ばれる建築様式である。豪雪地帯の住宅ならではの工夫として、雨戸に設けられた明り取りの為の窓ガラス(冬季は防寒防雪対策で雨戸を閉めたままになるため)、征葺き屋根(現在は違う素材)などがある。

情報所有館 : 開拓記念館(帯広) 


吹き抜け天井・井桁造り

住宅は富山県など北陸の豪雪地帯によくみられる伝統的な建築様式ワクノウチ(井桁)造りである。ワクノウチ造りの特徴として、茶の間を中心とした間取り、茶の間・広間は天井を張らず吹き抜けでまぐさと鴨居が一体の平物と大黒柱、四隅の柱が中心となり、セイロ組で頑丈に組み立てる構造。この造りにより冬季、屋根に積もった雪の重みにも耐えることができる。

情報所有館 : 開拓記念館(帯広) 


座敷・奥座敷

座敷・奥座敷の装飾はその家の財力を表します。こちらの住宅には仏間や書院造りの床の間を設け、部屋と部屋の境の壁には明り取りの欄間や釘隠も施されていることから、かなり裕福だったことが伺えます。

情報所有館 : 開拓記念館(帯広) 


糸巻き

寄贈品。大正~昭和初期まで使われていた糸巻き。

情報所有館 : 開拓記念館(帯広) 


防寒着など

寄贈品。大正~昭和初期まで使われていた様々な生活用品も展示している。

情報所有館 : 開拓記念館(帯広) 


点播器(竹内式点播器)

豆を播く機械。昭和15~16年頃使用していたもの。附属の緑色の入れ物に取り外し可能なプレートが入っており、蒔く豆の種類(大きさ)によってプレートを取り替えて使用した。

情報所有館 : 中札内村豆資料館ビーンズ邸 


豆播き機

明治~大正時代に生花のあたり(晩成社)で使用したもの。種板を変えるといろいろな大きさの豆をまくことができる。春の耕したばかりの畑にパチンパチンと豆を落とし足で土をかける。

情報所有館 : 中札内村豆資料館ビーンズ邸 


手唐箕(てとうみ)

穀物に付着した土ほこり、未熟ツブ、砕粒を風力で除く農具。落下する砕粒に横方向から風をあてると充実した粒は手前に、軽いわらやごみは遠方に飛ぶ。昭和30年代まで広く使用され、現在も一部使用されている。

情報所有館 : 中札内村豆資料館ビーンズ邸 


唐棹(からさお)

豆打ちに使う。木や竹の棹に棒や竹を取り付けた農具。棹の先を上下させ、取り付けた棒や竹をまわして豆を叩く。唐棹を使うにはコツがあり、慣れないと肘をうつこともある。

情報所有館 : 中札内村豆資料館ビーンズ邸 


足踏み扇風機

穀物の収穫の際使用した。唐箕での調整作業はいい豆、悪い豆を分けるためであるが、この足踏み扇風機はその前の段階、豆とごみを分けるための道具である。

情報所有館 : 中札内村豆資料館ビーンズ邸 


麻袋刺(またいさざし)5号

麻袋(60 kg入)の米、麦の検査格付資料の採取に使用。

情報所有館 : 中札内村豆資料館ビーンズ邸 


ウーズレーCP型トラック

いすゞ自動車の前身である東京石川島造船所が、英国ウーズレー社と提携して大正13年に国産化した1.5トン積トラック;昭和初期の日本において国産車が工業化するうえで、パイオニアの役割を果たした。保存車は、国立科学博物館より返還された生産第一号車を1991年に完全修復したものであり、実走行可能な状態に保たれ、いすゞ自動車本社エントランスホールに展示されている。

情報所有館 : 国立科学博物館 


スミダM型バス

昭和初期、米国車の急激な進出に対抗するため、国産保護自動車としてL型(大型・2トン)、M型(小型・1トン)のシャシが開発され、トラック・バスに使用された。これらは、スミダの標準車として多数生産され、この時代の代表車となった。保存車は、M型の小型乗合バスを、多少オリジナルの部分が損なわれた状態ではあるが、いすゞ自動車川崎工場で保管している。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞTX40型トラック

昭和初期、国策による国産自動車振興のため、商工省標準形式の自動車を、鉄道省の協力を得て、石川島自動車製作所・東京瓦斯電気工業・ダット自動車製造の3社が分担して開発した。トラックにはTX40型2トン積(都市及び近郊用)、TX35型1.5トン積(地方一般用)の2種類があり、材料・電装品・計器類に至るまで全て国産品を使用し、国産自動車工業の基礎を確立した。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞTX80型トラック

昭和21年11月より生産されたTX80型5トン積ガソリントラックは、戦後の産業復興の需要に応えるべく開発され、強力・快適・経済の3点から好評を博した。昭和22年10月からは兄弟車としてTX61型ディーゼルトラックも生産に入り、戦後の5~6トントラック市場に王座を占める「名車いすゞTX型トラック」の出発点となった。保存車は、昭和22年製造のTX80型5トン積ガソリントラックを1997年に完全修復したものであり、実走行可能な状態に保たれ、いすゞ総合サービスセンター・川口で保管している。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞBX91型バス

昭和23年1月より生産されたBX91型ディーゼルバスは、戦後の極度に混乱した人員輸送の円滑化に協力すべく、大型ディーゼルバスとして開発された。専用シャシを用いた低床化・フロントショックアブ付・リアスプリングロングスパン アンダースラング等、当時としては画期的なものであり、戦後国産バスの先駆けとして、今日のバス設計の基幹となっている。札幌市交にBX95型(1955年製)が保存されているほか、バス友の会等の愛好者によりBX型ボンネットバスが多数動態保存されている。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞヒルマンミンクスPH10型乗用車

昭和28年にいすゞ自動車と英国ルーツ社が技術援助協定を結んで製作した乗用車で、英国風高級感溢れる乗用車として好評を博した。昭和31年にはニューヒルマンへモデルチェンジし、技術移転と共に国産化比率を高め、昭和32年10月までには全部品が国産化され、昭和39年6月まで製造された。保存車は、国産第一号車であり、トヨタ博物館に貸出し展示中である。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞエルフTL151型トラック

昭和34年に発表された小型ガソリントラック・エルフに続いて、昭和35年より生産された小型ディーゼルトラック・エルフは、地場・集配・小廻用途として、キャブオーバーレイアウトの積載効率・ディーゼルエンジンの経済性が高く評価され、ベストセラーカーとしての基礎を確立した。その後も前輪駆動・超低床・独立懸架・四駆等の新技術を追加しながら発展を続けている。保存車は、初期型エルフを、奈良いすゞが動態で保管している。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞベレルPSD10型乗用車

昭和30年代後半の代表的中型車;欧州調の落ち着いたスタイルと共に尾灯を三角にするなど直線を強調した斬新なデザインで登場した。ガソリンエンジンの他にディーゼルエンジンも搭載され、経済性ゆえタクシー等に数多く使用された。昭和38年4月「昭和37年度日本機械学会賞」を受賞;日本におけるディーゼル乗用車のパイオニアとして「独創的かつ優秀な技術製品」と賞された。保存車は、三角尾灯のディーゼル車(PSD10型)を、いすゞ自動車藤沢工場で保管している。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞベレットPR90型乗用車

昭和39年4月に発表された我が国初のグランツーリスモ・ベレット1600GTは、高速・ロングドライブに最適なGTというジャンルを拓いた車として、好評を博した。その後ファストバック・GTR等の派生車を加えながら、ベレGの愛称で呼ばれ、ユーザー会等で大切に保存されながら実用に供されている。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞD920型ディーゼルエンジン

我が国で最初に開発された自動車用4サイクル直接噴射式ディーゼルエンジン;昭和40年代に入り高速道路網の発達・産業経済機構の変化を反映し、大型トラック・バスの走行距離が増加の一途をたどり、エンジンに対する信頼性ならびに燃料経済等の要求がより強くなっていった。それらの要求に応えるべく開発されたのがD920型直接噴射式ディーゼルエンジンであり、その後のトラック・バス用ディーゼルエンジンの直接噴射化の流れを作り出す先駆けとなった。

情報所有館 : 国立科学博物館 


いすゞ117クーペPA90型乗用車

ジウジアーローによるイタリアン・デザインの美しいボディを持ったスペシャリティカー;1996年のジュネーブショーで発表されコンクールドエレガンスで優勝;同年の東京モーターショーでも気品に富んだ流麗な美しさが賞賛を博した。ユーザ会等の愛好者により初期型(1968~)の車両も大切に保存されている。保存車は、最終ラインオフ車(1982)(PA96型)を、いすゞ自動車藤沢工場で保管している。

情報所有館 : 国立科学博物館 


スズライト SS(乗用車)

日本で最初の軽四輪乗用車であり、1955年10月に2サイクル・360ccで発表した。「スズライト」の「スズ」は“スズキ”の略であり、「ライト」は“軽い”という意味のほか、“光明”を意味している。当時、四輪車に2サイクルエンジンを搭載して成功させたのは日本では「スズライト」が初めてであり、FF方式(フロントエンジン・フロントドライブ)を日本で初めて採用したのも「スズライト」である。

情報所有館 : 国立科学博物館 


スズキ フロンテ800(乗用車)

1962年から1964年の東京モーターショーに立て続けに参考出品として展示した800ccクラスの小型乗用車を、1965年にフロンテ800として市販した。水冷2サイクルの785ccエンジンをフロントに収め前輪を駆動するFF方式を採用し、4速ミッションを介しての最高速は115km/h。スタイリングは当時の流行を先取りしたもので、高い評価を受けた。

情報所有館 : 国立科学博物館 


スズキ GT750(二輪車)

水冷・2サイクル・3気筒で、低速から高速まで幅広い加速が得られるエンジンである。車体構造やブレーキには、GPレースで得られた技術が投入され、また、見やすいメータなどの配慮もされている。

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