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こどり桶(③圧搾)

酒造りではこの桶を「きつね」という。糟場の補助者が醪大半切から作業者が持っている酢袋にもろみを入れる桶。先が細い。

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流し柄杓(③圧搾)

槽中の酢袋の表面がもろみなどで汚れたとき、分離した澄汁でその汚れた部分を掛け、洗い流す。柄の短い柄杓。(複製)

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酢袋(③圧搾)

多くは綿布に柿渋を塗って布目を細かくし保存を良くする。もろみから澄汁を分けるろ過袋で、酢袋にもろみを入れて槽の中に入れ圧力をかけ、もろみから澄汁を分離。

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槽(舩)ふね(③圧搾)

酢袋の中のもろみを澄汁と酢粕に分ける圧搾機。槽の中にもろみの入っている酢袋を入れ、自重から盤木・縣石で圧搾して澄汁を得る装置。

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締木(梁)(③圧搾)

(ヤナギ)槽の最終圧搾として石を吊るして圧搾する。そのとき石を吊るす棒。

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懸石 (③圧搾) 

槽の最終圧搾で締木にわら縄の両端に石を縛った縄を吊るす。その石を懸石といい、最大20~30㎏程の石を22個吊るす。

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大釜(④沸かし) 

澄汁を次工程の仕込温度を調整するため加温する釜。三・八尺桶より少な目と思われるが定かではない。

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桶札(⑤仕込)

冬季造り桶を菰で保温すると桶の番号が見えなくなる。そこで、蓋の上の菰の上にこの桶札を置き、番号を示した。

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造り桶用半切(⑤仕込)

引卸のとき槙呑から竹呑に切り替え、酢を箱桶にいれるとき、酢漏れの受け皿などとして使用する。

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アジロ取用垂能(⑤仕込)

発酵終了後、表面に張っている酢酸菌膜(アジロ)をすくいとる道具。垂能に入った酢酸菌膜は菌膜に含まれている酢を網で分け廃棄する。

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五段梯子(⑥貯蔵)

足場が五段付いている梯子で、アジロサバキのときオリ下げ桶に掛けて作業する。

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アジロサバキ棒(⑥貯蔵)

オリ下げ桶の酢の液表面に酢酸筋膜(アジロ)が生じないよう、その表面を毎日朝夕さばく。酢酸菌が繁殖すると酢を分解して、水と炭酸ガスにし、酢の品質を劣化させる。

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大半切桶と大半切用柄杓(⑥貯蔵)

おおきな半切でオリ下げ酢をいったん入れて精製場に運ぶときに使用。オリ下げ桶の上呑を槇呑から竹呑みに切替、この半切にオリ下げ酢を溜め、大半切用柄杓でにない桶に汲みいれる。

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樋の口桶と越し用竹樋(⑦ろ過、灰ごし)

灰ごし後の酢をためる桶。待桶と1回分の処理量を保管すると考える。400リットルの桶は直径100cm高さ50cm程。越し用竹樋は越した液を集め樋口へ送る竹樋。大きな竹を縦に半分に割り節を取ったものを使用。

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越し用箱樋と初越し桶(⑦ろ過 灰ごし)

越し用箱樋は、待ち桶から初越桶11本に均等に流し入れる樋。箱樋の左右に竹筒を付け、この竹筒から越し桶にオリ引き酢や初越酢を流しいれる。

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初越し待桶(⑦ろ過、灰ごし)

初めにろ過する酢の待桶で初越し桶四斗樽の半分は濾剤で満たされ、残り空間の7割ほどが濾液量とすると300リットルの待桶待濾液量。

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表層桶(⑧詰め口)

詰め口前の酢を入れた桶。4.5尺桶で作業名を名付ける。詰め口の待桶として使用。

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四斗樽と樽詰漏斗(⑧詰め口)

製品出荷用の樽(四斗樽)に、漏斗の竹先を樽の入り口に入れ樽を木槌でたたきながら酢を柄杓で入れ、仮栓した。出荷時に満量にした。

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木槌 ・木栓(⑧詰め口)

四斗樽の栓と木槌。樽に酢を詰めるとき木槌で樽の天面をたたき、樽の詰め口量を確認し、樽の酢入れ口に栓をした。

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縄かけ済みの四斗樽(⑨荷造り)

酢を入れて販売する容器。満量詰めする。72リットル入り。出口はなく使用者が開けて酢を取り出す。

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小詰漏斗(⑨荷造り)

出荷前に樽の中の減った酢を補充する道具。出荷の2~3日前に樽に満量に酢を詰め、その後、出荷時に漏れなどで減った酢を漏斗で補充する。

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かすり(⑩掃除道具)

ささらで集めた酢や洗浄後の水を入れて、ため桶に入れる道具。

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ささら(⑩掃除道具)

細長い竹棒を縄で重ね縛ったもので、縄の方を手で掴み、竹の先でゴミや水を集めたり、底板と側板、側板と側板の隙間をこすって洗浄する。ほとんどの桶の洗浄に使用。

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6尺桶用柄だわし(⑩掃除道具)

柄の先にわら製のたわしが取り付けてある洗浄用の道具。柄が長く六尺桶用で桶内の側板をこすって洗浄する。

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弁財船(時の蔵)

310石積の弁財船富士宮丸。文政・天保期(1818~1844)ごろを中心に中野又左衛門の酢を江戸へ運んだ船を実物大で復元しています。(複製)弁財船の特徴は、1枚の大きな帆に受ける風を唯一の動力とすることです。弁財船の中央には大きな帆柱が1本だけあり、これと帆桁を組み合わせて大きな1枚の帆をはります。帆はとくに丈夫に作られた木綿をつなぎ合わせて1枚にしたものです。この帆の向きと高さを調節しながら航海しました。もう一つの特徴は、船体が板を次ぎ合わせて造られていることです。底・側面すべての板は船体に合うように曲げて、船首に突き出した「水押」といわれる材に接合されています。

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人馬賃払帳(時の蔵)

初代又左衛門が分家した年に、江戸に行った帰路の道中の馬と人足代を記したもの。品川から川崎まで人足賃は2人で138文だった。

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初代又左衛門の言い置き(時の蔵)

文化13年(1816年)又左衛門は隠居を決意し、太蔵を正式に二代又左衛門としました。初代又左衛門の「言置」は大要次のようなことを二代目に求めていました。1、神仏を大切に信心し、先祖代々の年忌は怠りなく勤めよ。1,火の元はとくに気を付け、醸造倉の釜や工場は必ず見て回るようににせよ。など八か条。

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酢屋店卸帳(時の蔵)

「酢屋店卸帳」は、中野又左衛門が自らを「酢屋勘治郎」と名乗り作成した帳簿です。現在でいう損益計算書と貸借対照表の形式を持つ複式帳簿です。中野家の経営は酢方と酒方に分かれており、「酢屋店卸帳」は酢方の帳簿です。「酢屋店卸帳」最初の酢造りは、1810年(文化7年)の冬から翌秋にかけての270日間、2人の職人によるものでした。この年の総売上は約101両。純利益は約21両でした。翌年からは年間通して酢造りを行いました。その後、総売上は1833年(天保4年)には2000両を超えました。1837年(天保8年)の総売上は約3591両となり、順調に売上を伸ばしていく様子がこの帳簿から読み解くことができます。

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年内勘定帳(時の蔵)

醸造・土地経営などの事業全体の収支を決算するための帳簿です。1838年(天保9年)より1902年(明治35年)まで毎年作成されました。その間、決算帳簿としての体裁がしだいに整えられていきました。最初は個別の取引相手や金額を記載していました、後には個々の情報は、「大福帳」などの諸帳票に譲り、その収支のみが記載されるようになりました。江戸の森田半兵衛も最初のころは「森半」として記載されていましたが、帳簿の整備にともない、その記載もなくなりました。「年内勘定帳」では、酢の販売は江戸方面、尾張・三河・伊勢などの地元、廻船の三つに区分されました。

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すし屋与兵衛からの書状(時の蔵)

江戸両国のすし屋与兵衛から中野又左衛門らに宛てた手紙です。中野又左衛門と並んで記されている清八と重吉は、現在でいえば会社の重役にあたる支配人、為助は船頭です。すしや与兵衛は「早ずし」を始めたともいわれる人物です。この手紙が書かれたと思われる幕末期ごろでは、江戸でも最も有名なすし屋の1軒でした。与兵衛の他にも中野又左衛門は堺屋松五郎やけぬきずしなど有名なすし屋ともつながりがありました。この手紙は何か品物をもらったことに対する与兵衛からの礼状です。この時に与兵衛が中野又左衛門からもらった品はわかりませんが、中野又左衛門は与兵衛に毎年夏には瓜の粕漬、冬には海鼠腸を贈っていたようです。

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酒株請渡控(時の蔵)

1864年(元治元年)、酢造りと酒造りを兼営していた中野又左衛門は自らが持つ酒造株1514石と購入した651石を、約300石ずつ中野小吉などの一族や中野家関係の深い人々に譲渡しました。

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買帳(時の蔵)

「買帳」は支出を記録した帳簿です。酢の原料である酒粕、樽や桶、袋などの道具類、蔵で働く人々への給料など、中野又左衛門が支払った金額と費目・相手などが日を追って記されている。展示されている「買帳」は1845年(弘化2年)9月から約1年間の記録。(複製)

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商標登録願(時の蔵)

1884年(明治17年)商標条例が施行されると、商標の専有には登録が必要になり、登録者以外の使用が禁止されました。商標使用の権利は登録出願の先着者が優先されました。中野又左衛門は、それまで同じ丸環印を使ってきた他の酢屋に遅れを取り、新たな商標を考える必要に迫られました。そこで、中野家の家紋丸にさんぎをもとに、今のミツカンマークをデザインしました。ミツカンマークの商標は1887年(明治20年)5月に登録が認可されました。最初は「三ツ環」としましたがすぐに「ミツカン」と表記を改めました。

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商標披露会通券・弁当切符・寿し切符(時の蔵)

ミツカンマークの商標登録披露会を開催した際の資料。東京の新富座を借り切り、得意先など1,500人を招待し、ミツカンマーク入りの猪口などを配った。その費用1,300円は中埜又左衛門と東京の特約店の中井三郎で折半した。

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愛養舎のカップ&ソーサ―(時の蔵)

四代目又左衛門は1884年(明治17年)に現在のJR半田駅付近に畜舎や事務室などを建設して、「愛養舎」の名前で牛乳搾取・販売業をはじめました。愛養舎は1900年(明治33年)に「愛養舎牛乳之責任」と題するビラを発行しました。そこには、乳牛の飼育や牛乳の管理体制が万全であることなど責任を持って対処することが記されています。

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カブトビールの箱・ビール瓶、等(時の蔵)

中野又左衛門は、1887年(明治20年)、甥の盛田善平にビール製法の調査を行わせ、翌年200石の丸三ビールを売り出しました。その後、順調に売上を伸ばし、1898年(明治31年)には、レンガ造りの工場を新築し、本格的なドイツビールを目指しました。新銘柄のカブトビールは、エビスなどに次いで国内5番目のシェアを誇りました。その直後、大手ビール会社同士の熾烈な販売競争が始まり、ビール会社の経営権は東京の根津嘉一郎の手に渡りましたが、カフェ文化の隆盛とともに、カブトビールの名は全国に知れ渡りました。1943年に製造は中止しましたが、近年になり当時の味わいをもつカブトビールが復刻されました。

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第一期営業報告書(時の蔵)

株式会社中埜酢店としての第一期(1923年7月~1924年6月)営業報告書。9月1日、最大の市場である関東一円が関東大震災に見舞われ、12月27日には、最大の生産拠点であった半田第一工場にて大火災が発生したことが記載されている。株式会社としてのスタートはきびしいものでありました(複製)

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『美味しい酢のお料理』(時の蔵)

消費者に、お酢をもっと気軽に使ってもらうために、お酢を使ったおいしい料理の作り方をまとめた小冊子(昭和初期)

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歴代味ぽん(時の蔵)

昭和39年(1964年)「ぽん酢味付け」発売。1980年に「味ぽん」に商品名を変更。「味ぽん」発売初期の頃のラベルと壜。初期は丸い壜ではなく、三角壜でした。(複製)

情報所有館 : MIZKAN MUSEUM 


唐箕(とうみ)

【小麦をよりわける「唐箕」】唐箕は、いまでいう精選機のことです。むかし、農家では収穫されたお米や小麦などの穀物の粒をわけたり、ゴミを取り除くために使われていました。醤油づくりでも、良い小麦だけをよりわけるために使われていました。

情報所有館 : マルキン醤油記念館 


甑(こしき)

【大豆を蒸す釜「甑」】大豆を蒸すことを豆蒸しといいます。豆蒸しは、高さ1mもある甑に大豆を入れ、お湯の入った釜の上にのせます。甑は、釜の湯の蒸気が下の穴から入り、大豆を蒸しながら上ぶたのすきまからぬけるしくみになっています。

情報所有館 : マルキン醤油記念館 


焙烙(ほうろく)

【小麦を炒る大鍋「焙烙」】焙烙は、小麦を炒るための大きな鍋です。火をたく竈戸は土やレンガでつくられていました。鍋の部分は小麦を焦がさないようにかきまぜるため、ふちが浅くなっています。焙烙で炒った小麦は、石臼で割られます。

情報所有館 : マルキン醤油記念館 


麹室

【麹をつくる「麹室」】麹室は、大豆、小麦、種麹を混ぜ合わせたものを寝かせ、麹をつくるところです。室内は温度や湿度を自由に調整でき、麹菌が育ちやすいように工夫されています。麹は約3日間かかって出来上がります。

情報所有館 : マルキン醤油記念館 


大桶

【麹と食塩水を入れもろみをつくる「大桶」】麹室でできた麹と食塩水を大桶に仕込みます。もろみは倉人たちに育まれ、1年かかって熟成します。大桶の中のもろみを、まんべんなく熟成させるために櫂でかきまぜます。仕込み初めの頃は毎日行われます。

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火入れ釜

【醤油を整える「火入れ釜」】圧搾機でしぼられた生醤油は、火入れ釜で熱せられます。火入れは酵母や麹菌の働きをとめ、色、味、香りを整える大切な工程です。火入れ加減は最も難しい作業の一つで、おいしい醤油をつくる重要なポイントです。

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タヒチの儀礼用ダブルカヌー

ポリネシア タヒチ島のダブルカヌー。1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。この華やかに装飾されたダブルカヌーは、昔タヒチ島のさまざまな儀式に使われたカヌーを実物通りに復元したものです。復元はハワイのビショップ博物館の篠遠喜彦博士のご協力により、オセアニアの古代カヌーの専門家であり、優れた芸術家であるハーバート・カネ氏がデザインしました。これをタヒチ島の夕ウティラ村の人々の手で建造したものです。この儀礼用ダブルカヌーは、船首と船尾に装飾用の像がつけられ、デッキには小さな神殿が建てられていました。船首と船尾の像は、初期のヨーロッパ人来訪者のスケッチをもとに復元しました。

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バジャウの家船

1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。フィリピン南方スール一諸島を航海する、“レパ”と呼ばれる家船で、パジャウ人の住居であり、生業そのものの道具でもあります。夜は寝床、朝は食堂、昼は仕事場になります。船体はすっきりと突き出た船首と船べりを持ち、屋根はニッパヤシで作られています。アウトリガーも舷側もないので船が軽くなり、手漕ぎや帆走にすばらしい性能をも っています。収集当時はすでに船外機を取りつけたものが多くみられました。この“レパ”はフィリピン国立博物館の協力により、スール一諸島のシタンカイ島より贈られたもので、1975年の春まで漁師の一家が居住し、漁撈をいとなんでいました。

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バリ島のダブルアウトリガーカヌー

バリ島で漁労に使われるダブルアウトリガー式のカヌー漁船です。船首は動物が口を開けたように二股になり、船尾は尾を表すように反り返っています。腕木は結縛される船体から大きく上に湾曲し、それに下に湾曲する添え木が結合されて竹で造られた浮き木に結縛されています。浮き木は先端が尖らされており、船尾、左舷側に舵がつき、帆は船首に近いところの横梁の穴に挿入された短いマストに三角帆が上桁の紐でぶら下がる構造になっています。マストは固定式でカロリン型のマストのように可動しません。2002年に建造したものを2013年に修復、収集しました。

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ワトム島のシングルアウトリガーカヌー

パプアニューギニア・ビスマルク諸島のワトム島のシングルアウトリガーカヌーで、1975年沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。腕木は自然に二股に分かれた枝を使い、二股の部分を縦にして、浮き木からまっすぐ伸びた、スペード型の二枚の支柱(ペグ)で挟むようにして装着しています。船体は白く塗られ、反り返るような船首と船尾材が船体に結合されています。とくに独特の船首の形態はカブトムシの角を模したと言われています。

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サモアのシングルアウトリガーカヌー

サモア ウポル島の漁撈用のシングルアウトリガーカヌーで、1975年の沖縄国際海洋博覧会当時の資料です。西サモアの漁村で使用されていたパドリングカヌーです。1~2名乗りで島の沿岸やリーフ内で1つのパドルでこぎながら漁を行います。海のおだやかな日にはリーフの外に出て外海での漁にも使われました。船体は、船首が内側に反りながら鋭く尖り、船尾はなだらかなカーブを描き先端が切り落とされたような形をしています。船首と船尾の上にはしばしば鋸歯状の装飾つくのがサモアのカヌーの特徴の一つで、このカヌーには船首上に帯状の突起があります。このカヌーは1970年代にすべて手作業で作られました。

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