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埋木細工 鷹

土中にあって腐朽せず地熱によって炭化した樹木(埋木)を素材とする宮城県仙台市の特産品。江戸期に下級藩士の内職として始まり、明治期以降、亜炭採掘の副産物として産出されることから細工物の製作が盛んになった。エネルギー需要が石炭から石油・電気に切り替わる1960年代を境に衰退した。安斉埋木店 1957年収集 他に1958年収集(製造者不明)の端書入れを収蔵

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桐火鉢

蒔絵をあしらった火鉢は明治中期から昭和初期にかけて全国に向けて販売されたが、ガス・電気の普及によって需要を失い、その後は花器・菓子器など小物生産へ転換した。 桐漆工芸上坂(石川県金沢市) 1983年収集

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川連漆器 汁椀

増え続ける需要に応えるため、会津や山中などの主要産地では量産に適した合成漆器の製造が模索されたが、その普及が進む1960年代にかけては、まだまだ在来の手工芸製品も実用の普及品であった。品質を向上させつつ、家庭経済の上昇にともない少々の見栄えと贅沢を意識した高級品に昇華していった。川連漆器(秋田県湯沢市)特有の明るい朱塗の製品。1956年収集

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津軽塗 唐塗り菓子鉢

増え続ける需要に応えるため、会津や山中などの主要産地では量産に適した合成漆器の製造が模索されたが、その普及が進む1960年代にかけては、まだまだ在来の手工芸製品も実用の普及品であった。品質を向上させつつ、家庭経済の上昇にともない少々の見栄えと贅沢を意識した高級品に昇華していった。「唐塗り」は特殊なヘラを用いて複数の色漆を重ね塗りし、研ぎ出すと虫食い状にさまざまな色が散りばめられたような図柄となる技法。津軽塗の代表的なデザインである。1958年収集

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会津塗 陶胎漆器

固化に時間を要するという漆塗り製品の弱点を補うため、加熱によって固化を早めるため開発された。また、花瓶の器胎には一定の自重も必要なことから陶胎は恰好の素材となった。その後、合成漆器の品質向上と生産体制の整備、プラスチック器胎の普及などによって衰退したと考えられる。1959年収集

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香川漆器 象谷塗丸盆

日常に使用する汁椀には合成漆器の普及が著しかったが、品質を向上させつつ、家庭経済の上昇にともない少々の見栄えと贅沢を意識した高級品に昇華する商品も一方に存在した。そういう意味で、高度成長期は伝統的工芸品産業にとってネガティブな環境ではなかった。家庭における来客接遇機会の増加による需要の増加に対応した商品。香川漆器の中でも実用的な堅牢度の高い製品。1960年収集

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山中漆器 六寸菓子器製造工程見本

増え続ける需要に応えるため、会津や山中などの主要産地では量産に適した合成漆器の製造が模索された。本製品は木胎ながら、伝統的な本堅地下地ではなく、当時普及し始めていた合成下地を施したもので、上塗りもカシュー漆の可能性がある。1961年収集

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琉宮塗(宮崎漆器)・四尺丸盆

漆に色素を混ぜ粘土状に固化させた堆錦餅を貼り合わせて装飾している(堆錦技法)。糸尻内に「琉球塗」の銘があるが宮崎県産。鹿児島県と同様に第2次大戦中に疎開してきた沖縄出身者の内、残留した者に対する授産事業として琉球漆器の技術者が指導した。宮崎県(製造者不明)  1963年収集

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新潟漆器 竹塗文箱

増え続ける需要に応えるため、会津や山中などの主要産地では量産に適した合成漆器の製造が模索されたが、その普及が進む1960年代にかけては、まだまだ在来の手工芸製も実用の普及品であった。砥の粉と生漆を混合した塑型材である錆地を盛り上げて竹の節を表す表現技法。1964年収集

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龍紋塗 花器

水の上に流した漆をすくい取って器面に写す、「墨流し(マーブリング)」の技法を漆芸に応用している。第2次大戦後、宮城県の鳴子(現大崎市)出身の漆芸研究家沢口悟一が1950年代前半に考案した。経済産業大臣指定伝統的工芸品鳴子漆器の特徴的なデザインとしてよく知られるようになった。沢口漆器店1988年収集 他1961年から1988年の間に収集した4点計5点を収蔵

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木ノ下駒

八幡馬(青森県)、三春駒(福島県)とともに日本三駒に数えられる郷土玩具。一人製作を継承していた菅野実が1998年に逝去したことにより一旦途絶えたようだが、現在は社会福祉法人希望の杜福祉会「工房けやき」が製造を継承している。菅野実(宮城県仙台市) 1997年収集 

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琉球塗(鹿児島琉球漆器) 斜切盆

孟宗竹に朱漆をほどこしている。宮崎漆器と同様に第2次大戦中に疎開してきた沖縄出身者が製作に従事した。三越本店で購入したのは鹿児島県物産展の折と推測される。鹿児島県(製造者不明)  1958年収集 

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藺草製ハンドバッグ

畳表の生産縮小にともない花筵生産へ転換がなされた時期の収集。物産カタログでは室内装飾品や身辺雑貨がアピールされているが、岡山県の藺草作付は1960年代後半から減少の一途をたどる。編目の美しさと藺草の素材感による造形は再評価がなされてしかるべきだろう。岡山県東京物産協会から購入。 岡山県(製造者不明) 1958年収集

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藺草製うちわ

畳表の生産縮小にともない花筵生産へ転換がなされた時期の収集。物産カタログでは室内装飾品や身辺雑貨がアピールされているが、岡山県の藺草作付は1960年代後半から減少の一途をたどる。編目の美しさと藺草の素材感による造形は再評価がなされてしかるべきだろう。岡田新太郎本店(岡山県岡山市) 1960年収集

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藺草製マンボ型手提げバッグ 

畳表の生産縮小にともない花筵生産へ転換がなされた時期の収集。物産カタログでは室内装飾品や身辺雑貨がアピールされているが、岡山県の藺草作付は1960年代後半から減少の一途をたどる。編目の美しさと藺草の素材感による造形は再評価がなされてしかるべきだろう。岡田新太郎本店(岡山県岡山市) 1960年収集

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藺草製丸型手提バッグ

畳表の生産縮小にともない花筵生産へ転換がなされた時期の収集。物産カタログでは室内装飾品や身辺雑貨がアピールされているが、岡山県の藺草作付は1960年代後半から減少の一途をたどる。編目の美しさと藺草の素材感による造形は再評価がなされてしかるべきだろう。倉敷市(製造者不明) 1960年収集

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七島藺製手提かご

畳表の生産縮小にともない花筵生産へ転換がなされた時期の収集。物産カタログでは室内装飾品や身辺雑貨がアピールされているが、岡山県の藺草作付は1960年代後半から減少の一途をたどる。編目の美しさと藺草の素材感による造形は再評価がなされてしかるべきだろう。建部商店(岡山県倉敷市) 1960年収集

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藺草製テーブルセンター

合成樹脂で藺草の編組をはさんで成形している。地元の物産をアピールする商品だが、輸出品の流入や作付する耕地の減少から、すでに岡山県の藺業は衰退の見通しだった。友末化学(岡山県津山市) 1960年収集

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陶製湯呑茶碗

愛知県陶磁器試験場(愛知県常滑市)による陶器の試作品。陶器は磁器と比較して硬度や耐水性に難があったが、品質改良により今日では実用素材として充分な水準に達している。本製品は伝統技法に基くものとしても、復興品ではなく、戦後における改良・開発による商品という位置付けができる。1952~1954年頃の収集。

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陶製水盤

愛知県陶磁器試験場(愛知県常滑市)による陶器の試作品。陶器は磁器と比較すると硬度や耐水性に難があったが、品質改良により今日では実用素材として充分な水準に達している。本製品は伝統技法に基く商品としても、復興品としてではなく、戦後における改良・開発による新素材という位置付けができる。1952~1954年頃の収集。

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陶製水出し「ふくろう」

愛知県陶磁器試験場(愛知県常滑市)による陶器の試作品。陶器は磁器と比較すると硬度や耐水性に難があったが、品質改良により今日では実用素材として充分な水準に達している。本製品は伝統技法に基く商品としても、復興品としてではなく、戦後における改良・開発による新素材という位置付けができる。1952~1954年頃の収集。

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美術有田焼 染錦花瓶

深川製磁株式会社は、明治27年(1894)、香蘭社初代社長八代深川栄左衛門の次男深川忠治が美術陶器製造の会社として設立。当初から高級貿易陶磁を志向し、深川忠治自身がデザイナーとして意匠を考案した。日本的な様式美とヨーロッパに流行したアールヌーボー、アールデコ様式を融合させ独特のスタイルを確立した。明治33年(1900)にパリ万博で一等金牌を受賞するなどの評価を得、宮内省・海軍省の御用達としてブランド・イメージを確立した。深川製磁株式会社 1952~1954年頃の収集。

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美術有田焼 フタ付飯茶碗

深川製磁株式会社は、明治27年(1894)、香蘭社初代社長八代深川栄左衛門の次男深川忠治が美術陶器製造の会社として設立。当初から高級貿易陶磁を志向し、深川忠治自身がデザイナーとして意匠を考案した。日本的な様式美とヨーロッパに流行したアールヌーボー、アールデコ様式を融合させ独特のスタイルを確立した。明治33年(1900)にパリ万博で一等金牌を受賞するなどの評価を得、宮内省・海軍省の御用達としてブランド・イメージを確立した。深川製磁株式会社 1952~1954年頃の収集。

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布志名焼 黄鉛釉八寸鉢

明治維新期以来、ヨーロッパから近代工法が導入され、量産体制が整備される一方で、家族経営による家内制工業という経営形態も多く残存し、陶器の産地においては在来の手工芸品も作り続けられていた。そうした中、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らが起こした民芸運動は地方の手仕事による陶業の積極的な再評価をおこなった。その影響を受け山陰地方では各地に個性的な手工芸の窯元がいくつも生産を継続している。1959年収集

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楽山焼 花瓶

旧松山藩御用窯の系譜を引く窯元で、玉井楽山が継いで三代(1990年逝去)までつづいたが後継は途絶えている。地元では 「天神蟹」と呼ばれるアカテガニの浮彫の柄で知られる、三代藩主松平定長の「あな寒し かくれ家いそげ 霜の蟹」の句に因むとされる。1963年収集 他に盃様の汲出を4点収蔵

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四日市万古焼 飾り皿「太金」

江戸中期には淡黄色の素地に色絵という京焼風のものが焼かれ、明治中期からは赤土の胎土による紫泥の煎茶器のイメージが強くなるが、大正期に水谷寅次郎が半磁式硬質陶器を始め、大正焼と呼ばれた。 各治商店(現株式会社各治/三重県四日市市) 1979年収集 他1点計2点を収蔵

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有田焼 柿文汲み出し(湯呑)

同社は大正8年(1919)、実業家小畑秀吉が出資し第12代酒井田柿右衛門と共同で設立された。やがて、美術品製造を志向する柿右衛門は昭和3年(1928)に経営から離脱。しかし、角福銘の商標権は同社に残った。そのため、柿右衛門の去った後も、「柿右衛門焼」の名と角福の銘は使用期限が満50年で切れるまで使用された。契約解消を機に仁和窯と名を改め、いわゆる柿右衛門様式の製品を製造したが。本資料は有田ではポピュラーな図柄となったサンゴ色の柿文を用いたもの。柿右衛門焼合資会社 1969年以前の製造。

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尾張七宝 彩釉立葵文硯箱

愛知県七宝町及び名古屋市の伝統的工芸品。銅胎に色ガラスを被せて装飾している。文様の区切りに植線を施すのが製法の秘密。この硯箱は国賓向けの特注仕様だが、菊の代わりに尾張徳川家にちなんだ葵の文様を施している。株式会社安藤七宝店 1976年収集

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因州山根純楮手漉障子紙

1950年代に入ると和紙生産は急成長する洋紙に圧迫されるようになってきた。そのため、因州和紙の産地では長期低金利で融資を受けられる協業組合の結成が進んだ。山根因州紙振興会は鳥取市青谷町の山根地区で結成された協業組合。1950年代後半には抄紙機械が導入され、手漉きの障子紙はそろそろ見切りを付ける製品だった。山根因州紙振興会 1965年収集

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紙布 羽織

仙台藩家老片倉家旧臣の子孫の家に伝来したもの。紙布生産は仙台藩片倉家(白石)が奨励した。細く裂いた紙片を撚った糸で織り上げている。防暑性に優れ、細く撚った糸で織ったものは高級品として扱われた。毛羽立ちがなく染色性がよい。耐酸・耐アルカリ性に優れている。19世紀

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甲州印伝 札入れ/蝦蟇口

皮革自体を染め分け、細かい斑状の漆をほどこしている。現在、株式会社印伝屋上原勇七製品をはじめ、よく知られている染皮に型紙を使って色漆で小紋柄を表現した印伝細工よりは前の世代のデザイン。柔らかい鹿皮の補強材として漆をほどこした古式の様式。1961年収集

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串木野手織縞 着尺地

鹿児島県串木野市(現いちき串木野市)で生産されていた木綿織物。鹿児島市で藍染を習得した福元金之介が大正期に移住して始めた。後継者がなく1968年(昭和43)に途絶えた。純綿の正藍染。杉並区の民芸品店、いづみ工芸店で購入。福元染織工場 1960年収集

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出西織 テーブルセンター

20世紀の初頭、動力織機や化学染料を導入した有力産地の安価な製品に押され、江戸時代以来各地に伝えられた手機織りの生産は止まっていった。1955年、民藝運動の同人外村吉之介の指導によって手織りの木綿織物が出雲の地に復興された。出西手織会(井上佐登子・多々納桂子) 1965年収集 他に藍染の製品1点を収蔵

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倉敷緞通 テーブルセンター

昭和初期、花ゴザの粗製乱造による輸出不調を契機とし、外国人の嗜好に合わせた敷物として開発された。和紙を巻いた藺草と木綿糸で編組。民藝の染色家芹沢銈介がストライプ模様をデザインした。岡山貿易協会から購入。日本筵業株式会社 1960年収集 ※他1点計2点を収蔵

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出雲鍛造工芸品 燭台

島根県出雲地方の山間部ではたたら製鉄が盛んだった。かつては暮らしの道具として各地で生産された農工具や刃物類が、出雲の地には根付いており民藝運動の同人が着目するところとなった。東京都杉並区のいづみ工芸店での購入を考えると金田勝造の工房で製作された可能性が高い。 島根県安来市(生産者不明) 1960年収集

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砥部焼 角花瓶

原料の陶石の違いによる、北部九州のものに較べて厚手のつくりが特徴。染付(白地にコバルトの青い柄)による日用の碗・皿類を生産していたが、1950年代に民藝運動の指導者が相次いで訪れ、デザインに影響を与えた。本品は人間国宝富本憲吉の作品を意識したデザイン。1964年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


因州封筒・因州箋

鳥取市出身の民藝運動同人吉田璋也のデザイン。民藝の指導者柳宗悦は第2次大戦後間もなく、妙好人(浄土真宗の教えを体現した生活をする人)因幡の源左を取材するため因州和紙の産地鳥取県気高郡青谷町山根地区の願正寺に滞在していた。製紙業にたずさわる塩 義郎は、柳から吉田を紹介され、以後、民藝運動に深く関わった。大因州製紙有限会社(現大因州製紙協業組合) 1965年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


さつま人形

「さつま人形」という呼称の定義は曖昧で、鹿児島県下の人形という意味で木目込み人形のおはら人形や土人形の帖佐人形などもそう呼ばれることがある。本品は郷土の英雄西郷隆盛がモチーフとなった木製の置物。観光土産として生産され、三越本店での購入は物産展の折と推測される。「西郷さん」の名称でも紹介されている。鹿児島県(製造者不明)1958年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


スキーハウス

1950年代の末から1966年にかけて地場産業研究の一環として地方物産品の収集がおこなわれた。その際、各地で土産物として売られていた置物類も収集されている。これらは、いわゆる伝統製法・素材による郷土玩具ともジャンルを異にするもので、地方の風物や習俗をモチーフとした商品群である。経済成長下において人々の余暇が増加し、観光旅行が活発化する過程でこうした商品が世に出回るようになったようだが、1970年代の旅行ブームが一息つくころには衰退した。1959年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


平名物じゃんがら人形

地元の名産や芸能をモチーフとする置物類が土産物として人気があった時代の製品。福島県いわき市の「じゃんがら(念仏踊り)」(1992年市無形文化財指定)をモチーフとした木製の置物。福島県(製造者不明) 1962年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


石炭こけし

地元の名産や芸能をモチーフとする置物類が土産物として人気があった時代の製品。炭鉱業は福島県いわき市における基幹産業であったが、本品の収集時にはすでに斜陽産業化の傾向にあった。福島県いわき市(製造者不明) 1962年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


マリア人形

長崎県は歴史的にもキリスト教の受容が盛んな地域で、大浦天主堂など観光名所としてキリスト教の遺産が知られる。地元の風物をモチーフとする観光土産として売られたもの。長崎県(製造者不明) 1962年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


まゆ人形 だるま

高崎駅の構内売店で購入。地元の名産や芸能をモチーフとする置物類が土産物として人気があった。群馬県の養蚕農家戸数は1958年に第2次大戦後最多となるが、以後は生糸輸入自由化により減少の一途をたどる。本品はまだ養蚕業が一定の規模を保持していた時代のもの。群馬県(製造者不明) 1963年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


因幡の傘踊り

地元の名産や芸能をモチーフとする置物類が土産物として人気があった時代の製品。現在も鳥取県の神社境内等で踊られる江戸期の雨乞祈願・豊穣祈願を原形とする傘踊りをモチーフとした観光土産。因幡の傘踊りは1974年に県の無形民俗文化財に指定。鳥取県(製造者不明) 1965年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


地唄三味線(中棹)

「地唄三味線」の最大の特徴は、津軽三味線同様のハイポジションが弾ける棹の付け根です。津軽三味線の様に即興演奏の盛り上がりで次第に広域に上り詰める為ではなく、合奏音楽の為、オクターブ上下に目まぐるしく担当旋律が飛ぶ為といわれます。バチは各種三味線中、最も重く、幅の広い形で、地唄独特の「練りバチ」と言う粘りとタメのある奏法に適しています。駒は義太夫式の鉛入りの水牛駒です。

情報所有館 : 津軽三味線会館 


常盤津三味線(中棹)

楽器的にも音楽的にも非常に専門的なジャンルで、歌舞伎や日舞にも起用され、鳴り物も伴う場合もあるので、長唄にも似て聞こえます。しかし、地唄の練りバチにも似たタメのあるバチさばきを、地唄より軽い駒で演奏する為、地唄より軽快で、長唄よりしっとりとした独特の個性を持っています。豊後系の先輩の「一中節」や後輩の「新内節」「清元節」とも関連があり、江戸~明治の豊かな音楽文化隆盛期の「粋」を今日に伝えてくれます。今日の「常盤津三味線」は明治時代に考案された「アヅマサワリ」を取り付けています。象牙や骨製の駒は長唄より高く、地唄より軽いものです。バチは民謡・端唄大で、先が薄くデリケートです。

情報所有館 : 津軽三味線会館 


小唄三味線(細棹)

「小唄三味線」は、細棹の中でもやや太めでした。「小唄三味線」はお座敷で発達したため、バチを用いないで爪弾きします。厳密には爪も短く切り指先で弾きます。その為糸と糸の間隔がある程度ないと演奏出来ないので、棹は太めになるためです。小唄の駒は、爪弾きの為に高い駒を用います。柔らかな音色を求めて木製が好まれます。

情報所有館 : 津軽三味線会館 


長唄三味線(細棹)

本来細棹の代表格でしたが、時代と共に太くなり、今日では中棹の地唄三味線と同じ位太くなっています。しかし棹の厚み「重ね」は低いので握りは細みに感じます。棹が太くなっても胴は同じ大きさで、対角線で地唄の胴より1.5~2分程小さいものです。バチは細く軽いもので、近年では派手な奏法の為に次第に糸に対して直角に近く当てるようになり、地唄の練りバチと正反対の個性を持っています。

情報所有館 : 津軽三味線会館 


義太夫三味線(太棹)

「義太夫三味線」の特徴は、その棹の太さですが、正面から見た太さ「幅」にも増して、棹の厚み「重ね」が重厚である事が「太棹」の由来です。棹の太さにふさわしく糸も極めて太くたくましく、それに見合って皮は厚い犬皮を張ります。ついで「義太夫三味線」の特徴に挙げられるものは、その独特な竹製の「上駒」です。アジアのルーツ楽器を思わせます。「義太夫三味線」の「胴掛け」には更に厚い滑り止めが付けられ、バチにも和紙が巻かれます。何れも楽器から奏者の体まで揺れるほどに力一杯弾かれる為の独特な装備です。

情報所有館 : 津軽三味線会館 


津軽三味線(太棹)

楽器の最大の特徴は、義太夫三味線に通じる太棹でありながら、一番太い「一の糸」は義太夫並の太さながら「二の糸」や一番細い「三の糸」は長唄に近い程細い点です。バチも根本は義太夫並みに太いのが、先は長唄程幅の補足薄い独特な形状です。即ち義太夫の重低音と長唄の高音の技巧的な特徴を合わせ持っているのです。さらに大きな特徴は棹の胴との付け根が地唄並に長い点です。即興の盛り上がりでは高い音のハイポジションを盛んに弾く為の構造です。「サワリ」は今日調節可能な「アヅマサワリ」に成っています。駒は、長唄風の小さい駒で、甲高くバチが皮を同時に細かく打たれるのにふさわしくなっています。

情報所有館 : 津軽三味線会館 


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