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サイン・ワイン

20世紀 ミャンマー。調律された複数の太鼓を環状に配置しメロディを演奏する楽器パッ・ワイン(サイン・ワインともいう)を中心にした打楽器群の総称。サインは吊るす、結ぶ、ワインは環状の意味。パ・ワインのほかに、同じく調律され環状に配置されたこぶ付ゴングのチー・ワイン、オーボエ系管楽器のフネー、太鼓チャウ・ロン・パツなどから構成される宮廷楽器である。ゴングや太鼓を配置する台座やフレームは金色で小さな鏡をたくさんはめ込んであり、豪華で美しい。大きな太鼓を吊るしているフレームの動物は、ピンサッ・ユーパである。

情報所有館 : 浜松市楽器博物館 


セタール

1995年頃 イラン。イラン伝統のはじく弦楽器。古典音楽で使用する。ペルシア語でセは3、タールは弦の意味。従って「三弦」という楽器である。その名の通り元来は3弦であったが、19世紀に一本追加されたため、現在は4弦。ただし付加された4本目の弦はドローン(メロディではなく持続して鳴り響く低音)担当のため、演奏機能としては3弦のままと言ってよい。胴は胡桃または桑材。弦は金属。ネックに付いているフレットはガット(羊腸弦)を巻いているだけなので移動可能であり、ペルシア音楽の特徴である細かな微分音が出せる。

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タール

1995年頃 イラン。アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニア、イランなどに見られる弦楽器。タールはペルシア語で弦の意味。古典音楽や民族音楽で使用される。イランでは、このタールは花形の弦楽器と言える。ピックではじいて演奏する。特徴は見ての通りの8の字型の胴体で、桑の木を掘って作る。弦は金属で復弦3コース。ネックにあるフレットはガット(羊腸弦)を巻いただけのもので位置を移動できるため、微分音が出せる。

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サントゥール

1995年頃 イラン。台形の箱に金属弦を張り、両手に持ったバチで打奏する。サントゥールは100の弦という意味だが、実際はもう少し少ない。本楽器は18コース54弦。10世紀以前には存在していたとされる。弦を打ち鳴らすということからピアノの祖先ではあると言われることもあるが、この楽器がピアノへと変化していったわけではない。ヨーロッパのダルシマーやハンガリーのツィンバロム、中国のヤンチンはこの仲間。インドにも伝わり同名で呼ばれる。

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トンバク

1955年頃 イラン。ペルシア古典音楽に欠かせない太鼓。ザルブとも言う。鼓面の中央を叩いて出る低音がトン、鼓面の縁を叩いて出る高温がバク。奏者は椅子に座り、トンバクを横にして窪みの部分をj片方の膝にのせて、両手の10本の指や手のひらを使い分けて叩く。低音から高音までを駆使し、トレモロ奏法も加わって生み出される多彩な音色は、目を閉じて聴くと1つの楽器とは思えないほどである。本楽器は象嵌が施された一級の美術工芸品でもある。

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地無し尺八(じなししゃくはち)

明治時代 三代俣野真龍(またのしんりょう・1886-1936)作 京都。 銘「露堂々」(ろどうどう)。地(砥の粉、石膏、漆、水を調合した塗料)を管内に塗り凸凹を無くしたものを地塗り尺八と呼ぶ。地無し尺八は、管内に地を塗らず自然のままの凸凹を残している尺八で、江戸時代より虚無僧が使用した独奏用の尺八である。吹奏は非常に難しい。俣野真龍は代々京都に住み明暗流の地無し尺八を製作。「露堂々」は、明暗37世・谷北無竹の依頼で製作された名器である。一般的な尺八に比べてかなり太く、外観、管内の形状共に個性が強いので、その吹奏には長期の修練が求められる。

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ジラフ・ピアノ

19世紀、ニューヨーク製。作者不明。外観がキリン(英語でジラフ)に似ていることからこの名がある。ピアノの種類としてはアップライト・ピアノである。アップライト・ピアノは、グランド・ピアノをそのまま立てた姿が起源。ジラフ・ピアノはそのような初期のアップライト・ピアノから、ケースを取り除いて弦を張っている部分が直接見えるようにしたものである。このピアノは特に豪華な仕様で、大邸宅のリビングルームで演奏を楽しむ人々の姿が目に浮かぶようだ。

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アップライト・ピアノ

1880年頃、エラール社(パリ)作。1870~80年代のフランス美術界は、ルノアールら印象派の最盛期であった。彼の名画「ピアノに寄る娘たち」には、アップライト・ピアノを弾き、楽譜を見る二人の少女が、息を飲むほどに美しく流麗なタッチで描かれている。このピアノもまさにその時代のピアノで、外側は丁寧な寄木細工による花々や楽器、幾何学文様で覆われ、いかにも両家の子女が好みそうな、優雅な雰囲気を醸し出している。

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クラヴィコード

1788年 P.リンドホルム作 ストックホルム。クラヴィコードはマイナスドライバーの先端のような形状の金属片「タンジェント」で下方から弦を突き上げて鳴らす鍵盤楽器。タンジェントは弦を支える駒の役目もするので、鍵を押してタンジェントが弦に接している時だけ音が持続する。音量は大変小さく、ダイナミクスレンジも狭いが、タッチにより多彩な音色が出る。16~19世紀にスペイン、ドイツなどで流行。特にオルガン奏者が自宅での練習に使用した。C.P.E.バッハはクラヴィコードを愛奏し音楽作品も残している。本楽器は大型のもので、名工リンドホルムによる名器である。

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リードオルガン(足踏み式)

明治~大正時代 日本楽器製造株式会社 浜松。モデル名「大和オルガン」。下部を布で囲った和風のリードオルガン。黒漆塗に金泥の模様が美しい。スカート状の布は、着物を着ている人が演奏する時に、裾がはだけて素足が見えるのを隠すためと言われるが、野外で演奏する時に足を保温する役割を果たしていたのかもしれない。このようなデザインのオルガンは当然ながら欧米には見当たらず、日本独自のもの。西洋文化と日本文化が融合した、美しい調度品的オルガンと言えよう。

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一絃琴(いちげんきん)

昭和時代 作者不明 日本。一絃琴には複数の流派があるが、本楽器は須磨(兵庫県)の須磨寺に伝承されるタイプ。須磨琴(すまごと)とも言う。「琴」の字は正式には「きん」と読み、琴柱(ことじ)が無い楽器を指す。七絃琴が代表例である。いわゆる13弦の琴(こと)は正式には箏(そう)と呼び琴柱がある。一絃琴は、右手の人差し指に義甲、左手の中指に芦管(ろかん)をはめ、芦管で弦をおさえて音高を決め義甲ではじき鳴らす。平安初期に須磨に流された在原行平が考案したという伝説が残る。実際には江戸中期以降に誕生し、自己修養のために高僧、武士、貴族、良家の子女が嗜んだ。明治以降次第に廃れたが、戦後に各地で復興した。

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東流二絃琴(あずまりゅうんげんきん)

昭和時代 作者不明 日本。二絃琴(にげんきん)の八雲琴(やくもごと)を祖として考案された楽器。八雲琴を嗜んでいた歌舞伎囃子方の初代藤舎蘆船(とうしゃろせん)が、歌舞伎の黒御簾音楽や長唄、清元、常磐津康太などの俗曲の伴奏に適するように八雲琴を改造して、明治初期に生まれた。八雲琴は西日本で生まれたが、この楽器は東日本の東京浅草で誕生したので、東流と冠する。明治中期までは東京を中心に良家の婦人の洒落た遊芸として大いに流行した。夏目漱石の小説「吾輩は猫である」で雌猫三毛子の飼い主が奏でるのは、この楽器である。

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クリストフォリのピアノ(復元品)

1995年 河合楽器製作所 浜松。現存する最古のピアノである1720年製クリストフォリ・ピアノの復元品。オリジナルはミューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵。ピアノは1700年頃、イタリア、ヴェネツィアのメディチ家の楽器コレクション管理担当兼鍵盤楽器製作者であったバルトロメオ・クリストフォリが、チェンバロのアクション機構を打弦式に改良して考案したとされる。現存する彼のピアノはニューヨーク(1720年製)、ローマ楽器博物館(1722年製)、ライプツィヒ楽器博物館(1726年製)の3台。復元品は日本を含め世界に数台存在する。

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イリンバ(親指ピアノ)

200年頃 フクエ・ザウォセ作 タンザニア。細長い板状の金属片を木の板や箱に取り付け、親指で弾いて鳴らす楽器はアフリカ各地に分布する。それぞれ形や名前が異なるので、総称してヨーロッパの研究者が付けた名前が「親指ピアノ」。しかし、ピアノとは一切関係はない。写真の楽器はタンザニアのゴゴ族が使用するもので、製作者のザウォセはタンザニアで最高の奏者であった。リンバは金属または木製の板、イは大きいという意味。白く見える部分は、蜘蛛の卵嚢を胴の孔に張りつけたもので、共鳴してビリビリと鳴る。

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米穀標本

戦時経済下、食糧管理法により統制物資となっていた米は、終戦後も引き続き統制の対象であり続けた。食管法自体はその後も長らく存続するが、1955年の豊作によって米不足が解消し、実質的な統制解消となったと言われる。その前後の時期に、国内各地のものをはじめ、貿易商品研究の一環として収集されたようで、タイ、ベトナム、トルコ、ギリシャ、イタリア、アルゼンチンといった外国産の米が含まれる。1952~1962年頃の収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


茶葉標本

日本茶以外に、中国茶、紅茶が貿易商品研究の一環として収集されている。瓶詰標本の体裁をとる。1952~1954年頃の収集

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コーヒー豆標本

貿易商品研究の一環として収集され、ジャマイカ、メキシコ、ブラジル、インドネシア、米国、ドミニカ、グアテマラなどで産出されたものが集められている。麻袋に詰められて税関を通る性格のものなので瓶詰標本の体裁をとる。1952~1954年頃の収集

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ビニロン 綿/撚糸

ビニロンは1939年(昭和14)に日本で開発された化学繊維。第2次大戦後、本格的に生産を開始した。館蔵の多様なコレクションからは、注目の新素材として多方面での活用が期待されていたことがわかる。綿:倉敷レイヨン株式会社(現クラレ) 撚糸:平田紡績株式会社 1952~54年頃の収集 

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ビニロン 毛混紡毛糸

ビニロンは1939年(昭和14)に日本で開発された化学繊維。第2次大戦後、本格的に生産を開始した。館蔵の多様なコレクションからは、注目の新素材として多方面での活用が期待されていたことがわかる。倉敷レイヨン株式会社(現クラレ) 1952~54年頃の収集 

情報所有館 : 明治大学博物館 


ビニロン 全巾

洋服用の広幅生地。ビニロンは1939年(昭和14)に日本で開発された化学繊維。第2次大戦後、本格的に生産を開始した。木綿に似た風合いの繊維ができたが、染色性が悪く柔軟性に欠けるため、衣料生地としてはナイロン、ポリエステル程には普及しなかった。 倉敷レイヨン株式会社(現クラレ) 1952~54年頃の収集

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ビニロン硫化紺染事務服

ビニロンの木地を化学染料で染めている。ビニロンは1939年(昭和14)に日本で開発された合成繊維。第2次大戦後、本格的に生産開始した。木綿に似た風合いの繊維ができたが、染色性が悪く柔軟性に欠けるため衣料生地としては普及しなかった。倉敷レイヨン株式会社(現クラレ) 1952~1954年頃の収集。

情報所有館 : 明治大学博物館 


ビニロン綾織福助型ジャンパー

ビニロンは1939年に日本で開発された合成繊維。第2次大戦後、本格的に生産開始した。木綿に似た風合いの繊維ができたが、染色性が悪く柔軟性に欠けるため、衣料生地としてはナイロン、ポリエステル程には普及しなかった。 倉敷レイヨン株式会社(現クラレ)/福助足袋株式会社(現福助株式会社) 1952~54年頃の収集

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ビニロンかのこ織ポロシャツ

ビニロンと木綿の混紡製品。Clipperのブランドネームを冠する。ビニロンは1939年(昭和14)に日本で開発された化学繊維。第2次大戦後、本格的に生産を開始した。館蔵の多様なコレクションからは、注目の新素材として多方面での活用が期待されていたことがわかる。倉敷レイヨン株式会社(現クラレ)/横須賀メリヤス工業  1952~54年頃の収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


ビニロン紺サージ先染学童服

サージ生地は毛羽立ちを抑えた布地で、学生服生地としてポピュラーな存在。ビニロンは1939年(昭和14)に日本で開発された化学繊維。第2次大戦後、本格的に生産を開始した。館蔵の多様なコレクションからは、注目の新素材として多方面での活用が期待されていたことがわかる。 倉敷レイヨン株式会社(現クラレ) 1952~54年頃の収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


ナイロン靴下・ソックス

ナイロンは1936年に発明された化学繊維で、1939年に米デュポン社が工業生産を開始している。日本では1951年(昭和26)に東洋レーヨンが生産を開始した。郡是製絲株式会社 1957年収集

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テトロン糸

ポリエステルは英キャリコプリンターズアソシエーションが1942年に特許を取得した化学繊維。工業生産は米デュポン社が1953年に開始。日本には英ICI社から1958年(昭和33)に帝人と東洋レーヨンが英国から技術導入して生産開始。両社の頭文字を取ってテトロンの名称とした。帝人/東洋レーヨン 1961年収集

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サラン製ボストンバッグ

明治大学商品陳列館創設当初における新素材収集の一環として収集。サランは1933年にアメリカのダウ・ケミカル社が開発した合成樹脂。適度な弾性があり耐水性に優れ繊維やフィルムに加工された。食品梱包用のサランラップが知られる。旭ダウ・ケミカル社 1952~1954年頃の収集。

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サラン製 書類入

サランは1933年にアメリカのダウ・ケミカル社が開発した合成樹脂。適度な弾性があり耐水性に優れ繊維やフィルムに加工された。食品梱包用のサランラップが知られる。旭ダウ.ケミカル株式会社 販売元は株式会社睦屋商店(現株式会社睦屋) 1952~1954年頃の収集。

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フェノール樹脂製汁椀

明治大学商品陳列館創設当初における新素材収集の一環として収集。1960年代、カシューナッツの油を用いた代用漆による合成漆器が普及しはじめた頃の製品。フェノール樹脂は歴史上最初のプラスチックで、社名に由来する商標である「ベークライト」の名で知られる。日本ベークライト株式会社(現住友ベークライト) 1957年収集

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ユリア樹脂製汁椀

1950年代に普及し始めた当初にポピュラーであったブラスチック素材。館蔵のものは代用漆器以外に、特に合成漆などでコーティングを施していない製品もいくつか収蔵されている。その後、生産性の高い素材が開発されたため現在の使用量は少ない。理研合成株式会社 1957年収集

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ユリア樹脂製四寸丸三段重箱

プラスチック製食器のカラフルな色合いは、従来の食器素材にはなかったもので、当時の人々には新鮮な驚きを持って迎えられたものと推察される。製造者不明 1957年収集

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ポリエチレン樹脂製品

明治大学商品陳列館創設当初における新素材収集の一環として収集。化繊の見本類がその中心であるが、ビニール、プラスチック、合成ゴムなども含まれ、食卓用品や玩具などへの広範な使用・普及が図られていたことがわかる。これらのジャンルの商品は、今日ではむしろガラス・金属製品が主流になっている。製造者不明 1957年収集

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プラスチック製氷削り

蓋はスチロール樹脂、本体はユリア樹脂製。1950年代に普及し始めた当初にポピュラーであった2種のブラスチック素材を組み合わせている。 製造者不明( 「I.KK」のマーク入り)1957年収集 

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プラスチック製ペリカン・ジャー

ガラスの代替品として透明な素材を実現している。蓋:ユリア樹脂 本体:スチロール樹脂 積水化学株式会社 1957年収集

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スチロール樹脂製容器

パールエッセンス入りの樹脂。プラスチックならではのデザイン。 製造者不明 1957年収集

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メラミン樹脂製人形食器

メラミンは広く食器生産に用いられるようになる。この頃は質感として他のプラスチックとの区別はつきにくい。理研合成樹脂株式会社 1957年収集

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塩化ビニール樹脂製給食袋

合成樹脂の中では柔軟性・伸縮性があり布地の代用として使用された事例。製造者不明 1957年収集 

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硬質漆器 菓子器

硬質漆器は大正15年(1926)に名古屋市中区の黒田忠譲店によって開発された。パルプを原料とする器胎を用いる。木胎のように歪みが出ないため輸出用に注目された。高度経済成長期まで名古屋は有数の輸出漆器の産地であった。1961年収集

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硬質漆器 盆

硬質漆器は大正15年(1926)に名古屋市中区の黒田忠譲店によって開発された。パルプを原料とする器胎を用いる。木胎のように歪みが出ないため輸出用に注目された。高度経済成長期まで名古屋は有数の輸出漆器の産地であった。1961年収集

情報所有館 : 明治大学博物館 


金属カトラリー

新潟県燕市の金属製洋食器生産は、明治44年(1911)に「捧(ささげ)商店」が東京の貿易商十一屋商店から受注したことを契機に発展。第2次大戦後は輸出産業として1954年に輸出量が急増、1958年にアメリカ政府から輸出制限勧告が出される騒ぎとなる。1980年頃には輸出は衰退。収集当時は国内生産の95%を占める新潟県の代表的な地場産業だった。 燕振興工業株式会社 1964年収集

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輸出用金属カトラリー

高度経済成長を支えた輸出品産業として新潟県燕市の金属製洋食器は典型的な事例だった。ヨーロッパ市場向けマーク入デザート・ナイフ、デザート・スプーン(沖縄向け/米国市場向け/オーストラリア・南アメリカ市場向け)、デザート・フォーク(オーストラリア・南アメリカ市場向け)、フォーク(オーストラリア・南アメリカ市場向け)、テーブル・フォーク(カナダ市場向け)を収蔵。 赤羽工業株式会社 1964年収集

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第18回オリンピック20競技シンボル付スプーン

亜鉛銀メッキ。日本橋高島屋にて購入。1964年収集

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ディナー・セット

佐賀県有田の精磁会社や愛知県名古屋市の森村商会など、明治期に入ると洋食器を生産し海外に輸出しようという試みが始まったが、素地原料調合の問題などから器種によっては生産が困難なものがあった(特にオーバルの大皿)。そのため、本格的な洋食器のディナーセットの生産体制が整ったのは第2次大戦後のことであった。三郷陶器株式会社製 1959年収集

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ガラス漆器 胴張形小皿製造工程

本来漆とガラスの相性は悪く密着性に難があったため、漆で絵柄をつける開発が本格化したのは1980年代からとなる。本品はそれ以前における貴重な開発例だが、ガラスの裏面から色漆で彩色、皿の底面となる側に下地をして漆を塗り重ねるしくみとなっており、現在のガラス漆器のように器の表面に漆をほどこしたものではない。漆の剥落をふせぐ苦肉の策ではある。1959年収集 

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クリスタルガラス 花器

高度成長初期における各務クリスタル(現カガミクリスタル)社製の製品。家庭経済の上昇にともない、各家庭に高級食器・調度類が受入れられ始めた時期のものである。同社はドイツで製造技術を学んだ各務鑛三によって昭和9年(1934年)に設立され、日本初のクリスタルガラスを製造した我が国を代表するガラス食器製造メーカーである。各務クリスタル(現カガミクリスタル) 1962年収集

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琉球ガラス水瓶

琉球ガラスは泡盛を飲む酒器としての知名度を得て、現在では沖縄県の工芸として定着した。これは、まだ駐留米軍が排出する廃ビンを再利用していた時期の製品。1966年収集

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加茂縞 着尺地

新潟県加茂市域では、江戸後期には農間に自家用の縞木綿が織られていた。明治に入り企業化し、産業として成長する。大正期には動力織機も導入され、同12年には177万反を織り出した(『加茂市史』)。本品は合成染料ナフトール染による和服が日常衣料として健在だった頃のもの。新潟県加茂市(製造者不明) 1954年収集

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博多織 名古屋帯

高度経済成長下においても女性の衣料として和服は地位を保っていた。普段着・仕事着としての木綿絣が廃れた後も、絹織物は晴れ着や訪問着としての需要を保つことになる。1959年収集

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伊予絣 着尺地

久留米絣、備後絣とならび西日本の三大木綿絣の産地と言われた伊予絣の製品。高度経済成長下においても中高年女性の日常衣料として和服は地位を保っていたが、普段着・仕事着としての木綿絣の需要は確実に減少していった。この後、愛媛県地方においては、タオル産業が発展することになる。1961年収集

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長崎錦 しおり

江戸時代の鹿島綴を受け継いだ佐賀錦から第2二次大戦後に技術を導入して長崎手芸協会の会員が製織した。ハンドバッグ、ネクタイ、帯〆等の小物類が製造されていた。長崎手芸協会 1961年収集 他に帯〆を3点収蔵

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