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21形は1964(昭和39)年に製造された0系新幹線電車の制御電動車で、運転台を備えた下り側の先頭車。開業当初は視認性をよくするため、ボンネットの先端にアクリル製で電照式の「光前照灯」が設置されていたが、後に耐久性の高いFRP製に交換された。
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0系新幹線電車の中間電動車で、車内客室は1等車(現在のグリーン車)。両側2列の回転式リクライニングシートが採用され、シートピッチは1,160mm。出入口扉の押縁には金メッキが施されている。
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0系新幹線電車の中間電動車で、半室が2等車(現在の普通車)、もう半室がビュッフェの合造車。東海道新幹線の開業時から食堂車36形の導入まで35形は、編成中2量連結されていた。
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22形は1964(昭和39)年に製造された0系新幹線電車の制御電動車で、運転台を備えた上り側の先頭車。同じ先頭車の21形とは、集電装置・主変圧器・主整流器などを備えている点が異なる。
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100系は0系の後継者として、1985(昭和60)年に、2階建て車両を2両連結し、アコモデーションの改善を図った車両。1989(平成元)年には、先頭車を付随車から電動車に変更して2階建て車両を4両とし、高速化の装備を搭載した100系3000番代が登場し、100N系とも呼ばれた。100N系は「グランドひかり」の愛称で東京~博多間の「ひかり」で活躍後、短編成化に伴い改造されて5000番代となり、2012(平成24)年まで山陽新幹線「こだま」に使用された。122形は制御電動車で、上り側の先頭車である。
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521形は1996(平成8)年に登場し.た500系の制御電動車で、下り側の先頭車。500系は0系以来の全電動車方式となり、車体断面も航空機のように円形に近づけた。またトンネル微気圧波による衝撃を抑える目的で、先頭形状を鋭角に絞り込むなど高速化を図っているため、運転室が戦闘機のキャノピーのように張り出しているのが特徴である。1997(平成9)年から「のぞみ」として運転を開始。山陽新幹線内で国内最高(当時)の300㎞/h運転を行って、JR西日本のフラッグシップとして活躍した。
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クハ103形は、1964(昭和39)年に登場した103系通勤形直流電車の先頭車。高度成長期に車両の近代化と量産化を目的として、101系電車をベースに付随車の比率を上げるなど、より経済性を追求した車両で、通勤電車の標準形として1984(昭和59)年までに3,447両が製造さた。クハ103形1号車は1963(昭和38)年に山手線でデビューし、京浜東北線を経て1976(昭和51)年に関西へ転属。大阪環状線や阪和線などで活躍し、2011(平成22)年に引退しました。
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クハ86形は80系の先頭車で、それまでの電車と異なり、運転台付きの車両にモーターを装備していない。展示車両は1次車で3枚窓だが、運転士の視認性向上のため、2次車から大型の2枚窓に変更された。それまでは茶色1色だった塗装からオレンジと緑に塗り分けられ、塗色の多様化のきっかけとなった80系電車は、改良を加えながら600両以上製造され、大都市圏で活躍した後、地方線区へ転出し、1983(昭和57)年に全車が引退となった。
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モハ80形は、1950(昭和25)年に登場した日本初の長距離用直流電車80系電車の中間電動車。80系電車は、電車方式を主体とする動力方式の基礎となった系列で、それまで電動車は運転台付きが原則であったが、長大編成が前提の80系では先頭車は制御装置のみを搭載し、電動車は中間車という区分けを初めて行った。80系はモーター出力の向上や台車を鋳鋼製とし、軸受にベアリングを採用するなど、新技術を採り入れることで、長距離・高速運転に対応し、最大16編成が可能となった。
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クハ489形は、485系に信越本線横川~軽井沢間の碓氷峠における補助機関車との協調運転装置を搭載した489系特急形交直流電車の先頭車。1号車は1971(昭和46)年に製造された初期形で、485系100番代をベースとしているためボンネットスタイルで、タイフォンはスカート部に搭載しているのが特徴である。「白山」「あさま」などで長く活躍したが、横川~軽井沢間の廃止によって用途を失い、晩年は急行「能登」として2010(平成22)まで活躍、2012(平成24)年に廃車となった。
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1967(昭和42)年に登場した特急形交直流電車581系は、運用効率を高めるため、昼は座席車、夜は寝台車になる世界初の昼夜両用として481系をベースに開発され、先頭車は分割・併合できるよう貫通式とされた。1968(昭和43)年には交流50Hzにも対応した583系が誕生。ただし、制御車や付随車は581系列を踏襲した。クハネ581形35号車は1968(昭和43)年に製造され、「月光」「みどり」などの特急列車で活躍後、最後の定期急行列車「きたぐに」で2013(平成25)年まで運用された。
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キハ81形は、日本初の特急用ディーゼルカーとして1960(昭和35)年に登場した。151系特急用電車の成功を受けて開発された非電化幹線における気動車特急用車両で、151系の影響を受けたボンネットスタイルとなり、車内も151系に準じている。当初は特急「はつかり」で活躍し、1968(昭和43)年の「はつかり」電車化で「つばさ」「いなほ」「ひたち」に転用された。その後、1972(昭和47)年には、紀勢本線の特急「くろしお」に投入され、展示しているキハ81形3号車は、1979(昭和54)年に廃車となった。
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DD51形は、1962(昭和37)年に非電化幹線用として登場した液体式ディーゼル機関車。中央に運転室、前後に1基ずつエンジンを配した凸形で、空気ばねの圧力を調整することで軸重を変更でき、亜幹線まで入線が可能である。1978(昭和53)年まで649両が製造され、「トワイライトエクスプレス」などの特急から貨物まで非電化区間の主力機として活躍した。後継機の登場もあり、両数は減少しているが現在も貨物列車を中心に現役を続けている。(2020年現在)
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DD54形は、1966(昭和41)年に登場した亜幹線旅客用の液体式ディーゼル機関車です。西ドイツ(当時)のライセンス供与によって開発された高出力エンジンと液体変速機を搭載し、1971(昭和46)年までに40両が製造された。性能面は優れていたものの、推進軸の強度不足や独特な機構の液体変速機のため保守が困難であり、また西ドイツ側との連携の不備も重なって故障が頻発したこともあり、1978(昭和53)年までに全車が引退した。
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EF52形は、国産化の推進と規格の統一を図るため、鉄道省とメーカーが共同で開発して1928(昭和3)年に登場した幹線旅客用直流電気機関車である。9両が製造され、うち2両は後に高速化を図って歯車比を変更したためEF54形に改番された。試作的要素が強いが、国産電気機関車の量産化に向けた礎となった。
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EF65形は、安定した走行とけん引力で長距離運転が可能な機関車として1965(昭和40)年に登場した直流電気機関車。けん引力を確保しつつ高速走行が可能で、当初の貨物用から、ブルートレインけん引用の500番代(P形)、重連運転が可能な高速貨物用500番代(F形)、汎用形の1000番代(PF形)と派生し、1979(昭和54)年までに電気機関車では最多の308両が製造された。両数は減少したものの、貨物列車を中心に現役で活躍している。(2020年現在)
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EF58形は、1948(昭和23)年に登場した旅客用直流電気機関車。特急や急行のけん引機として活躍したほか、お召し列車の専用機に指定されるなど直流区間全般で使用され、「ゴハチ」の愛称で親しまれた。150号機は1958(昭和33)年に製造され、東海道・山陽本線で長年活躍した後に1985(昭和60)年に廃車となった。しかし翌年に復活してイベント列車を中心に活躍し、2011(平成23)年に引退した。
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EF66形は、1966(昭和41)年に試作されたEF90形(後のEF66形900番代)をもとに1968(昭和43)年に登場した高速貨物用直流電気機関車。搭載された電動機の定各出力3900kWは、当時狭軌では世界最大を誇った。1974(昭和49)までに55両が製造され、生鮮品などをはじめとした東海道・山陽本線の高速貨物輸送に従事したほか、1985(昭和60)年から2009(平成19)年の「はやぶさ」「富士」廃止までブルートレインのけん引機としても活躍した。
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ナシ20形は、1958(昭和33)年の特急「あさかぜ」登場にあわせて誕生した初代ブルートレイン20系特急用客車の食堂車。左右4人掛けテーブルが10セットのほか、電気レンジや電気冷蔵庫などが設置されたことにより、厨房設備が初めて完全電化となった。車両の内装が製造会社ごとに異なり、寝台特急の増発もあり36両が製造された。24号車は最終増備車で、1978(昭和53)年には引退し、1980(昭和55)年から旧交通科学博物館の館内食堂として使用された。
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オロネ24形は、24系客車のA寝台車で、1973(昭和48)年に9両製造された。開放形の2段式(プルマン式)寝台が特徴で、九州方面のブルートレインで活躍した。晩年には「日本海」で使用され、2012(平成24)年に同列車の廃止に伴い廃車となった。ほかには14系オロネ14形を24系に改造した100番代、「北斗星」の2人用個室寝台「ツインDX」用としてオハネ24形から改造した500番代などがあった。
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スシ28形は、1933(昭和8)年に食堂と2等座席の合造車スロシ38000形として登場し、1941(昭和16)年の称号改正でスロシ38形に改番された。戦争で食堂車が廃止となり、調理室を残したまま3等座席車に改造され、マハシ49形となったが、戦後にスハシ38形として復活した。展示車両は1962(昭和37)年、交通科学博物館の館内食堂として利用するため、前年に廃車されたスハシ38形102号車を全室食堂として改造したもので車両番号のスシ28形301号は、廃車後につけられた。
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マロネフ59形1号車は、皇族・貴賓客用として1938(昭和13)年に1・2等寝台緩急車マイロネフ37290形として製造された3両のうちの1両で、1人用個室寝台と初のプルマン式開放形寝台が採用された。1941(昭和16)年にスイロネフ38形に改番され、戦後は進駐軍が接収し、緩急装置を撤去して冷房改造が施されたスイロネ37形となった。返還後は2等寝台緩急車に改造されマロネフ38形、さらに等級改正でマロネフ59形となった。
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ワム3500形は、1917(大正6)年~1925(大正14)年に11,873両製造された大正時代の代表的な15t積み有蓋貨車。登場時の形式はワム32000形で1928(昭和3)年、称号規程の改正によりワム3500形となった。車軸が長軸であったことから戦時中には2,500両が標準軸に改造され、中国に送られた。戦後も引き続き全国で活躍し、晩年は北海道に集約され1970(昭和45)年まで現役を続けた。
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ヨ5000形は、1959(昭和34)年、日本初のコンテナ専用特急貨物列車「たから」のため、ヨ3500形の軸箱支持装置を2段リンク式に改造して最高速度85km/hでの営業運転を可能にした高速貨物用の車掌車。当初は12両が改造されたが、1962(昭和37)年からは新造車も加わり、区分するため5050番代となった。このほかにも、1967(昭和42)年以降にヨ3500形から追加改造された13500番代などがあり、最終的には1,000両を超えた。しかし1986(昭和61)年に貨物列車の緩急車・車掌車の廃止により用途を失い、全車が引退となった。
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EF81形は、幹線の電化が進む中、交流50Hz・60Hz、直流の電化区間を直通走行できる電気機関車として1968(昭和43)年に登場した。貨物から旅客まで、汎用性の高い標準形機関車として1979(昭和54)年までに関門トンネル用のステンレス製300番代を含む156両が製造された。その後、JR貨物が450番代・500番代を新製している。103号機は、僚機5両とともに塗色が変更され、連結器の交換や強化型緩衝装置の装備などを行い、「トワイライトエクスプレス」のけん引機として活躍した。
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スロネフ25形は、「トワイライトエクスプレス」専用24系客車のA寝台車。1889(平成元)年、運転開始に際してオハネ25形2両を、後にオハネフ25形1両を改造して合計3両が誕生した。大阪寄り最後尾に連結され、展望室を備えたスイートルーム1室とロイヤルルーム4室で構成された最も豪華な寝台車で、個室には、ベッドのほかソファーやトイレ、シャワー室があり、定員は6名である。2015(平成27)年の同列車廃止まで活躍しました。
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スシ24形は、1988(昭和63)年、食堂車の廃止で余剰となっていた489系電車のサシ489形を改造して誕生した24系客車の食堂車。車内は豪華な内装に一新されたが、車体や台車は流用したために編成中では異彩を放っていた。当初は、青色のブルートレイン塗装でイベント列車などに使用されていたが、1989(平成元)年、「トワイライトエクスプレス」の運転に際し、塗装や内装など再度改造を受け組み込まれ、「ダイナープレヤデス」の愛称で、2015(平成27)年の同列車廃止まで活躍した。
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オハ25形は、「トワイライトエクスプレス」のサロンカー。1989(平成元)年の運転開始に際し、14系のオハネ15形2両を改造して合計3両が誕生した。屋根まで達する大型窓と日本海の眺望が楽しめるソファーが特徴で、フランス語で「北のサロン」を意味する「サロン・デュ・ノール」の愛称で呼ばれた。またシャワー室、電話室、洗面所、自動販売機などのサービス設備も備わっていた。
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カニ24形は、24系客車の電源車。発電機を搭載し照明、冷房、放送などのための電力を供給した。また、新聞輸送用の荷物室が設けられている。0番代の車掌室は非貫通で左右に傾斜が付けられているのが特徴で、「トワイライトエクスプレス」用には4両が充当された。
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吉田肉腫はしろねずみ(ラット)の腹水がんである。1943(昭和18)年に長崎医科大学で腹水がんを発見した。腹腔内にたまっているネズミの腹水をみるとがん細胞が浮遊して増殖していた。画像左のラットが腹水肝がんAH-130であり、画像右のラットが移植した腹水肝がんAH108である。
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吉田博士が顕微鏡を覗いて描いた腹水肝がんAH100Bのスケッチである。1950年から吉田肉腫のほか悪性腫瘍の染色体の研究を開始。当時、顕微鏡内の映像を写真に残すことは難しくスケッチにより研究成果を保存していった。
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吉田肉腫の観察にはギムザ染色はじめ各種の染色法が用いられた。プレパラートで赤く染色されたものが吉田肉腫である。1962年9月5日検査依頼を受け、富三が見た病理組織標本。
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吉田博士はオルト・アミドアツォトルオール(アゾ化合物)を経口投与し、1934(昭和2)年に世界で初めて経口投与による人工的な肝がんを生成させた。
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1959年、佐々木研究所で腫瘍細胞の冷凍保存を始める。がん細胞浮遊液を凍結保護剤と混合して-196℃の液体窒素の中で凍結保存する際の器具である。(1984年癌細胞保存施設が東北大学抗酸菌病研究所(現、加齢医学研究所)に設置された。)
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吉田富三博士が1953年文部在外研究員として2年間のドイツ留学を命ぜられた際に買い求めたコダックの8ミリ映写機とフイルム。プラウベル・マキナー製のカメラ。
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吉田富三博士は197(昭和48)年4月28日に死去した。70歳であった。この勲章は博士のこれまでの功績を称え、死亡の翌日に授与された勲一等旭日大授章である。
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1959(昭和34)年に文化勲章を受章した。56歳というのは歴代受賞者の中でも若いのだが、当時のマスコミは、「まだ若いという理由で5~6年前から吉田の受賞はお預けだっだ。やっと順番になった。」と選考委員をからかった。これに対し富三は、「全く良き師に就くことができたおかげです。それに同輩、後進に恵まれた。」と誠に謙虚な感想を語った。良き師とは佐々木研究所長、佐々木隆興博士のことで富三は終生博士を敬愛してやまなかった。
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皿全体に金盛りで大きな花の唐草模様が浮かび上がり、小花は白の盛上げで立体的な表現となっている。下絵付けのコバルト渕にも金彩が施されている。森村組の専属画付工場であった東京の杉村作太郎工場(胡蝶園)の製品。 H:2.3cm、W:18.5cm。明治20年代。方面:輸出用。素材:白磁。
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菊花に雀が飛ぶ、日本的な花鳥文。19世紀後半にはジャポニズムの影響で日本的な画柄は好評を博した。花びらには白盛上げ、皿の渕模様には金彩が施されている。森村組の専属画付工場であった東京の井口昇山工場の製品。 H:1.9cm、W:18.5cm。明治20年代。方面:輸出用。素材:白磁。
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牡丹の花と鳥が手描きされた皿。画柄全体に繊細なタッチで描かれ金彩も施されている。遠景は山水風景と日本的な題材の画柄である。森村組の専属画付工場であった東京の井口昇山工場の製品。 3枚収蔵。 H:2.3cm、W:18.4cm。明治20年代。方面:輸出用。素材:白磁。
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牡丹の花と獅子が三組、色替りで描かれた皿。金彩で彩られた豪華な渕模様と色とりどりの花唐草で背景全体が埋め尽くされている。ジャポニズムで好評を博したと思われる。森村組の専属画付工場であった東京の藤村與兵衛工場の製品。H:2.3cm、W:18.5cm。明治20年代。方面:輸出用。素材:白磁。
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牡丹の花と鶉が手描きで描かれた皿。画柄全体に繊細なタッチで金彩が施されている。遠景には茅葺屋根の山水風景と日本的な題材の画柄である。森村組の専属画付工場であった東京の藤村與兵衛工場の製品。 H:1.9cm、W:18.0cm。明治20年代。方面:輸出用。素材:白磁。
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当時、輸出向けとして流行した「玉子茶ボカシ」とよばれる、黄色の吹きぼかしの地色の上に、「金盛」と「白盛」で小菊の文様を施している。1890年頃から森村組の専属画付工場をつとめた名古屋の西郷久吉工場の製品。 H:2.3cm、W:19.3cm。明治20年代。方面:輸出用。素材:白磁。
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金彩に「エナメル盛」「金盛」の装飾で仕上げられた大きな飾壺。「エナメル盛」は光沢のあるガラス質でできたエナメル(琺瑯)を盛上げをする技法で、宝石を埋め込んだように見えることからジュールともよばれる。「金盛」はイッチンと呼ばれる道具を使って模様を盛上げ、焼成後に金で加飾し焼き付ける。窓画に描かれた水牛のいる風景画は転写による画付け、裏面の風景画は職人による手描き。当時の転写紙は主にドイツからの輸入品で、日本の職人の手描きよりはるかに高価なものであった。胴と台座部はボルトで固定されている。 H:61.0cm、W:28.6cm、D:26.9cm。年代1891~1921年。方面:輸出用。素材:白磁。
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金彩に「エナメル盛」「金盛」の装飾で仕上げられた飾壺。「エナメル盛」は光沢のあるガラス質でできたエナメル(琺瑯)を盛上げをする技法で、宝石を埋め込んだように見えることからジュールともよばれる。「金盛」はイッチンと呼ばれる道具を使って模様を盛上げ、焼成した後に金で加飾し焼き付ける。窓画に描かれた女性は、プロイセンの王妃ルイーズで転写による画付け、裏面は職人の手描きによる薔薇の花。当時の転写紙は主にドイツからの輸入品で、日本の職人の手描きよりはるかに高価なものであった。 H:45.8cm、W:16.0cm。年代1891~1921年。方面:輸出用。素材:白磁。
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金彩に「エナメル盛」「金盛」の装飾で仕上げられた蓋付飾壺。胴と台座はボルト固定。「エナメル盛」は光沢のあるガラス質のエナメル(琺瑯)を盛上げをする技法で、宝石を埋め込んだように見えることからジュールともよばれる。「金盛」はイッチンと呼ばれる道具を使って模様を盛上げ、焼成した後に金で加飾し焼き付ける。窓画に描かれた女性はプロイセンの王妃ルイーズの胸像で転写による画付け、裏面は職人の手描きによる薔薇の花。当時の転写紙は主にドイツからの輸入品で、日本の職人の手描きよりはるかに高価なものであった。H:37.6cm、W:22.0cm、D:18.0cm。年代1891~1921年。方面:輸出用。素材:白磁。
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金彩に「エナメル盛」「金盛」の装飾で仕上げられた大きな飾壺。壺の胴部と脚部はボルトで固定されている。「エナメル盛」は光沢のあるガラス質のエナメル(琺瑯)で盛上げをする技法で宝石を埋め込んだように見えることからジュールともよばれる。「金盛」はイッチンと呼ばれる道具を使って模様を盛上げ、焼成した後に金で加飾し焼き付ける。職人の手描きで白鳥が飛翔する姿が描かれている。「フライングスワン」とよばれるこの画柄は英国銘窯のアンティークにオリジナルをみる。 H:54.5cm、W:29.5cm、D:23.0cm。年代1891~1921年。方面:輸出用。素材:白磁。
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手描き上絵付けで、鳥が飛ぶ風景画が描かれた花瓶。胴の上下及び、把手は酸化コバルトを顔料とした瑠璃色。下絵付けで加飾した後に焼成し、その上に金彩で模様が施されている。 H:21.5cm、W:16.5cm、D:14.5cm。年代1891~1921年。方面:輸出用。素材:白磁。
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