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ソフト自販機TAKERUで培った通信ネットワーク技術を使用した、それまで無かった通信カラオケという新しいシステムを築き上げたモデル。当時の主流・レーザーディスクカラオケの課題であった配信スピード、スペースの問題をクリアした。最大10,000曲収容、30×24.5×38.5㎝。1992年
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SOHO等のユ-ザ-のPC普及率が急速に高まり、FAXとPCを接続したいというニーズに応えた小型複合機。1台でファクス・コピー・プリンター・スキャナー・PCファクスが可能。既に製品技術として単独で持っていたレーザープリンターエンジン、FAX、スキャナー等、自社技術要素の融合により実現。小型でありながら多機能の製品で海外市場から高く評価された。1995年
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ヤンポ型の香箱は、小器の蓋にそれぞれ「ちよくさく(勅作)」「上のちん(沈香)」「中のちん」「たきもの(薫物)」「徒希本之(つけほし・付干)」と蒔絵で記されているため、香を入れるための器と知ることができる。勅作の薫物を手元に置くことの許された貴人の日常にあった道具と判明する。(江戸時代初期)
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人間が水中に入って行なわれる漁や作業では、特別な器具をつけずに潜る素潜りのほか、ボンベや潜水具を身につけて潜る方法がある。潜水具を使用した方法では、潜水士は潜水服を着て、水圧に耐えるヘルメットを被り、鉛の靴などで装備を整え水中に入った。ヘルメットは船上のポンプとホースで結ばれ、ポンプから送り込まれる空気で呼吸を確保し浮力も得た。潜水具は、港で防波堤の基礎を作る際の潜水作業で欠くことのできないものだった。現在、紋別のホタテ漁では桁網が使用されるが、潜水具を使用してホタテを漁獲していたこともあった。この「潜水具」は紋別漁業協同組合より寄贈されたもので、昭和初期(戦前)か大正時代の製作と推定される。
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かつての農業において施肥(肥料播き作業)は、腰を屈めて行なわなければならない大変な重労働であった。身体的負担を軽減し、正確な施肥を行なうために考案されたのが、「ラッパ」(紋別では別名「つっぽ」)と呼ばれるブリキ製で筒状の農具である。肥料を入れた箱や袋を肩や首からぶら下げ、ラッパに肥料を流し込んで播くことで、肥料が風に飛ばされることもなく、立った姿勢での施肥が実現した。その後、ブリキ製で肩掛けタンク型の肥料播き器(中央の穴に首を通し、ラッパと組み合わせて使用)が開発され、疲労を抑え、効率的な施肥ができるようになった。紋別では肩掛けタンク型の肥料播き器は昭和初期に使用された。
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この額の言葉の出典は『礼記』であり,これによると「学後知不足」の後に「教然後知困」が続く。 「学問をしてみて初めて自分の知識不足がわかり,教えてみて初めて勉強の難しさを知る」という内容の言葉である。常に学ぶことの大切さを感じて人生を送った榎本の謙虚で真摯な姿勢がよく表われ,榎本ゆかりの北海道に新たに興った本キャンパスの学生への言葉として意味深く相応のものである。 ※本学は1891年に榎本武揚が創立した「徳川育英会育英黌農業科」を原点としています。
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蒸気機関車の進行方向を転換させるために造られたもので、鉄製で直径約18m。建設当時は手動により回転させていたが、現在は電動で回転する。蒸気機関車が走っていたころは4箇所で使用されていたが、現在では天竜二俣駅のみに残されている。年代:1940
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木造平屋建、波形ストレート鉄板葺で建築面積は686㎡。現在は右側2両分が切り縮められ、4線分の格納が可能。総木造で庫内に下る柱を少なくするために力強い架構を持つ。年代:1940
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鉄筋コンクリート造の高架貯水槽。蒸気機関車へ大量の水を補給するため、高い位置に貯水槽が置かれ、水の重力によって補給を行っていた。6本の脚の上に、内容量70トンの貯水槽が載る。脚の内側に揚水施設のポンプや配管の一部が残存する。年代:1940
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木造平屋建の大きく窓のついた簡易な建築。室内に揚水ポンプの一部が残存し、隣接して外径3.6m・高さ1.1mの鉄筋コンクリート造りの井戸を付設。水を井戸から汲み上げ貯水槽へ送る。年代:1940
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木造平屋建で、一部が二階建てとなっている。外壁は杉板縦張り、ガラス窓は格子桟付の木製が特徴。現在も事務室・会議室として使用している。年代:1940
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木造平屋建、日本瓦葺で事務室棟に沿って並ぶ。現在は使われていないが、内部には浴槽が当時のまま残存している。事務室棟・休憩所とは屋根だけの渡り廊下で結ばれている。年代:1940
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現在のヤマハ株式会社の創業は、1887年(明治20年)に山葉寅楠が浜松の小学校にあった壊れたオルガンの修理に成功し、オルガン製作を決意したのがきっかけ。このオルガンは、山葉寅楠によって製作された現存する最古のものの一つと考えられる。鍵盤の上のプレートには、「山葉製造」「MANUFACTURED BY YAMABA」の文字が見られる。創業当時は「YAMAHA」ではなく、「YAMABA」と記されていた。年代:1880年代後半
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現在のヤマハ株式会社の創業者である山葉寅楠は、1887年(明治20年)に浜松で、飾り職人をしていた河合喜三郎と協力しオルガンを完成させた。そして、その出来栄えの評価を受けるため東京の音楽取調所(東京芸術大学音楽部の前身)へ持ち込んだ。 当時はまだ浜松から東京まで鉄道が通じておらず、箱根山を越える際には天秤棒で担いだとも伝わる。このレリーフは、会社創立30周年記念行事のひとつとして本社内に建立された寅楠銅像の台座に埋め込まれていたもの。銅像は第二次世界大戦中に供出され現存しない。年代:1929年
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空気式の自働演奏ピアノ。自動ではなく、自働の字が当てられている。演奏で発音させるタイミングに穴を開けたロール紙を取り付け、ペダルを踏むと、ロール紙を巻いていくのと同時にふいごで空気が送られ、鍵盤機構に繋がっているバーの穴とロール紙の穴が一致したところで空気が流れることによって鍵盤機構を動かし、発音する仕組みだった。後年はモーターが取り付けられて完全な機械式の自動演奏ピアノとなる。個人宅や学校、教会、店舗などに普及した。年代:1913年
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日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)は、木工技術と合板技術が注目され、航空機用木製プロペラを受注、1921年に製造を開始した。プロペラ開発で培った製造技術や工作機械が、後のオートバイ製造への礎となった。本体横に「大正14年11月 日本楽器會社製作」の刻印がある。製番/155 木製・胡桃材 年代:1925年
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日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ株式会社)が開発したオートバイ。1954年8月に試作車を完成させ、1955年2月にYA1型ヤマハ125ccとして発売、えんじ色のスリムな車体から、“赤トンボ”の愛称で呼ばれた。1955年7月の第3回富士登山オートレースや同年11月の第1回浅間高原全日本耐久ロードレースで上位を独占し、高い走行性能を実証。 同年7月、オートバイ部門を独立し、ヤマハ発動機株式会社を設立した。年代:1955年
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日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ株式会社)の電子オルガン「エレクトーン」1号機。Electoronicとtoneを合わせて命名された。当時の電子回路は真空管が主流だったのに対し、メインアンプ以外を全てトランジスタで構成。上鍵盤、下鍵盤、足鍵盤という3段構成の鍵盤に、エクスプレッションペダル、膝で操作するニーレバーを装備。トーンレバーでさまざまな音をミックスして音色を作成するという画期的な電子楽器である。2019年、未来技術遺産に登録。年代:1959年
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「電気的な冷たい音ではなく、楽器に近い自然で生きた音をつくる」というテーマを研究し完成したエレクトーン(電子オルガン)。 音程・音色・音量の時間的な変化を可能にする集団電圧制御によるシンセサイザー36台分の音源が入っており、ヤマハのシンセサイザー開発の第一歩とも言える。GX-1はキースエマーソンやスティービーワンダーの使用でも有名で、ドリームマシンと称賛された。年代:1975年
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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団からの依頼により開発されたウィンナホルン。ウィーンフィルは現代の楽器とは構造が異なる管楽器を演奏しており、伝統的な独特の音色を響かせることで知られている。しかし、それらを製作していた欧州の工房が後継者不足などによって次々と廃業してしまったため、日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ株式会社)が、ウィーン式ロータリー・トランペット、トロンボーン、ウィンナオーボエ、ウィンナホルンを製作・供給することになった。これらの楽器の開発により、「ウィーンフィルの伝統的な音を救った」として1992年にウィーンフィルからヤマハに感謝状が贈られた。年代:1978年
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硬度と軽さ、剛性のすべてにおいて理想の素材とされながら、加工の難しさから幻と言われたピュアベリリウム振動板を採用した最初のスピーカーシステム。ワイドレンジで正確な音調、輝くような中高音の開放感とクリアネスは発売と同時に世界中で大きな反響を呼ぶ。1976年にはスウェーデン国営放送がヤマハNS-1000Mを公式モニタースピーカーに選定するなどプロモニターとしても信頼を集めた。1997年まで23年間にわたり20万台以上を販売するロングセラーモデルだった。年代:1974年
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ヤマハのソリッドギターSGシリーズを、カルロス・サンタナのアドバイスを元に進化させたエレキギター。弦の振動をより効果的にダイレクトにボディへ伝達するワンピース構造とボディーに直接組み込まれたサドル下のサスティーンプレートの組み合わせによりロングサスティーンを実現。オリジナルオープンハムバッカーピックアップは3点支持方式で高さ・角度が調整容易、甘く艶やかなサウンドが特徴。年代:1976年
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世界の音楽シーンを激変させたFM音源のデジタルシンセサイザー。 現在の音楽シーンでも引き継がれているエレピサウンドやシンセベースサウンドなど、アナログシンセでは聞かれなかった多彩なサウンドに加え、カートリッジによる音色管理やMIDI端子の装備、液晶パネルによるディスプレイなど、当時の最先端技術をすべてつぎ込んだとも言えるヤマハDX7は、プロ、アマチュアの壁を越えて世界的な大ヒット商品となった。2019年、未来技術遺産に登録。年代:1983年
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デジタルサウンドフィールドプロセッサーの第1号機。ドルビープロロジック登場に先駆けること1年、世界で初めてデジタル信号処理による音場創生技術DSPを搭載。既存のステレオスピーカーに前後4台の専用プロセシングスピーカーを追加することで臨場感あふれる音場再現を実現した。ヤマハが実在のホールなどで計測・収集した音楽用プログラム13種類、映画用プログラム3種、さらに楽器演奏向けエフェクター16種類を加えた全32プログラムを内蔵。年代:1986年
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卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストとも称されたスヴャトスラフ・リヒテル。1969年のイタリア公演でヤマハのフルコンサートグランドピアノCFを初めて演奏して以来、ヤマハのピアノを愛用した。このピアノは、最後となった来日公演で使用したもの。年代:1994年
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整地用具。愛知県で使用。1975年収集。春日井市、西春日井市、稲沢市、海部市の一部において、早春から初夏にかけて、水田の全面耕起に用いた。主として沖積層地帯の深耕用として考案され婦人労働でも容易である。昭和28年頃まで、水田の平起こしに使用した。
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北海道の幌内鉄道が1880(明治13)年より8両をアメリカから輸入した蒸気機関車。6両には「義経」「弁慶」「比羅夫」「光圀」「しづか」と歴史上の人物の名がつけられた。導入時は形式の区分はなく、1906(明治39)年の国有化時に7100形となった。当館保存の「義経」は1925(大正14)年に払い下げられ、サドルタンク式機関車に改造されましたが、1952(昭和27)年に鷹取工場で復元され、1991(平成3)年に、当館の前身である交通科学博物館に動態保存された。
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1881(明治14)年にイギリスから8両輸入されたタンク機関車。先軸、従輪のない動軸3軸のみで、京都ー大津、長浜ー敦賀・関ヶ原の勾配区間で活躍した。1801号機は1930(昭和5)年に高知鉄道(現・土佐電気鉄道)に払い下げられた後、東洋レーヨン滋賀工場を経て1964(昭和39)年に復元され、当館の前身である交通科学博物館に保存された。
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幹線旅客用としてイギリスから輸入された6200形・6270形を、大正末期から昭和初期にかけて支線や入換用としてタンク式に改造して誕生した蒸気機関車。美濃太田機関区で活躍後、1939(昭和14)年には日鉄鉱業に払い下げられ、1979(昭和54)年まで鉱石輸送に使用された後に同所で保存されていたが、2009(平成21)年、当館の前身である梅小路蒸気機関車館に譲渡された。
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230形は1902(明治35)年から41量が製造されたタンク式蒸気機関車。1930年代から順次廃車が進んだが、233号機は奇跡的に入選機として1959(昭和34)年まで現役で使用され、1962(昭和37)年、当館の前身である交通科学博物館に復元保存された。2016(平成28)年には国の重要文化財に指定された。
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8620形は、旅客用として1914(大正3)年から687両製造された。当初は幹線の急行列車を中心に使用された。後継機が登場すると、地方へ転出して全国各地で活躍するようになり、「ハチロク」の愛称で親しまれ、1975(昭和50)年に最後の1量が廃車となるまで、長期に渡って活躍した。8630号機は東北地方で運用され、1972(昭和47)年に動態保存された。
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C53形は1928(昭和3)年に登場した幹線旅客用の蒸気機関車。外国ではすでに実用化されていた3気筒式を採用し、97両が製造された。97両が製造されたが、新機軸ということで設計上の問題と複雑な機構により保守が困難なため故障が頻発し、さらには戦時中の酷使と整備不足も重なっって、1950(昭和25)年までに全車が廃車となった。
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C55形は1935(昭和10)年に登場した亜幹線旅客用の蒸気機関車。C11形での技術を活かして電気溶接を多用し、蒸気溜めと砂箱を一体のカバーにするなど、シャープで近代的な外観となった。C57形の登場まで62両が製造され、四国を除く全国各地で1975(昭和50)年まで活躍した。
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C11形は支線や区間運転用として1932(昭和7)年に登場。C10形を基本に、重軸制限の厳しい地方線区にも使用できるよう、薄銅版と電気溶接を用いて軽量化を図ることによって、使用可能な線区が大幅に拡大した。またコンパクトで使いやすいため、1947(昭和22)年までに381両が製造された。西日本を中心に都市近郊やローカル線で旅客、貨物。入換用と多様に活躍し、現在も動態保存機としては最も多くの両数が各地で活躍している。
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C57形は1937(昭和12)年に登場した亜幹線旅客用の蒸気機関車。1947(昭和22)年までに201両が製造され、四国を除く全国各地で活躍し、「シゴナナ」または細身のボディーから「貴婦人」の愛称で親しまれた。1号機は東北本線や羽越本線などで活躍後、1972(昭和47)年からは当館の前身である梅小路蒸気機関車館で動態保存された。1979(昭和54)年には「SLやまぐち号」の牽引機となった。
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C58形ローカル線の旅客兼貨物用として1938(昭和13)年に登場した蒸気機関車。旅客用8620形・貨物用9600形と同等の性能を兼ね備え、汎用性も高く、1947(昭和22)年までに431量が製造された。主に千葉、和歌山、四国全域で活躍し、「シゴハチ」の愛称で親しまれた。
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C56形は1935(昭和10)年に登場した蒸気機関車。ローカル線に向けて小型軽量で、ある程度の長距離運転も可能にすつため、タンク式のC12形をベースにテンダー式として燃料の搭載量を拡大させた。160号機は1939(昭和14)年製造の最終号機で、日高本線、津山線、小梅線、七尾線などで活躍し、当館の前身である梅小路蒸気機関車館で動態保存された。
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9600形は、国産で初めて本格的に量産された貨物用のテンダー式蒸気機関車。火室を台枠の上に載せることで大出力ボイラーの実現が可能になったが、重心が高いため高速運転には向かなかった。しかし、使い勝手の良さから1913(大正2)~1926(大正15)年に770両が製造され、全国各地で長く活躍した。最後は北海道の追分機関区で入換機として3両が1976(昭和51)年まで現役を続け、国鉄蒸気機関車の最後を飾った。
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D51形は1936(昭和11)年に亜幹線貨物用として登場した蒸気機関車。C11形やC55形と同様に電気溶接の多様と全長の短縮など軸重の軽量化を図ったことで入換可能線区が拡大し、戦時の貨物需要の増大もあって、国内最多の1,115両が製造されて国内のほぼ全域で使用され「デゴイチ」の愛称で親しまれた。1号機をはじめとする初期形は、給水温め器が煙突後部に設置されカバーで覆われており、「半流線形」「ナメクジ」などと呼ばれた。
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D51形200号機は、1938(昭和13)年に浜松工場で製造された。給水温め器を煙突前に設置して軸重の配分を変更しており、初期形に対し「標準形」と呼ばれる。主に東海道本線や中央本線で活躍し、1972(昭和47)年に当館の前身である梅小路蒸気機関車館で動態保存された。一旦は車籍が抹殺されたものの、1987(昭和62)年に復活、2015(平成27)には本線への復帰が決定した。
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D50形は9600形の後継機として、1923(大正12)年から380両が製造された幹線貨物用の蒸気機関車。登場時の形式は9900形でしたが、1928(昭和3)年の称号規定改正でD50形に改められた。戦後、一部は従台車を2軸に増やして軸重を軽減したD60形に改造されている。140号機は、D50形最後の一両として1971(昭和46)年まで九州で活躍した。
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D52形は、1943(昭和18)年に登場した幹線貨物用の蒸気機関車。D51形をベースにボイラーを可能な限り大型化する一方、戦時設計による工程の簡素化が図られた。このため、木材など代用資材が多用されたことなどから十分に性能が発揮できず、1946(昭和21)年に285両で製造が打ち切られた。
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1948(昭和23)年製造のC62形2号機は、1951(昭和26)年に特急「つばめ」の牽引にあたりステンレス製のつばめマーク「スワローエンゼル」が取り付けられた。1957(昭和32)年に軸重軽減や旋回窓などの改造が施され、北海道に渡った後は急行「ニセコ」などで活躍した。1972(昭和47)年に廃車された後に、当館の前身である梅小路蒸気機関車館で動態保存された。
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C62形は1948(昭和23)年に登場した幹線旅客用の蒸気機関車。足回りはC59形の設計がベースだが、D52形の巨大ボイラーを流用したため、C61形同様ハドソン形(2-C-2)の軸配置にして軸重を上限内に抑えられた、1号機は、試作機として山陽本線で試験が繰り返され、自動給炭装置も後に装備された。1967(昭和42)年に廃車され、1994(平成6)年に、当館の前身である梅小路蒸気機関車館に移設された。
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1948(昭和23)年にD52形46号機のボイラーを転用して誕生したC62形26号機は、現存するC62形では唯一の川崎車輌(現・川崎重工)製。稲沢機関区に新製配置され、東海道・山陽本線を離れることなく活躍を続けた。1966(昭和41)年に糸崎機関区で廃車となった後は、当館の前身である交通科学博物館で保存・展示された。
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C61形はD51形のボイラーを流用し、改造の名目で1947(昭和22)年より33両が製造された、亜幹線旅客用の蒸気機関車。足回りはC57形がベースで、ボイラーが大きいため従台車を1軸増やして日本初のハドソン形(2-C-2)の軸配置とし、軸重を減らした。自動給炭装置を初めて搭載した蒸気機関車で、主に東北や九州の地方幹線で活躍した。
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