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40×33×23。高さ 43cm 扇の径 34cm。12inch A.C. Electric Fan。Cat. No. 7002。Volts 100/110。Cycle 50/60首振り機能、風力4段階調整機能付。芝浦製作所1920~1930頃製造。
情報所有館 : 山口県立山口博物館
磁気記録のはじまりとなったワイヤーレコーダー。本機はワイヤーレコーダーとしては後発。ポケットサイズの15.5×29.3×44.7。電池駆動で約1時間の録音が可能。Made in W.Germany。購入価格20,000円。1960年代製造。
情報所有館 : 山口県立山口博物館
現在のFAXの原型にあたるもので、わが国で初めてのトランジスタ使用の軽量小形のドラム交換式携帯型写真電送送信装置。東方電機株式会社製。201G形 No.315。1963年7月製造。
情報所有館 : 山口県立山口博物館
1967年に発売された世界初のプログラム機能付き電卓。記憶装置にマトリックスコアを使用して、小型化に成功。数字表示部には、ニキシー管を用いている。カシオ計算機(株)1969年製造。
情報所有館 : 山口県立山口博物館
5球ニュートロンダイン。大正末から昭和2~3年頃まで使われた。ニュートロダイン方式は当時のストレート方式に比べ受信感度が高くラジオの普及に大きく貢献したが、後にスーパーヘテロダイン方式にとって代わられた。
情報所有館 : 山口県立山口博物館
世界で初めて距離計連動機能を備えたカメラ。撮影サイズ:100 ×140mm、使用フィルム:122フィルム [A122]。フィルム製造時期:1903~1971年、撮影枚数:8コマ。必要露光時間:晴天戸外2~5秒、曇天戸外5~10秒。1916~1934年製造。
情報所有館 : 山口県立山口博物館
「羊毛様合成一号(ビニロン)」は、国内技術で作られたポリビニルアルコールを原料として、櫻田一郎教授(当時京都大学工学部、化学研究所員兼任)らが1939年に発明した日本初の合成繊維。世界で見ても、2番目に発明された合成繊維である。紡糸実験装置(写真)は、 ビニロンの工業化に向けた実験のため1943年頃に作製されたもの。京都大学化学研究所では実験装置の他、新工場を建設する際に作成された計画書(設備費、原価計算等を試算)なども所蔵している。
情報所有館 : 京都大学化学研究所 碧水舎
京都大学化学研究所が高槻に立地していた時期に試験生産された合成ゴム(NBR)試料。1937年から京都大学工学部の古川淳二教授(研究開始時は工学部学生、後に化学研究所員)が合成ゴム研究を開始して画期的なモノビニルアセチレン法を開発し、1942年7月から日産200kgの工業化試験を行い成功した。その後、この設備は住友化学工業新居浜工場に移され、NBRの生産に使われた。試料は長らく古川教授の手許にあったが、1982年に京都大学化学研究所と東京農工大学繊維博物館(現在の科学博物館)に寄贈された。
情報所有館 : 京都大学化学研究所 碧水舎
京都大学の喜多源逸研究室で、1927(昭和2)年から、フィッシャートロプシュ法(FT法)触媒の基礎的研究が開始され、入手容易で安価な鉄系触媒を開発。戦前・戦中の日本の石油不足を解消するため国策として工業化が進められた。児玉信次郎教授らが中心となり、京都大学化学研究所で中間工業試験、北海道人造石油の留萌研究所での加圧式による工業試験の成功(1942年)を経て、1944(昭和19)年8月北海道滝川市で鉄触媒本格炉の試運転が始まったが、まもなく終戦となった。化学研究所には人造石油試料(試薬瓶 6 本)と、合成用触媒(試薬瓶 4 本)のほか、実験ノートや実験装置の写真集などが残っている。
情報所有館 : 京都大学化学研究所 碧水舎
高圧法ポリエチレンの国産化が重要課題とされていたことから、1944年1月に京都大学の児玉信次郎教授らが研究を開始し、3月に少量の試料を得て終戦を迎えた。戦後、電電公社から研究委託を受け、研究を再開している。保存されている資料は1951(昭和26)~1953(昭和28)年に京都大学化学研究所で行われた高圧法低密度ポリエチレン連続工業化パイロット試験の設計図及び関連資料。実験ノート、設備写真とガラス乾板、1954年のものと推定される内部報告書などが残されている。
情報所有館 : 京都大学化学研究所 碧水舎
「大正十二年九月一日 関東地方大震火災による建物の被害調査」清水組(現 清水建設)設計部によりまとめられたもの。清水組が設計・施工に携わった建物についての調査結果が記されている。第一編から第六編の構成となっており、第一編には190棟の建物(鉄骨造、鉄筋コンクリート造、煉瓦造、木骨造、日本家に分類)について被害状況が整理されており、第二編から第四編にかけて、特に49棟の建物について、より詳細な被害分析が記されている。第四編と第五編は作成中として未完で、第六編は付録となっている。年代:1924年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
「大正十二年九月一日 関東地方大震火災による建物の被害調査」附図は、第一編~第三編に関わる調査図(青焼き図面に彩色)。表紙、凡例を含め71枚。年代:1924年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
リベット接合は孔をあけた複数の鋼板に片側から赤熱したリベットを挿入し、ハンマーで反対側の頭部をかしめて(叩き潰す)鋼板どうしを緊締する工法。その施工前のリベット。年代:1950年代
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
リベット接合で組み立てられた明治期の鉄骨柱および梁とのの接合部分を、当時と同様の工法で復元したもの。参考としたのは旧三井本館(1902年竣工)の鉄骨柱。鉄骨回りには煉瓦をはめ込んだ形式となっている。年代:2004年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
リベット接合で組み立てられた明治期の鉄骨柱と梁の接合部分を、現在の接合法で製作した同サイズの鉄骨柱。年代:2004年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
旧菅島燈台付属官舎主屋(三重県鳥羽市菅島町)に用いられたもの。お雇い外国人リチャード・ヘンリー・ブラントン(イギリス人)の設計。年代:1873年頃
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
江の島サムエル・コッキング苑(コッキング植物園温室遺構)から出土したもの。横濱煉化製造会社製造とされている。年代:1888年頃
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
旧唐津銀行のオレンジがかった施釉の化粧煉瓦(外装タイル)、タイルを煉瓦造に張った初期の事例。田中 実設計。年代:1912年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
日本工業倶楽部会館 大正9(1920)年に用いられた化粧煉瓦(竪筋小口タイル)の複製。 当初の製造は鳥井製陶所。横河工務所 設計。年代:2004年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
旧帝国ホテル本館に用いられたスダレ模様の表積煉瓦(スダレ煉瓦)。帝国ホテル直営の煉瓦製作所で製造された。このうちスダレ煉瓦はスクラッチ煉瓦と呼ばれ、以後、無釉外装タイルの代表的なものとして、大正末期から昭和10年代初頭にかけて多くの建物に用いられた。年代:1923年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
イタリア ポンペイの遺跡から採取されたローマ時代のコンクリートの一部。住居の床として使用されていたコンクリートと推察される。年代:紀元10年代
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
七尾港桟橋は昭和14(1939)年に建設、改修工事のため撤去された桟橋より採取されたもの。約65年間にわたり、北陸地方海岸という極めて厳しい環境下に耐えてきたコンクリート。採取したコンクリート塊から測定された最大粗骨材寸法は43mmと比較的大きなものが使用されていた。年代:1939年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
第三海堡は明治政府が敵艦の東京湾侵入を阻止する目的で東京湾入り口の海中に建造した砲台を有する人工島。大正10(1921)年までに第二・第三海堡が完成した。第三海堡は竣工からわずか2年後に起こった関東大震災により水没状態となった。2000年からはじまった撤去作業により、陸上に引き上げられた第三海堡から採取されたもの。約80年間海中にあったと推測される。年代:1920年代
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
アメリカで開発されたカーン・バーとリブ・バー(異形鉄筋)を組み合わせた梁の配筋法。アメリカの土木技師カーンによって1903年に特許が取得されている。ひし形の異形鉄筋にウイング(翼骨、ひげ筋)が取り付けられ、せん断補強筋の役目を果たすとも言われた。大正期から昭和初期にかけて多く用いられた。1923年関東大震災でこの配筋に被害が多かったとも言われ、採用されなくなった。旧第一銀行函館支店の梁に使用されたもの。年代:1921年
情報所有館 : 清水建設 技術研究所 建設技術歴史展示室
フランスのディニエ社により1860年頃に製作された印字式モールス電信機です。インクのついた円盤にテープを軽く押し付けるとテープ上に符号が印字される仕組みで、ゼンマイ駆動の時計仕掛けが使われています。榎本武揚が1862年に幕府によりオランダへ派遣された際に入手し、1868年に榎本が戊辰戦争へ参戦する際に函館の運上所に預けられた後、所在不明となっていました。その後、愛宕山下の古道具屋で明工舎の沖牙太郎に買い取られ、1881年に榎本が会長を務めていた電気学会の第3回電気学会講演会で、逓信省技術官僚の吉田正秀によってこの電信機が紹介されことをきっかけに逓信省に寄贈され、現在に至っています。
情報所有館 : 郵政博物館
この機械は、1904年、山口県赤間関(現在の下関市)の発明家俵谷高七により考案された「自働郵便切手葉書売下機」というもので、日本に現存する最も古い自動販売機です。写真向かって右側に3銭切手の発売口、左側に1銭5厘のはがきの発売口があり、中央下部には硬貨の返却口とポストが付いています。はがきは、1銭5厘入れると1枚、3銭入れると2枚出てくるようになっています。また、在庫が無くなると、売切れの表示もできる仕組みになっています。しかし、この販売機は、装置作動の正確さにやや難点があり、実用化されませんでした。
情報所有館 : 郵政博物館
1869年、ガワーベル電話機に代わり、デルビル磁石式電話機が登場しました。加入者は磁石発電機のハンドルを回して電話局へ信号を送り、電話局からは自動変極器からの交流を加入者に送り、加入者電話機のベルを鳴らしました。この磁石発電機をもつ電話機のことを磁石式電話機と呼んでいます。木箱の中に磁石発電機、磁石電鈴、誘導線輪などの附属品が入っており、一次電池はそのすぐ下にテーブルのように取り付けた別の木箱の中にレクランシー電池2個が入っています。デルビル電話機は壁掛型の他、卓上型も作られました。その後、共電式、自動式と並行して小規模局で1965年頃までの長期にわたって使用されました。
情報所有館 : 郵政博物館
これはドイツ製足踏式押印機で、1884年当時駅逓総官であった野村靖が欧州に出張した際に公的に購入したものと伝えられています。19世紀後半には、各国とも近代郵便制度が社会に浸透したため差し出される郵便物が増加し、手作業による押印作業は困難を極めるようになりました。そのため、各国とも押印機の研究開発に努め、ドイツで開発されたのがこの足踏式押印機でした。このドイツ製足踏式押印機は東京郵便局で試用されましたが、1分間に100通前後しか押印できなかったようです。これは日本の封筒の紙質がこの機械の性能に合わなかったためで、残念ながらこの押印機の導入は幻となりました。
情報所有館 : 郵政博物館
郵便が創業して間もない頃は、郵便物の輸送には専ら「人車」(じんしゃ)が用いられていました。人車は人力で荷物を運ぶ車で、郵便物運搬用の人車には枠車と函車の2種があり、赤い躯体と大きな車輪が特徴的でした。現在の郵便局のバイクや郵便自動車は赤い色ですが、郵便物運搬用の人車にはすでに赤い色が使われていたことが分かります。当時、赤い人車は大変珍しく、町なかでは非常に目立っていたため、「東京中の多くの人々に郵便のことを知らせる広告となった。」と、後に前島密が『郵便創業談』の中で語っています。1892年に小包郵便の取扱いが開始されてからは、人車は小包の輸送のみならず、配達にも利用されました。
情報所有館 : 郵政博物館
日本で最初に発行された郵便切手は、郵便創業の明治4年3月1日(新暦では1871年4月20日)に発行された4種類(四十八文・百文・二百文・五百文)です。この切手の意匠には、当時の政府発行の紙幣(太政官札)に使用されているのと同じ「竜(りゅう)」が描かれ、料額の単位が「文(もん)」であることから「竜文(りゅうもん)切手」(竜文切手4種)と呼ばれています。
情報所有館 : 郵政博物館
郵便物を時間どおりに取りあつめたり運送したりするため、1874年から全国の郵便役所や取扱所に配備されました。当時は時計がめずらしかったので、郵便局に置かれた時計を見るために局を訪れる人もいたといいます。
情報所有館 : 郵政博物館
前島密が日本に電話事業を導入した創業当時の電話機で、これは日本初の実用機でした。1879年、イギリス人のガワーが発明した送話器とアメリカ人のベルが発明したベル電話機を組み合わせて作られたもので、「ガワーベル電話機」と呼ばれています。
情報所有館 : 郵政博物館
郵便創業時の郵便行李。この中に郵便物をあて先別に小袋に入れ格納し、郵便逓送人が肩に担いで、宿駅間をリレー式に継ぎ送りました。郵便を格納するものの名称は、郵便行李から郵便行嚢となり、その後は郵袋となりました。現在はプラスティックケースとなり、パレットに積まれて搬送されています。
情報所有館 : 郵政博物館
福井県立こども歴史文化館内で一番古いタイプの蓄音機です。残念ながら写真でわかるようにリプロデューサーとホーンが欠如してます。1895年製でエジソンが蓄音機を発明して18年後の製品です。(以前にも述べましたが、電球及び発電システムの開発で10年程蓄音機開発の空白期間があります。)すでに3モデル程製品化した後のモデルで、エジソンとしては初めてゼンマイを使用したモデルです。トライトンと呼ばれる3重のゼンマイがつけられ、2分ロウ管レコード用です。価格は、40ドル。このデザインは後の“コンサート”型の初期タイプにも使用されています。
情報所有館 : 福井県立こども歴史文化館
トライアンフ型の機構を簡略化して家庭用として売り出したモデルです。動力源はゼンマイがシングルで、2分ロウ管レコード用です。この“ホーム”シリーズの最終モデルは、Fタイプです。特長はオークのシグネットホーンが付けられたことと、4分ロウ管レコード専用になったことであります。ホーンが本体外部に有るタイプでは、最終の部類です。
情報所有館 : 福井県立こども歴史文化館
ボディの色が赤になり、朝顔型のホーンが今までの製品より大きめの物が取り付けられました。2分、4分レコード共用で、レッドジェムの愛称で親しまれました。1912年まで製造されました。
情報所有館 : 福井県立こども歴史文化館
ロウ管蓄音機が発売されると、少しでも良い音で再生できないか考えられました。ロウ管の外径を大きくし(5インチ、127ミリ)、回転速度がスタンダード品と同じであれば、単位時間当たりの針先走行距離が多くなり、音が良くなる原理に基いています。(後のアナログステレオレコードで、33回転から45回転にしてハイグレードレコードを作製したのと考えは同じです。)このモデルは、1899年から1901年まで製造されましたが、その間にキャビネットが3回も変わっています。エジソン唯一の5インチ円筒レコード用でありますが、標準円筒レコードも使用出来る様になっています。
情報所有館 : 福井県立こども歴史文化館
シリンダー型後期の高級モデルで1911年まで製造されました。ケースはマホガニーでユニット部は模様入りの塗装がほどこされています。ホーンは合板のシグネットホーンが取り付けられています。2分、4分レコード両用です。このモデルの後継モデルで、最後の外部ホーン付となった傑作機は“オペラ”という名称のモデルです。オペラ以後のモデルはすべてホーン内蔵型となりました。
情報所有館 : 福井県立こども歴史文化館
エジソンの蓄音機も新型が出るに従い、デラックスなモデルと変化していったが、シリンダータイプの末期に近いこのモデルも合板シグネットホーン、新型大型リプロデューサー、3重のゼンマイ、2分、4分レコード両用と多彩な機能を持っています。しかし、市場の大勢は円盤レコードに移行しており、1913年にはエジソンもついにロウ管型蓄音機の生産をすべて中止することになりました。(エジソン・トライアンフAも所有しています)
情報所有館 : 福井県立こども歴史文化館
セルロイド製のブルーアンベロールレコード(4分再生)を演奏するための普及型プレーヤーとして発売されました。このB型は、改良型ゼンマイを使用し、2分、4分レコード両用になっています。2分、4分の切替えはプレーヤー左側のボタンを押したり、引いたりすることにより行ないます。黒ワンス塗装をした朝顔型シグネットホーン付きで1913年まで製造されました。
情報所有館 : 福井県立こども歴史文化館