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秋田県立農業科学館曲屋(まがりや)旧伊藤家住宅

この曲屋は、秋田県仙北市田沢湖(旧仙北郡田沢湖町)の山間部に建てられていたもので、所有者であった伊藤家が明治33年~36年(1900年~1903年)頃の4年間に2期に分けて建てたと伝えられています。その後平成元年~2年に秋田県立農業科学館建設に伴い移築され、当初の姿に復元されたものです。平成3年当館開館と共に見学が開始され、平成12年2月に国の登録有形文化財(第05-0056号)に指定されました。同県内の曲屋形式の住宅としてこの建築は一般的な規模の農家建築の形式と考えられ、馬屋側の入隅に入り口を設けて全面の細い土間部分を省略しています。また、正面の縁側には半蔀(はじとみ)が用いられています。

情報所有館 : 秋田県立農業科学館 


たつこ姫(バラ品種名)

2002年から当館で試験栽培中の四季咲き大輪系の品種です。秋田県を代表する湖「田沢湖」の龍神伝説にまつわる美しい娘「たつこ姫」の名前が付けられました。当館の名誉館長を務めた糸井健二氏が新品種として作出したものです。

情報所有館 : 秋田県立農業科学館 


鉄錆地雑賀鉢兜(かなさびじさいかばちかぶと)

紀州雑賀荘宇治(現和歌山市宇治)に居住していた雑賀吉久が製作した兜。兜正面には眉形の切鉄を付し、上部には角状の鋲を打つ。独特な形を呈し、「雑賀鉢」と呼ばれている。重要美術品。和歌山市指定文化財。時代:安土桃山~江戸時代

情報所有館 : 和歌山市立博物館 


火縄銃

10匁クラスの軍用火縄銃で、紀州の鉄砲鍛冶早川甚之助正元が製作した。早川家の歴史は古く、紀州徳川家初代の頼宜在世時から鉄砲鍛冶を勤めてきたといわれている。時代:江戸時代後期

情報所有館 : 和歌山市立博物館 


石炭山由来(いしずみやまゆらい)

三池石炭が室町時代中期に発見されたことを著した古文書です。安政6(1859)年6月、11代藩主立花種恭(たねゆき)の求めに応じて提出されたもので、石炭問屋、橋本屋富五郎の手元にあった控え文書が地元に保蔵されていました。ここには、文明元(1469)年、三池郡稲荷村の農夫伝治左衛門と申す夫婦が稲荷山の頂において焚火をしたら、かたい岩角がとろとろと燃え出したので持ち帰り、天運が開けたことをよろこんだことが記されています。これが三池における「燃える石」の発見と伝えられており、日本の炭田の発見の記録としては、最も古いとされています。

情報所有館 : 大牟田市石炭産業科学館 


焚石山鎮守社稲荷石祠(たきいしやまちんじゅしゃいなりせきし)

三池石炭の発見は、1459年に遡りますが、自由採炭の時代を経て、江戸中期には柳川藩と三池藩が組織的に石炭採掘を行うようになります。この石祠は三池藩11代藩主・立花種恭(たねゆき)により万延2(1861)年に再建されたもので、創祀は三池藩営の石炭採掘が開始された寛政初期頃であろうと思われます。燃える石を焚石と称したことは古文書にも見え、石炭のでる山を焚石山と呼び、ここに産業の神である稲荷を祀って鎮守としたものであろうと思われます。正方形の台座の上に本祠堂があり、堂の幅60cm、高さ68cm、深さ45cm、石材は凝灰岩。

情報所有館 : 大牟田市石炭産業科学館 


ロードヘッダー

先端部分(切削部)を回転させ、上下左右に動かしながら石炭層だけでなく、岩石層の中もトンネル状に掘り進む機械です。掘った石炭や岩石は掻き寄せ部で集め、後方の運搬設備に積み込みます。炭鉱だけでなく、道路や鉄道のトンネル掘進でも利用されています。展示機械は、昭和40年頃に石炭専用として試験的に導入されたものです。その後昭和43年に初号機が開発され、三池では閉山時(平成9年3月)まで活躍しました。切削部、掻き寄せ部、一次コンベア(チェーンコンベア)、二次コンベア(ベルトコンベア)、運転席、走行部で構成されています。 三井三池製作所製 MRH S45型 重量:約16.5t 平均切削能力:1tから2t/分

情報所有館 : 大牟田市石炭産業科学館 


ドラムカッター

ドラムカッターは、切羽で活躍する採炭の主役で、左右2個のドラムで石炭層を一度に切削する大型採炭機です。螺旋状のドラムが回転し石炭層にくい込んで、左右に動きながら切削します。切削した石炭は払コンベアに落とされ、払いコンベアが横に動きながら積み込んだ石炭を運び出します。展示機械は、昭和50年頃に導入されたものです。その後改良を繰り返し、昭和63年に導入された最新機種MHPは一日に1万tの石炭を掘り出すことが可能でした。三井三池製作所製 ダブルレンジングドラムカッター MCLE270-DR8292型 重量:21t 平均切削能力:約11t/分 ドラム径:1.5m

情報所有館 : 大牟田市石炭産業科学館 


自走枠(じそうわく)

ドラムカッター、払コンベアとともに、三池炭鉱の採炭切羽で使用された当時の最新採炭システムを構成する機械のひとつです。鋼鉄製の自走枠は、切羽に向かって約100台並べられ、水圧によって切羽の天井を支えるだけでなく、払いコンベアとその上にあるドラムカッターを炭壁側に押しつける働きをします。ドラムカッターの移動に応じて1台ずつ前進します。展示機械は昭和56年に導入されたもので、その後改良が繰り返され、昭和63年に採炭システムの最新機種MHPが導入されました。三井三池製作所製 MKSP-FSC40型 MIシールド枠 自走枠 最高高さ:3.5m 最低高さ:1.65m 重量:約15t/台

情報所有館 : 大牟田市石炭産業科学館 


シンボルツリー「二十世紀梨の巨木」

鳥取二十世紀梨記念館のシンボル「二十世紀梨の巨木」である。巨木の直径は20メートルもあり天井を覆うように広がっており、国内最大の二十世紀梨の木といえる。地下5メートルまで伸びた根も一緒に展示しており、一階床面から枝までの高さは6メートルになる。1999年当時、この巨木は樹齢74年でありながら4千個の見事な果実をならせており、通常の木(800個程度)の約5倍の個数を誇っていた。整然と配置された枝やまんべんなく付いた花芽や土つくりによって張り出した多くの根など、まさに鳥取県の梨づくり100年の技術が注ぎ込まれたモデル樹といっても過言ではない。(移植年:1925年頃)

情報所有館 : 鳥取二十世紀梨記念館 


塗油機(とゆき)

新聞紙で作った、果実を病気や虫の被害から防ぐための防護袋を強化するために、胡麻油(えごまあぶら)、桐油(とうゆ)、亜麻仁油(あまにゆ)、菜種油(なたねあぶら)などに石油をまぜたものをこの機械で防護袋に塗布した。(製作年:昭和30年代前半頃)

情報所有館 : 鳥取二十世紀梨記念館 


宮古上布 苧麻紺地経緯絣平織着尺(チョマコンジタテヨコガスリヒラオリキジャク)1

宮古上布は経糸、緯糸ともに手績みの苧麻糸のみで織られている麻織物で、夏用着尺として最高のものとされている。原料となる苧麻から糸を作り、布として仕上がるまでの全行程を手作業で分業して行う。1978(昭和53)に国の重要無形文化財に指定されている。本資料の柄は大柄でヨミ数は15ヨミ。制作者は下地恵康で昭和60年代に作られた「夢の架け橋」と呼ばれる作品である。ヨミ数とは、織機の道具である筬(おさ)の密度をあらわす用語。筬はくし状になっており、その隙間(羽)に2本ずつ経糸を通す。筬目40羽で1ヨミとなるので、15ヨミの場合、15ヨミ×40羽×2本=1200本の経糸が使用されていることになる。

情報所有館 : 宮古島市総合博物館 


宮古上布 苧麻紺地経緯絣平織着尺2

宮古上布は経糸、緯糸ともに手績みの苧麻糸のみで織られている麻織物で、夏用着尺として最高のものとされている。原料となる苧麻から糸を作り、布として仕上がるまでの全行程を手作業で分業して行う。1978(昭和53)に国の重要無形文化財に指定されている。本資料の柄は亀甲柄でヨミ数は16ヨミ。制作者は友利玄純で昭和60年前後に作られた。

情報所有館 : 宮古島市総合博物館 


宮古上布 苧麻紺地経緯絣平織着尺3

宮古上布は経糸、緯糸ともに手績みの苧麻糸のみで織られている麻織物で、夏用着尺として最高のものとされている。原料となる苧麻から糸を作り、布として仕上がるまでの全行程を手作業で分業して行う。1978(昭和53)に国の重要無形文化財に指定されている。本資料の柄は十文字柄でヨミ数は16ヨミ。制作者は池間方俊で制作年代は不明である。

情報所有館 : 宮古島市総合博物館 


宮古上布 苧麻紺地経緯絣平織着尺4

宮古上布は経糸、緯糸ともに手績みの苧麻糸のみで織られている麻織物で、夏用着尺として最高のものとされている。原料となる苧麻から糸を作り、布として仕上がるまでの全行程を手作業で分業して行う。1978(昭和53)に国の重要無形文化財に指定されている。本資料の柄はプトゥキ(仏)柄でヨミ数は15ヨミ。制作者は平良寛正で制作年代は不明である。

情報所有館 : 宮古島市総合博物館 


宮古上布 苧麻紺地経緯絣平織着尺5

宮古上布は経糸、緯糸ともに手績みの苧麻糸のみで織られている麻織物で、夏用着尺として最高のものとされている。原料となる苧麻から糸を作り、布として仕上がるまでの全行程を手作業で分業して行う。1978(昭和53)に国の重要無形文化財に指定されている。本資料の柄はクピン柄でヨミ数は15ヨミ。制作者は池間方俊で制作年代は不明である。

情報所有館 : 宮古島市総合博物館 


宮古上布 苧麻紺地経緯絣平織着尺6

宮古上布は経糸、緯糸ともに手績みの苧麻糸のみで織られている麻織物で、夏用着尺として最高のものとされている。原料となる苧麻から糸を作り、布として仕上がるまでの全行程を手作業で分業して行う。1978(昭和53)に国の重要無形文化財に指定されている。本資料の柄は大柄でヨミ数は15ヨミ。制作者は下地恵康で制作年代は不明である。

情報所有館 : 宮古島市総合博物館 


東北電力旧大川発電所水車

昭和3年(1928年)5月に運用が開始された会津若松市大戸町の東北電力旧大川発電所で用いられていたフランシス水車。最大出力4750キロワットを誇った縦軸単輪単流渦巻フランシス水車は、昭和2年(1927年)に電業社原動機製造所で製造されたものであり、大川ダム建設に伴って廃止される昭和60年(1985年)1月まで発電機を回し続けた。

情報所有館 : 福島県立博物館 


庭坂第一発電所門標

明治28年(1895年)に福島電燈株式会社(現東北電力株式会社)が建設した福島県最初の水力発電所(宮城県仙台市の三居沢発電所に次いで東北で2番目)。最大出力100キロワット。年代:昭和戦後

情報所有館 : 福島県立博物館 


田子倉発電所碍子

38万キロワットの田子倉発電所内にある断路機で使用されていた碍子。年代:1960年代

情報所有館 : 福島県立博物館 


ビラム型普通測風器

常磐炭鉱で使用された風速計。坑内にガスがたまるのを未然に防ぐため、空気の流れと風の強さを確認するために使用された。年代:昭和初期以降

情報所有館 : 福島県立博物館 


安積疏水志

安積開拓事業の業績を後世に伝えるため、明治38年(1905年)に安積疏水事務所から刊行されたもので、天・地・人の3冊からなり、政府及び地元に残された資料を用いながら編年体でまとめられている。編者の農政家織田完之は、若松県の権少属などを務めた。

情報所有館 : 福島県立博物館 


大橋式織機

明治39年(1906年)、大橋哲弥により発明された羽二重用の織機。川俣町の工場で使用され、12デニールの細い生糸で織られた川俣軽目羽二重の生産が飛躍的に増大した。

情報所有館 : 福島県立博物館 


繭かけ合わせ標本1

明治になると、ヨーロッパや中国を原産とする蚕種が入るようになり、これらと日本種を交配し、より品質のよい蚕品種を作り出す試みが行われるようになった。明治38年には外山亀太郎が蚕における雑種強勢(交雑第一世代が親より優れた性質を持つ現象)を発見、政府は原蚕種製造所(後の蚕業試験場)を設立し、この研究を推進した。こうした一代限りの交雑種の利用は大正に入ると急速に普及し、蚕品種の生産性も格段の進歩をみることとなり、様々な奨励品種も誕生した。資料は日502号・支125号それぞれと、それを掛け合わせたものの標本。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


繭かけ合わせ標本2

明治になると、ヨーロッパや中国を原産とする蚕種が入るようになり、これらと日本種を交配し、より品質のよい蚕品種を作り出す試みが行われるようになった。明治38年には外山亀太郎が蚕における雑種強勢(交雑第一世代が親より優れた性質を持つ現象)を発見、政府は原蚕種製造所(後の蚕業試験場)を設立し、この研究を推進した。こうした一代限りの交雑種の利用は大正に入ると急速に普及し、蚕品種の生産性も格段の進歩をみることとなり、様々な奨励品種も誕生した。資料は日122号・支122号それぞれと、それを掛け合わせたものの標本。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


繭かけ合わせ標本3

明治になると、ヨーロッパや中国を原産とする蚕種が入るようになり、これらと日本種を交配し、より品質のよい蚕品種を作り出す試みが行われるようになった。明治38年には外山亀太郎が蚕における雑種強勢(交雑第一世代が親より優れた性質を持つ現象)を発見、政府は原蚕種製造所(後の蚕業試験場)を設立し、この研究を推進した。こうした一代限りの交雑種の利用は大正に入ると急速に普及し、蚕品種の生産性も格段の進歩をみることとなり、様々な奨励品種も誕生した。資料は日124号・支122号それぞれと、それを掛け合わせたものの標本。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


繭かけ合わせ標本4

明治になると、ヨーロッパや中国を原産とする蚕種が入るようになり、これらと日本種を交配し、より品質のよい蚕品種を作り出す試みが行われるようになった。明治38年には外山亀太郎が蚕における雑種強勢(交雑第一世代が親より優れた性質を持つ現象)を発見、政府は原蚕種製造所(後の蚕業試験場)を設立し、この研究を推進した。こうした一代限りの交雑種の利用は大正に入ると急速に普及し、蚕品種の生産性も格段の進歩をみることとなり、様々な奨励品種も誕生した。資料は日501号・支502号それぞれと、それを掛け合わせたものの標本。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


繭かけ合わせ標本5

明治になると、ヨーロッパや中国を原産とする蚕種が入るようになり、これらと日本種を交配し、より品質のよい蚕品種を作り出す試みが行われるようになった。明治38年には外山亀太郎が蚕における雑種強勢(交雑第一世代が親より優れた性質を持つ現象)を発見、政府は原蚕種製造所(後の蚕業試験場)を設立し、この研究を推進した。こうした一代限りの交雑種の利用は大正に入ると急速に普及し、蚕品種の生産性も格段の進歩をみることとなり、様々な奨励品種も誕生した。資料は日127号・支127号それぞれと、それを掛け合わせたものの標本。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


天蚕の種とり籠

「天蚕」とは、日本在来の代表的な野蚕であるヤママユガのこと。ほぼ全国の野山でみられるが、一部地域では飼育もされてきた。当該資料は天蚕の交尾・産卵籠。籠の中に雌雄の蛾を入れ、紙で蓋をする。紙面を下にして、直射日光および夜間にも強い光線のあたらない静かな風通しの良い場所につるして交尾・産卵させる。雌蛾は産卵する際に籠の網目から尾部を突き出し、籠の外側に最高250粒程度の卵を産みつける。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


桑かけザル

「桑かけ」とは、蚕に対してその成長に合わせて桑葉を与えること。その際に桑葉を運搬するために用いられたザル。新鮮な桑葉を供給しなければならないため、桑葉の収穫はほぼ毎日行われた。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


桑つみ籠

蚕に与える桑葉を摘み取る際に使う籠。一般に、比較的小型な籠で腰につけるようなものが多い。当該資料は背負って使用したものと考えられる。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


桑籠1

蚕に与える桑葉を運ぶための籠で、比較的大型のものをさすことが多い。貯桑籠ともいい、小型の桑つみ籠が積みいれた桑葉でいっぱいになると、これに移して運んだ。当該資料のように背負い縄をつけて背負うものと、天秤棒に下げて運ぶものがある。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


桑入れザル

蚕に与える桑葉を摘み取る際に使う籠。一般に、比較的小型な籠で腰につけるようなものが多い。当該資料のように、これを籠といわず、ザルと呼ぶ地域もある。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


桑籠2

蚕に与える桑葉を運ぶための籠で、比較的大型のものをさすことが多い。貯桑籠ともいい、小型の桑つみ籠が積みいれた桑葉でいっぱいになると、これに移して運んだ。当該資料のように背負い縄をつけて背負うものと、天秤棒に下げて運ぶものがある。当該資料のように長方形のものもまれにあり、これは農業用の小型自動車などで運ぶために用いられたと考えられる。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


箱蚕座

「蚕座」とは蚕を飼育する場所のこと。「蚕箔」とよばれる飼育用のカゴや箱に筵や紙を敷いたものを指す。明治以降は竹製のものが多くなったが、地域によってはケヤキやサワグルミの皮で作ったもの、木製や藁製のものも使われてきた。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


糸網

蚕に桑を与えるとき、蚕の糞や食べカスを取り除くのに使用する蚕網の一種。蚕籠の上に載せ、その上に桑を載せると、蚕が網の上に出て葉を食べる。そのまま網ごと別の蚕籠に移し、それまでの蚕籠に溜まった糞や食べカスを捨てるといった形で使用される。蚕が小さいうちは、木綿糸や麻糸で編み、柿渋で染めた糸網が使われる。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


藁網

蚕に桑を与えるとき、蚕の糞や食べカスを取り除くのに使用する。蚕籠の上に載せ、その上に桑を載せると、蚕が網の上に出て葉を食べる。そのまま網ごと別の蚕籠に移し、それまでの蚕籠に溜まった糞や食べカスを捨てるといった形で使用される。蚕が小さいうちは、木綿糸や麻糸で編み、柿渋で染めた糸網が使われる。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


ワラダ

蚕を飼育するための飼育かごのこと。藁製だったり、竹カゴに筵を敷いたものであったりする。福島県内では円形、群馬などの北関東では四角形のものが多い。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


柴まぶし

まぶし(蔟)とは、成長して熟蚕となった蚕が繭をつくるための巣のようなもの。古くは、山間部などでは木の枝(粗朶)が使われた。これもそうしたまぶしの一種。しかし、次第に藁が主力となっていくことで、姿を消していった。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


ムカデまぶし

まぶし(蔟)とは、成長して熟蚕となった蚕が繭をつくるための巣のようなもの。藁縄に15cmほどの藁を挟み込んで作ったまぶしで、その姿がムカデにみえることからこの名がついた。かさばり、保管上に難点があることから、次第に使われなくなったという。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


折藁まぶし

まぶし(蔟)とは、成長して熟蚕となった蚕が繭をつくるための巣のようなもの。古くは木の枝を用いた粗朶まぶしが中心だったが、次第に藁製のまぶしがとってかわった。折藁まぶしは、藁を手折りまとめた簡単な作りのもの。後には、まぶし折機の登場によって、量産も可能になった。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


生糸標本

生糸は蚕の繭から取ったままで、撚ったり精錬していない糸のこと。製糸は釜などで繭を煮ながら枠に巻き取る手挽き法で行われたが、江戸時代後期には座繰機があらわれ、機械製糸の生産高が増えてく。これにより、製糸業は家内工業から工場生産へと移って行った。生糸は一捻り約70gに作ったものを1綛(かせ)とし、30綛を1括とした。内地向けには約18括を1梱(こり)、輸出向けには約29括を1俵として梱包した。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


繭標本1

明治になると、ヨーロッパや中国を原産とする蚕種が入るようになり、これらと日本種を交配し、より品質のよい蚕品種を作り出す試みが行われるようになった。明治38年には外山亀太郎が蚕における雑種強勢(交雑第一世代が親より優れた性質を持つ現象)を発見、政府は原蚕種製造所(後の蚕業試験場)を設立し、この研究を推進した。こうした一代限りの交雑種の利用は大正に入ると急速に普及し、蚕品種の生産性も格段の進歩をみることとなり、様々な奨励品種も誕生した。製作年代:昭和4年

情報所有館 : 福島県立博物館 


今昔繭標本

明治になると、ヨーロッパや中国を原産とする蚕種が入るようになり、これらと日本種を交配し、より品質のよい蚕品種を作り出す試みが行われるようになった。明治38年には外山亀太郎が蚕における雑種強勢(交雑第一世代が親より優れた性質を持つ現象)を発見、政府は原蚕種製造所(後の蚕業試験場)を設立し、この研究を推進した。こうした一代限りの交雑種の利用は大正に入ると急速に普及し、蚕品種の生産性も格段の進歩をみることとなり、様々な奨励品種も誕生した。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


生糸見本

生糸は蚕の繭から取ったままで、撚ったり精錬していない糸のこと。製糸は釜などで繭を煮ながら枠に巻き取る手挽き法で行われたが、江戸時代後期には座繰機があらわれ、機械製糸の生産高が増えてく。これにより、製糸業は家内工業から工場生産へと移って行った。生糸は一捻り約70gに作ったものを1綛(かせ)とし、30綛を1括とした。内地向けには約18括を1梱(こり)、輸出向けには約29括を1俵として梱包した。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


繭かけ合わせ標本6

明治になると、ヨーロッパや中国を原産とする蚕種が入るようになり、これらと日本種を交配し、より品質のよい蚕品種を作り出す試みが行われるようになった。明治38年には外山亀太郎が蚕における雑種強勢(交雑第一世代が親より優れた性質を持つ現象)を発見、政府は原蚕種製造所(後の蚕業試験場)を設立し、この研究を推進した。こうした一代限りの交雑種の利用は大正に入ると急速に普及し、蚕品種の生産性も格段の進歩をみることとなり、様々な奨励品種も誕生した。資料は日1号・支4号、欧7号・支7号、日128号・支1128号それぞれを掛け合わせたものの標本。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


検尺器

生糸の繊度(太さ)を測定するための道具。生糸は直径を計るのが困難なため、一定の長さに対する重さで、太さを表した。レバーを回すことで糸を巻き取り、その重さを計ることでデニール算出した(長さ450mの糸が0.05gあるものが1デニールと定められている)。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


蚕当計見本

蚕を飼育する蚕室の温度管理に使われた道具。現在の福島県伊達市の養蚕農家、中村善右衛門が体温計に着想を得て嘉永2年(1894)に考案したとされる。従来は農家の勘に頼ってきた温度管理を改め、科学的な養蚕を可能にした。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


種繭雌雄選別機

繭の中で蛹になった蚕の、雌雄を鑑別するための道具。雌の方が若干重いため、振り落とされずに残る仕組みになっている。従来は熟練者がわずかな外見的差から雌雄を判別していたのに対し、重さという客観的な数字を用いて誰でもが行えるようになった。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


桑切り機

蚕に与える桑葉を刻む機械。従来は桑切包丁とよばれる包丁を用いていたが、養蚕規模の拡大とともに、より多くの桑が刻めるように大正の頃から普及していったとされる。包丁部分を上下させるとそれに連動してベルトが回転し、前に運ばれてきた桑を刻むことができる。製作年代:不明

情報所有館 : 福島県立博物館 


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