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金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。製造者はイギリス・ロンドンのWilliam B Irish。 販売者はイギリス・グリーノックのRobert Park。内箱17.7×17.7×高さ18.6㎝、外箱24.2×32.5×高さ24.2㎝。 本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。
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金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。互いに垂直な3個の回転軸とそれぞれに対して対称な金属環からできている。中央にあるコマは垂直及び水平軸に対し自由に回転することができる。外側の金属環の外径11.13㎝、全体の高さ31.1㎝。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。
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HP-35 は、ヒューレット・パッカード(HP)初のポケット電卓であり、世界初の科学技術計算用ポケット電卓(関数計算ができる電卓)。1972年から75年まで発売し、30万台を売った。この登場により計算尺が急速に廃れた。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1972(昭和47)年。取得価格150,000円。
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SONYの電卓は1967年にSOBAXの名前で市場に投入された。SOBAXはSOLID STATE ABACUS (固体回路のそろばん)の略。ICC-200は1971年9月に153,000円で新発売された。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1971(昭和46)年。取得価格140,000円。
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PC-1001は1973年に発売された関数計算用電卓。当時は「電子計算尺」と称した。15種の関数がワンタッチキーで求められることを売りにしていた。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1973(昭和48)年。取得価格119,000円。
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タイガー計算機は1923(大正12)年に大本寅治郎によって開発された手回し式計算機。「寅印計算機」の名前で発売して人気を博し、他社の手回し計算機も「タイガー計算機」と呼ばれた。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1954(昭和29)年。製造番号117676。取得価格35,000円。
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横河Hewlett-Packard 社は日本の横河電気とアメリカのHewlett-Packard 社が出資して1963年に作った合弁会社。現在の日本ヒューレット・パッカード社の前身。9100AはアメリカのHewlett-Packard 社が開発したプログラマブル電卓。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1970(昭和45)年。取得価格1,694,000円
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キャノンAX-1は1978(昭和53)年に発売された、使いやすさを重視した電子式卓上型プログラム式計算機。大型サーマルプリンターとミニフロッピーディスク(65.5キロバイト)を内蔵。内部記憶容量最大8キロバイト。金沢大学附属病院旧蔵。取得年次1979(昭和54)年。
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函館において採氷を本格的に行ったのは中川嘉兵衛です。横浜などの氷の需要地ではボストンの氷を購入していましたが、たいへん高価なものでした。いくどかの失敗の後、中川は明治4(1871)年から五稜郭の堀での採氷事業を軌道に乗せはじめます。この氷切鋸は氷を切る際に使用しました。鉄製の歯に木製の柄が付いています。明治~昭和初期に製作され使用されました。
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明治10年には勧業博覧会で龍紋褒章を受賞し、「龍紋氷」というブランド名で氷を販売しました。中川の製氷業を支えたのがかつてはきれいであった五稜郭の堀の水でした。この氷鋏は切り出した氷をつかんで持ち上げる際に使用しました。鉄製で持ち手部分に布がまかれています。明治~昭和初期に製作され使用されました。
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明治4年の夏に五稜郭産の氷が京浜市場に登場しはじめました。この年の移出量は670トンで翌5年には1061トンと産出量もほぼ倍増しています。イギリス、アメリカの外国商船で横浜に輸送されていました。この氷背負は切り出した氷を運ぶ際に使いました。木製の枠にわらで編んだ背負い紐が付けられ、背中にあたる部分にはわらで編んだあてものがついています。明治~昭和初期に製作され使用されました。
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五稜郭の堀で行われていた採氷事業は、函館の冬の大きな産業でした。この錦絵は日本全国の産物をとる様子などがシリーズで描かれたものです。この図は明治5年発行となります。
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明治3-4(1870-71)年頃の上野撮影局における上野家の家族写真。前列は右から母の「伊曾」、妹牧ちえの息子「元次郎」、姉の「にわ」、ちえの娘「なか」、後列は右から妹の「ちえ」、妻の「むら」、「彦馬」、妹の「ぬさ」、妹の「この」である。この写真は開業から8、9年がたち、撮影局も軌道に乗りだした円熟期のものである。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ22.0×28.7cm)
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最後の大村藩主で文久3(1863)年には長崎総奉行を勤めた純熙(すみひろ)とその家族の写真。明治6(1873)年頃の撮影と思われる。場所は長崎の大村屋敷(現・中町教会)の玄関。見る人の目が写真中央に集まるように人物を三角形に配置し、二人の娘の着物の袖を後ろに流し、それぞれの目線を指示するなど、写真師・上野彦馬の技量が発揮されている。(上野彦馬撮影明治初期 印画紙サイズ21.6×28.4cm)
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上野撮影局で撮られた長崎に住む庶民の写真。彦馬の家があった中島近辺の住人であろうか。彼らがいろいろな方向を見ているのは、彦馬が一人ひとり視線を指示しているからである。8人の若い女性はみんな丸髷(まるまげ)で、うち5人が袖に手を隠している。写真を撮られると手から魂が吸い取られるという迷信があったからである。露光時間が長かった時代、写真師は笑って顔が動くのを嫌った。右側の女性のように、自然でぶれていない笑顔がとられた写真は珍しい。(上野彦馬撮 明治初期 印画紙サイズ22.6×28.2cm)
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ドンの山(山の名称)へ登る坂道の途中から小島養生所越しに、長崎市中心市街地東側及び片渕方面を見た鳥瞰写真である。左下の窪地の人家は唐人屋敷の内部。一際大きな屋根は福建会館。火災の跡が見られるので、明治3(1870)年に、ここが全焼した後のものである。その右の小高い丘の上の建物群が小島養生所の建物である。創建時と比べると、建物が増え施設が拡大したことが分かる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.4×27.6cm)
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大浦居留地背後のドンの山の中腹から大浦川沿いを展望する。大浦川の河口に見えるのは明治2(1869)年に居留地の「馬の遊歩道」のため架けられた下り松橋で、その川上の橋は大浦居留地が埋め立てられた文久年間に架けられた弁天橋である。左丘の妙行寺の横に見えるコの字形の建物はベルビューホテル。海には船団が写されている。対岸には工部省所管「長崎造船局」が見える。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.4cm)
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対岸の工部省所管「長崎造船局」の右上の丘に明治7(1874)年4月に完成したお雇い外国人宿舎が見えるので、それ以後の撮影。大浦川左岸の川幅が狭まる地点の建物をはじめ、随所に台風の傷跡が見られる。明治7(1874)年10月頃、海外に持ち出された別のアルバムに、大浦川左岸の川幅が狭まる地点の建物がすでに撤去されて新しい建物が建築中の写真があるので、同年8月20日の巨大台風直後の写真であると推定される。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.8cm)
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大浦川の中流域には、古くからの藁葺(わらぶ)きの農家に加えて、おそらくは居留地関連の仕事に従事する瓦葺きの民家が早くから密集していたようである。一番手前の家に大量の洗濯物が干されているのもその例であろう。現在の大浦東町から川上町にかけてである。しかし上流部はまだ棚田や段々畑のままであった。川上町の大浦国際墓地付近から撮影されている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.4cm)
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出島の西端から江戸町、大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期。極めて鮮明な写真である。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18(1885)年から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.4cm)
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明治元(1868)年に再築された東山手12番館。文久元(1861)年からアメリカのウォルシュ商会が入居し、慶応元(1865)年までアメリカ領事館。再築前年の慶応3(1867)年までは、社員が領事となり、プロシア領事館であったが、明治初年にはロシア領事館になっていた。翻っている旗がいずれのものかは判明しないが、建物の新しさからすれば竣工直後の撮影であろう。この12番館は木造ながら、幅広いヴェランダが3面に付き、領事館らしい堂々とした外観である。外壁の下見板張りはわが国最古の例。背後の丘には何も建っておらず、十人町の民家の屋根が覗く。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.4cm)
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明治6(1873)年頃の撮影。大浦川口から上流の川上町外国人墓地を望む。右手左岸は右端の洋館が下り松40番の雑貨商のレーキ商会。その横の入母屋造りは洋館で37番旧エキスプレスの後部で、その横の二階建て2棟は36番のホテルとロンドン居酒屋。川幅が狭まる場所の、白壁の家が35番のニュー・クラブハウス(ボウリング・玉突き場)である。左側右岸は手前から大浦14、15番(空き地)で、道を挟んで大浦29-31番と続く。この一帯はグラバー商会かオルト商会の貸地として又貸しされていた。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×26.2cm)
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明治3(1870)年に創架された初代の松ケ枝橋(当時は下り松橋と呼んだ)は、画面で鮮明に見えるように中央に石積みの橋台を置き、そこから3本の束を立てて支える木製の桁橋であった。よく見ると欄干には地覆(土台)がなく、手すりごと所々に止め金を巻いて桁に固定していたことが分かる。橋の背後のアーチ型ヴェランダ装飾がある洋館は大浦11番Aの三角地に、隣の大きな寄棟屋根の洋館は同11番地に建っていた。後者の前面には屋上をテラスとした平屋部分が延びている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×27.8cm)
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桃渓橋は堂門川に、延宝7(1679)年、永島仁左衛門こと僧ト意(ぼくい)が架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。この写真は大井手橋の上から中島川二股を撮影したものである。右側人家後ろの樹木は、伊勢宮神社の楠の大木である。堂門川と銭屋川(中島川)の合流点角の岸には川へ下りる階段が設けられている。写真左側には、手前から白壁の蔵、唐船海上安全祈願灯、松の大木、不動明王堂等が見え、江戸時代の名残をとどめている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.6cm)
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左側白い塀のところが伊勢宮神社、後ろに武功山の稜線、川には高麗橋、その奥に阿弥陀橋、右側は八幡町である。堂門川と合流する直前の銭屋川(中島川)の風景である。出来大工町の不動明王堂のところからの撮影で、高麗橋の袂の伊勢町側に明治4(1871)年に建設された街灯が見えないことから、明治初年頃のものと思われる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.8cm)
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明治6(1873)年頃、長崎伊勢町37番地にあった伊勢宮神宮を正面から撮影している。石橋は中島川に架かる高麗橋である。この神社はキリシタン時代に荒れていたが、寛永16(1639)年に伊勢宮として再興された。諏訪、松の森とともに長崎三社の一つ。明治元(1868)年1月に長崎奉行の江戸への脱出後、薩・長・土・肥の藩士の会議所政事となった。代わって長崎総督に就任した沢宣嘉の国道発揚により優遇される。右の街灯、門下の可動式椅子、髷の男性に維新直後の雰囲気が感じられる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.8×28.4cm)
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左岸に伊良林の水神社の森、川の下流に阿弥陀橋が見える銭屋川(中島川)の風景である。阿弥陀橋は、伊勢町-八幡町間の長さ13.4m、幅4.5mの唐風石橋である。元禄3(1690)年、貿易商人園山善爾の喜捨で架けられた。橋の袂に阿弥陀堂があるため阿弥陀橋、別名極楽橋とも呼ばれた。江戸時代、西坂で処刑される罪人が市中引回しの際に必ずこの阿弥陀橋を渡り、極楽浄土を願ったことに因んで極楽橋と呼んだと言われる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.8cm)
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左側の白い武家塀の家が上野彦馬邸(上野撮影局)、その手前大きな屋敷が東京の湯島・佐賀の多久と共に日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂である。その対岸の樹木が見える所が伊良林の水神社で、江戸時代に上水道として敷設された倉田水樋の水源に近い。上野彦馬邸には明治5(1872)年頃新築された2階建ての写場が見える。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×25.8cm)
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長坂を上がり総門をくぐった正面、安政4(1857)年の火災で焼失後、明治2(1869)年に再建された諏訪神社中門の風景である。右側に明治3(1870)年奉納の青銅の馬が見える。中門は別名四礎門とも言われた。木造檜皮葺、流破風造りの建物で、正面には菊花紋、屋根下には「正一位諏訪三所」の扁額が掲げられていたが、写真では見えない。中門の左右は透塀で、左右の回廊に続いている。前の広場は能馬場と呼ばれ、能舞台があったところである。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.8cm)
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諏訪神社の拝殿と祝詞殿が側面から撮影されている。拝殿は一般人の参拝所で、左右正面に上が口を開く。渡り廊下でつながる祝詞殿の内部は畳敷きである。諏訪神社は、寛永2(1625)年に現在の松森神社の地に再興され、慶安4(1651)年に現在の場所に遷宮した。秋の「くんち」で有名な長崎の氏神である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.6cm)
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深崇寺は、元和元(1615)年に創立されたという浄土真宗本願寺派の寺院である。右手の建物は山門の右側、庫裏に面して建つ鼓楼で、これの創建年代は不詳だが、写真に写るのは文化5(1808)年に再建されたというものであろう。他方、画面左手は単層、切り妻造の鐘楼である。この建物は、元禄の頃に創建され、寛政12(1800)年と安政6(1859)年、さらに下って大正6(1917)年に改築されたという。しかし現在は、鐘楼はずっと左へ移築され、鼓楼とのあいだには4区画の墓地が形成されている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.8×28.0cm)
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高島秋帆宅跡付近から清水寺を望んだもの。寛文8(1668)年に再建された清水寺本堂の右には、かっての鐘楼が見え、石門の右手には明治10(1877)年に隣の八坂神社から購入移築した現存の鐘楼がないので、撮影はそれ以前である。本堂の前には現在もある3基の石灯籠が見え、その下は聖天堂や庫裏に通じる中門で、その右側には長い石段が見え隠れしている。中央上が風頭山の頂で、現在ならば、そこにホテル矢太楼が望まれる。 (上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.8cm)
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筑後町にある本蓮寺とその墓地。撮影地点は現在の日本26聖人記念聖堂に近い墓地の外れに当たる。本蓮寺はもとサン・ラザロ病院やサン・ジョアン・バプチスタ教会があった場所で、それが破却された後、大村本経寺の僧日恵が元和6(1620)年に開創した日蓮宗の寺院である。中央上の重層入母屋造の建物が本堂で、その左下は位牌堂である。本堂への石段脇にみえる流造の建物は清正公堂(番神堂とも)の神殿である。本蓮寺は原爆で全壊したが、戦後、再建された。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.8×28.4cm)
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明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で竹の久保付近である。明治30(1897)年以降に埋立てられる前の、浦上川下流の風景。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×27.6cm)
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明治初期の撮影。長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江。右の崖の下の建物は、上陸するロシア人を管理するために、元治元(1864)年に建てられた勤番所。入り江に浮かぶ船に人物を3人配して、背後の純日本風な風景を背景にした演出写真である。岬の対岸は西坂の丘。明治20(1887)年代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.6cm)
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飽の浦の恵美須神社横の高台から、長崎港越しに、古河町、浪の平町、南山手を遠望した写真である。明治初期の撮影。右下の街灯のある桟橋は、長崎製鉄所のものである。その向こうに見えている建物が、製鉄所の建物である。対岸に目を移すと、写真左に外輪船が停泊している。その向こうの山腹が、南山手外国人居留地とその南限である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.4cm)
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飽の浦の恵美須神社。同じアングルで、明治5(1872)年、天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみると、この写真では、海側の鳥居の左にあった松がなくなっており、また、神社横の民家の屋根が剥がれている。岬の背後の丸尾海岸に明治6(1873)年頃に建設される海軍埋立地の建物はまだ見えない。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×28.0cm)
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稲佐山の麓にある悟真寺は、長崎郊外におけるキリシタン禁制後に復興された最初の仏教寺院として知られ、江戸時代を通じて中国人やオランダ人、幕末以降はロシア人らの墓所に当てられた。浄土宗の寺院だが、背後にそういう国際墓地があることで著名である。画面中央には、右に山門、左に本堂が写っている。山門はいわゆる竜宮門形式の重層門である。現在は、山門前の石段等も向きを変えて大幅に改造されている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ22.5×28.1cm)
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悟真寺は稲佐山の麓に位置し、慶長3(1598)年の創建という、長崎近郊では最初に再興された浄土宗の寺院である。裏山に広がるその墓地は、早くから長崎で客死した中国人やオランダ人の埋葬に当てられており、幕末以降には来航したロシア人なども加えられて、それぞれに区画された墓域をなす国際墓地を形成していた。画面左手の松林の向こうにロシア正教の礼拝堂があり、中央下に蓮池に架かる石橋が見えることからして、現在の「悟真寺国際墓地」入り口に当たる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.0×27.4cm)
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日本が開港する前の安政4(1857)年に、幕府は長崎港の西側、飽の浦地区で、オランダ人ハルデスの指導のもとに、大型船の建造を目的とした長崎製鉄所の建設を始め、文久2(1862)年に完成させた。この長崎製鉄所は、主に機械施設が中心の工場であった。二本の煙突のある鍛冶場はボイラー室で煉瓦造の建物である。その右の建物は、日本で最初に鉄製のトラスの小屋組を採用した轆轤(ろくろ)盤細工所で、多くの工作機械が据え付けられていた。明治4(1871)年に工部省所管「長崎造船局」と改称。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.4×26.9cm)
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撮影は明治6(1873)年頃。写されているのは野母崎の御崎円通山観音禅寺である。観音堂には、弘化3(1846)年、川原慶賀の描いた4枚の絵や石崎融思の作品を含む150枚の天井絵が、長崎町民などから寄進されている。写真に写されている半円アーチ型の第一石門は、寛政10(1798)年、長崎町民と御崎村の人々が寄進した。石工は彦兵衛。長崎から七里(約28キロ)と離れているが、彦馬は長崎の代表的古刹としてこれを撮影したようである。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ22.3×28.3cm)
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明治初期頃の樺島湊。湾奥の金比羅神社から脇岬方向の、湊内の船の輻輳する状況を撮影したもの。樺島湊は、江戸時代以前から長崎港に出入りする船の、風待ち、潮待ちの湊として繁栄してきた。明治時代になっても、遠くから多くの物資を運搬するための主要運搬手段は、沿岸を航行する船であった。湊内に停泊する廻船の数から、明治初頭の繁栄した樺島村の状況が分かる貴重な写真である。写真前方の島は、現在樺島大橋が架設されている中島、後方の山は左が遠見山、中央が殿隠山である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×28.0cm)
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富士フイルムが発売した初めてのカメラ。120フィルムを使用する6×6センチ判のスプリングカメラで、レンズは75ミリF4.5を装着。その後レンズをF3.5付としたフジカシックス1Bを発売し、シャッター速度を高速化した機種やフラッシュシンクロ端子を付加したフジカシックス1AS,フジカシックス1BSなどシリーズ化して発売された。年代1948年
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本体をダイカスト製にして丸味を帯びたデザインとし、連動距離計を装備した6×6センチ判のスプリングカメラ。スタートマークによるフィルム自動巻止め機構を採用したモデル。年代1955年
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120フイルムを使用する6×6センチ判の二眼レフカメラ。レンズ前板繰り出しと前玉回転を併用して最短70センチまでの接写が可能なほか、ひとつのノブで焦点調節とフィルム巻き上げを兼用している。また、シャッターボタンの位置が左右に変更できるなど、独創的機構を有して話題を呼んだ。レンズはフジナー83ミリF2.8を装着。年代1954年
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絞りを絵表示としたほか、シャッターチャージとレリーズの順番を数字で表示するなど扱い易さに徹し、児童や写真初心者向けの「芽生えカメラ」として計画された画面サイズ6×6センチ判のボックスカメラ。レンズフードは鏡胴部から引き出す方式を採用している。シャッター速度は開放(B)と1/50秒単速度を備える。年代1957年
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「フジペット」を基本に一枚羽根の絞りを使用した自動露出(AE)機構を付加したモデル。受光体にはセレン光電池を採用していた。レンズは固定焦点式の70ミリF11を装着し、シャッター速度は1/60秒単速度のみとなっている。年代1961年
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富士フイルム初めての35ミリカメラ。焦点調節機構に通常多く用いられるヘリコイドではなく直進スライド式シリンダーを採用してる。また、フィルム巻き戻しクランクをボディ側面に設けた独特の構造となっている。レンズは45ミリF2.8を装着。年代1957年
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「フジペット」の上位機種として企画された機種。シャッターセットとレリーズは「フジペット」と同様にレンズ左右の大型レバーで行う。レンズはフジナーK45ミリF3.5を装着。シャッター速度は開放(B)と1/25~1/200秒までの4速。黒、赤、緑と3色のボディカラーが用意されてた。年代1959年
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基本的にはシャッター速度優先式のAE機構であるが、撮影状況によっては自動的にシャッター速度が変化して適正露光となる複式プログラムシャッター「コパルマジック」を採用したモデル。レンズはフジノンR47ミリF2.8を装着。年代1962年
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