「」 に対する検索結果 : 26356

前の50件 (8801-8850/26356)    次の50件

指南車(模型)

車の中央の歯車装置で人形が一定の方向を向くように左右の車輪の回転差をなくしている。(株)長岡歯車製作所製である。長さ1.9m、幅0.96m、高さ1.9m、車輪直径0.96mである。

情報所有館 : 石川県金沢港大野からくり記念館 


記里鼓車(模型)

円周の分かっている車輪の回転数で進んだ距離を知る車。決められた距離ごとに太鼓が鳴る。(株)長岡歯車製作所製である。長さ1.8m、幅0.9m、高さ1.5m、車輪直径0.9mである。

情報所有館 : 石川県金沢港大野からくり記念館 


覗きからくり

この覗からくりは、直接小さな穴から中の絵を見るタイプである。当館にある絵の大きさは縦1m横1.8mほどであり、5枚の絵が節をつけた語りに合わせて入れ替わる。出し物は、加賀尾山(金沢市内)の庶民の間に古くから伝わる継子いじめの「お銀こ金」という昔話である。

情報所有館 : 石川県金沢港大野からくり記念館 


電子卓上計算機: CASIO AL-2000

カシオは1967年に世界初のプログラム式電卓(プログラムをソフトウェア化し、一連の命令をキーボードで簡単に記憶装置に入力できる)AL-1000を発売した。同じシリーズのAL-2000は1969(昭和44)年発売。取得年次1970(昭和45)年。取得価格295,000円

情報所有館 : 金沢大学資料館 


手動式卓上計算機: Nippon Calculator SM-21

日本計算機(Nippon Calculator)は手回し式計算機でタイガーに次ぐシェアを持っていた。1956(昭和31)年に発売され、SM-21は手回し式計算機の決定版として飛躍的な売り上げを実現した。取得年次1964(昭和39)年。製造番号:95535。取得価格32,000円

情報所有館 : 金沢大学資料館 


六分儀

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。製造者のHeaith & Co.LTDはイギリス・ロンドンの測量機器メーカー。その六分儀は、1921年にイギリス国立物理学研究所からクラスAの検査証明書を得ている。幅22cm・高さ24cm、鏡筒長さ8cm。四高の取得年次は1931(昭和6)年以前。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


六分儀

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。製造者は富士測量機株式会社。 本体幅25.8㎝・高さ24㎝、望遠鏡長さ15.9㎝、レンズ長さ8.61㎝、接眼鏡長さ8.19㎝。四高の取得年次は1944(昭和19)年4月。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


経緯儀(トランシット)

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。製造者のW.&L.E.Gurley はアメリカ・トロイ(ボストン郊外)の測量機器メーカー。1845年創業。高さ38cm、台座径10.5cm、鏡筒径3cm・長さ29cm。四高の取得年次は1931(昭和6)年以前。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


エジソン氏フォノグラフ

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。製造者のFERDINAND ERNECKEはドイツ・ベルリンの精密機器・光学機器メーカー。1859年創業。幅66.5cm・奥行31cm・高さ28.5cm、シリンダー径12cm・長さ21cm、ラッパ径8cm・長さ11㎝。四高の取得年次は1888(明治21)~1906(明治39)年の間。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


クラーク氏標準電池

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。カドミウム標準電池のカドミウムを亜鉛に置き換えた電池で、起電力測定の際の標準電池として用いられた。製造者のHARTMANN&BRAUNはドイツ・ヴュルツブルグに設立された光学・物理機器メーカー。1879年創業。幅11cm・高さ14cm。四高の取得年次は1897(明治30)年頃。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


カドミウム標準電池

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。安定した起電力が得られるために、起電力測定や、電位差測定の際に標準電池として広く使用された。製造者のTHE LEEDS & NORTHRUP Co. はアメリカ・フィラデルフィアの電気測定機器製造メーカー。1899年創業。幅9.5cm、奥行4.5cm、高さ13.5cm。四高の取得年次は1918(大正7)年9月9日。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


エジソン・ラランド氏電池

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。水酸化ナトリウム溶液を電極液とするアルカリ性酸化銅電池。製造者のEdison Manufacturing Companyはアメリカ・オレンジに設立されたエジソン-ラランド氏電池製造・販売会社。1900年創業。上部の直径14.5cm・高さ23cm。四高の取得年次は1916(大正5)年8月2日。 本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


実体眼鏡

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。製造者のMax Kahlはドイツ・ケムニッツの理化学機器メーカー。輸入業者は東京本郷の木村広盛舘。ステレオスコープの一つ。接眼レンズが付いて,焦点を合わせて立体像を見ることができる。高さ17cm・幅17cm・奥行13cm、レンズ径4cm。四高の取得年次は1888( 明治21)~1906(明治39)年の間。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


ライツ顕微鏡(カタログ)

ライツの輸入代理店・シュミット商会(東京京橋/大阪東梅田)が作成したライツ顕微鏡カタログの日本語版。1930(昭和5)年11月版。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


ミッタイルンゲン(宣伝誌)

シュミット商会の宣伝誌の1928(昭和3)年5月号。シュミット商会は、1896(明治29)年にドイツ人パウル・シュミットが東京に設立した輸入商社。スイスの精密機械や理化学、医科器具等の代理店となり、後に医薬品のメルクや、光学機械のエルンスト・ライツ(現ライカ)の輸入代理店となった。レントゲンを初めて日本に輸入したのもシュミット商会といわれている。本誌はライツの顕微鏡やカメラの広告が多くを占める。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


島津理化学器械目録 500号

島津製作所の講義実験用理化学器機を網羅したカタログ。定価2円で販売された。発行年次は1937(昭和12)年1月15日。四高の受入年次は1938(昭和13)年3月8日。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


教育品製造会社 物理学器械製品図入り価格表(カタログ)

教育品製造会社は東京浅草にあった理化学器械製造会社。発行年次は1913(大正2)年9月。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


NAKAASA SOKUUKI & CO. LTD. , 気象器械・測量器械 カタログ 1955

NAKAASA SOKUUKI & CO. LTD. は中浅測器株式会社。前身は東京日本橋の中村浅吉測量器械店。発行年次は1955(昭和30)年。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


合名会社玉屋商店、商品目録機械類 第八版(カタログ)

玉屋商店は東京銀座にあった計測機器の輸入販売会社。タマヤ計測システムの前身。第一版は1909(明治42)年6月22日発行。本版の発行年次は1928(昭和3)年12月10日。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


アネロイド気圧計

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。携帯用の気圧計で、持ち運び用の箱が付いている。製造者は横浜のコロン商会。1875年にフランス人コロン兄弟が横浜居留地に設立した時計・宝飾品の輸入販売会社。実際には発注して輸入したものとみられる。径11.455㎝、厚さ3.55㎝。 本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


ミーンタイムクロノメートル(航海用精密時計)

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。製造者はイギリス・ロンドンのWilliam B Irish。 販売者はイギリス・グリーノックのRobert Park。内箱17.7×17.7×高さ18.6㎝、外箱24.2×32.5×高さ24.2㎝。 本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


ケーロスコープ(ジャイロスコープ)

金沢大学資料館所蔵旧制第四高等学校(四高)物理実験機器コレクションの一つ。互いに垂直な3個の回転軸とそれぞれに対して対称な金属環からできている。中央にあるコマは垂直及び水平軸に対し自由に回転することができる。外側の金属環の外径11.13㎝、全体の高さ31.1㎝。本資料を多方面から撮った写真は金沢大学Virtual Museum Projectホームページに掲載。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


電子卓上計算機:横河 Hewlett-Packard HP-35

HP-35 は、ヒューレット・パッカード(HP)初のポケット電卓であり、世界初の科学技術計算用ポケット電卓(関数計算ができる電卓)。1972年から75年まで発売し、30万台を売った。この登場により計算尺が急速に廃れた。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1972(昭和47)年。取得価格150,000円。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


電子式卓上計算機:SOBAX ICC-200

SONYの電卓は1967年にSOBAXの名前で市場に投入された。SOBAXはSOLID STATE ABACUS (固体回路のそろばん)の略。ICC-200は1971年9月に153,000円で新発売された。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1971(昭和46)年。取得価格140,000円。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


電子卓上計算機:SHARP コンペット PC-1001

PC-1001は1973年に発売された関数計算用電卓。当時は「電子計算尺」と称した。15種の関数がワンタッチキーで求められることを売りにしていた。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1973(昭和48)年。取得価格119,000円。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


手動式卓上計算機: Tiger 連乗式計算機20号

タイガー計算機は1923(大正12)年に大本寅治郎によって開発された手回し式計算機。「寅印計算機」の名前で発売して人気を博し、他社の手回し計算機も「タイガー計算機」と呼ばれた。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1954(昭和29)年。製造番号117676。取得価格35,000円。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


電子卓上プログラマブル計算機:横河 Hewlett-Packard 9100A

横河Hewlett-Packard 社は日本の横河電気とアメリカのHewlett-Packard 社が出資して1963年に作った合弁会社。現在の日本ヒューレット・パッカード社の前身。9100AはアメリカのHewlett-Packard 社が開発したプログラマブル電卓。金沢大学工学部旧蔵。取得年次1970(昭和45)年。取得価格1,694,000円

情報所有館 : 金沢大学資料館 


電子卓上プログラマブル計算機:Canon AX-1

キャノンAX-1は1978(昭和53)年に発売された、使いやすさを重視した電子式卓上型プログラム式計算機。大型サーマルプリンターとミニフロッピーディスク(65.5キロバイト)を内蔵。内部記憶容量最大8キロバイト。金沢大学附属病院旧蔵。取得年次1979(昭和54)年。

情報所有館 : 金沢大学資料館 


氷切鋸

函館において採氷を本格的に行ったのは中川嘉兵衛です。横浜などの氷の需要地ではボストンの氷を購入していましたが、たいへん高価なものでした。いくどかの失敗の後、中川は明治4(1871)年から五稜郭の堀での採氷事業を軌道に乗せはじめます。この氷切鋸は氷を切る際に使用しました。鉄製の歯に木製の柄が付いています。明治~昭和初期に製作され使用されました。

情報所有館 : 市立函館博物館 


氷鋏

明治10年には勧業博覧会で龍紋褒章を受賞し、「龍紋氷」というブランド名で氷を販売しました。中川の製氷業を支えたのがかつてはきれいであった五稜郭の堀の水でした。この氷鋏は切り出した氷をつかんで持ち上げる際に使用しました。鉄製で持ち手部分に布がまかれています。明治~昭和初期に製作され使用されました。

情報所有館 : 市立函館博物館 


氷背負

明治4年の夏に五稜郭産の氷が京浜市場に登場しはじめました。この年の移出量は670トンで翌5年には1061トンと産出量もほぼ倍増しています。イギリス、アメリカの外国商船で横浜に輸送されていました。この氷背負は切り出した氷を運ぶ際に使いました。木製の枠にわらで編んだ背負い紐が付けられ、背中にあたる部分にはわらで編んだあてものがついています。明治~昭和初期に製作され使用されました。

情報所有館 : 市立函館博物館 


大日本物産図絵函館氷輸出之図

五稜郭の堀で行われていた採氷事業は、函館の冬の大きな産業でした。この錦絵は日本全国の産物をとる様子などがシリーズで描かれたものです。この図は明治5年発行となります。

情報所有館 : 市立函館博物館 


上野彦馬と家族

明治3-4(1870-71)年頃の上野撮影局における上野家の家族写真。前列は右から母の「伊曾」、妹牧ちえの息子「元次郎」、姉の「にわ」、ちえの娘「なか」、後列は右から妹の「ちえ」、妻の「むら」、「彦馬」、妹の「ぬさ」、妹の「この」である。この写真は開業から8、9年がたち、撮影局も軌道に乗りだした円熟期のものである。
(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ22.0×28.7cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


大村純熙と家族

最後の大村藩主で文久3(1863)年には長崎総奉行を勤めた純熙(すみひろ)とその家族の写真。明治6(1873)年頃の撮影と思われる。場所は長崎の大村屋敷(現・中町教会)の玄関。見る人の目が写真中央に集まるように人物を三角形に配置し、二人の娘の着物の袖を後ろに流し、それぞれの目線を指示するなど、写真師・上野彦馬の技量が発揮されている。(上野彦馬撮影明治初期 印画紙サイズ21.6×28.4cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


庶民の集合写真

上野撮影局で撮られた長崎に住む庶民の写真。彦馬の家があった中島近辺の住人であろうか。彼らがいろいろな方向を見ているのは、彦馬が一人ひとり視線を指示しているからである。8人の若い女性はみんな丸髷(まるまげ)で、うち5人が袖に手を隠している。写真を撮られると手から魂が吸い取られるという迷信があったからである。露光時間が長かった時代、写真師は笑って顔が動くのを嫌った。右側の女性のように、自然でぶれていない笑顔がとられた写真は珍しい。(上野彦馬撮 明治初期 印画紙サイズ22.6×28.2cm

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


小島養生所と長崎市街地

ドンの山(山の名称)へ登る坂道の途中から小島養生所越しに、長崎市中心市街地東側及び片渕方面を見た鳥瞰写真である。左下の窪地の人家は唐人屋敷の内部。一際大きな屋根は福建会館。火災の跡が見られるので、明治3(1870)年に、ここが全焼した後のものである。その右の小高い丘の上の建物群が小島養生所の建物である。創建時と比べると、建物が増え施設が拡大したことが分かる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.4×27.6cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


ドンの山(山の名称)の中腹から見た大浦居留地と長崎港(1)

大浦居留地背後のドンの山の中腹から大浦川沿いを展望する。大浦川の河口に見えるのは明治2(1869)年に居留地の「馬の遊歩道」のため架けられた下り松橋で、その川上の橋は大浦居留地が埋め立てられた文久年間に架けられた弁天橋である。左丘の妙行寺の横に見えるコの字形の建物はベルビューホテル。海には船団が写されている。対岸には工部省所管「長崎造船局」が見える。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.4cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


ドンの山(山の名称)の中腹から見た大浦居留地と長崎港(2)

対岸の工部省所管「長崎造船局」の右上の丘に明治7(1874)年4月に完成したお雇い外国人宿舎が見えるので、それ以後の撮影。大浦川左岸の川幅が狭まる地点の建物をはじめ、随所に台風の傷跡が見られる。明治7(1874)年10月頃、海外に持ち出された別のアルバムに、大浦川左岸の川幅が狭まる地点の建物がすでに撤去されて新しい建物が建築中の写真があるので、同年8月20日の巨大台風直後の写真であると推定される。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.8cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


大浦川上流より見る大浦川と大浦居留地

大浦川の中流域には、古くからの藁葺(わらぶ)きの農家に加えて、おそらくは居留地関連の仕事に従事する瓦葺きの民家が早くから密集していたようである。一番手前の家に大量の洗濯物が干されているのもその例であろう。現在の大浦東町から川上町にかけてである。しかし上流部はまだ棚田や段々畑のままであった。川上町の大浦国際墓地付近から撮影されている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.4cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


大波止沿岸

出島の西端から江戸町、大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期。極めて鮮明な写真である。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18(1885)年から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.4cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


東山手の十二番館

明治元(1868)年に再築された東山手12番館。文久元(1861)年からアメリカのウォルシュ商会が入居し、慶応元(1865)年までアメリカ領事館。再築前年の慶応3(1867)年までは、社員が領事となり、プロシア領事館であったが、明治初年にはロシア領事館になっていた。翻っている旗がいずれのものかは判明しないが、建物の新しさからすれば竣工直後の撮影であろう。この12番館は木造ながら、幅広いヴェランダが3面に付き、領事館らしい堂々とした外観である。外壁の下見板張りはわが国最古の例。背後の丘には何も建っておらず、十人町の民家の屋根が覗く。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.4cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


大浦川と居留地

明治6(1873)年頃の撮影。大浦川口から上流の川上町外国人墓地を望む。右手左岸は右端の洋館が下り松40番の雑貨商のレーキ商会。その横の入母屋造りは洋館で37番旧エキスプレスの後部で、その横の二階建て2棟は36番のホテルとロンドン居酒屋。川幅が狭まる場所の、白壁の家が35番のニュー・クラブハウス(ボウリング・玉突き場)である。左側右岸は手前から大浦14、15番(空き地)で、道を挟んで大浦29-31番と続く。この一帯はグラバー商会かオルト商会の貸地として又貸しされていた。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×26.2cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


松ヶ枝橋と大浦居留地

明治3(1870)年に創架された初代の松ケ枝橋(当時は下り松橋と呼んだ)は、画面で鮮明に見えるように中央に石積みの橋台を置き、そこから3本の束を立てて支える木製の桁橋であった。よく見ると欄干には地覆(土台)がなく、手すりごと所々に止め金を巻いて桁に固定していたことが分かる。橋の背後のアーチ型ヴェランダ装飾がある洋館は大浦11番Aの三角地に、隣の大きな寄棟屋根の洋館は同11番地に建っていた。後者の前面には屋上をテラスとした平屋部分が延びている。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×27.8cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


中島川と桃渓橋

桃渓橋は堂門川に、延宝7(1679)年、永島仁左衛門こと僧ト意(ぼくい)が架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。この写真は大井手橋の上から中島川二股を撮影したものである。右側人家後ろの樹木は、伊勢宮神社の楠の大木である。堂門川と銭屋川(中島川)の合流点角の岸には川へ下りる階段が設けられている。写真左側には、手前から白壁の蔵、唐船海上安全祈願灯、松の大木、不動明王堂等が見え、江戸時代の名残をとどめている。
(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.8×27.6cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


中島川と高麗橋

左側白い塀のところが伊勢宮神社、後ろに武功山の稜線、川には高麗橋、その奥に阿弥陀橋、右側は八幡町である。堂門川と合流する直前の銭屋川(中島川)の風景である。出来大工町の不動明王堂のところからの撮影で、高麗橋の袂の伊勢町側に明治4(1871)年に建設された街灯が見えないことから、明治初年頃のものと思われる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.8cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


伊勢の宮神社

明治6(1873)年頃、長崎伊勢町37番地にあった伊勢宮神宮を正面から撮影している。石橋は中島川に架かる高麗橋である。この神社はキリシタン時代に荒れていたが、寛永16(1639)年に伊勢宮として再興された。諏訪、松の森とともに長崎三社の一つ。明治元(1868)年1月に長崎奉行の江戸への脱出後、薩・長・土・肥の藩士の会議所政事となった。代わって長崎総督に就任した沢宣嘉の国道発揚により優遇される。右の街灯、門下の可動式椅子、髷の男性に維新直後の雰囲気が感じられる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.8×28.4cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


中島川と阿弥陀橋

左岸に伊良林の水神社の森、川の下流に阿弥陀橋が見える銭屋川(中島川)の風景である。阿弥陀橋は、伊勢町-八幡町間の長さ13.4m、幅4.5mの唐風石橋である。元禄3(1690)年、貿易商人園山善爾の喜捨で架けられた。橋の袂に阿弥陀堂があるため阿弥陀橋、別名極楽橋とも呼ばれた。江戸時代、西坂で処刑される罪人が市中引回しの際に必ずこの阿弥陀橋を渡り、極楽浄土を願ったことに因んで極楽橋と呼んだと言われる。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.8cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


上野彦馬邸と中島川

左側の白い武家塀の家が上野彦馬邸(上野撮影局)、その手前大きな屋敷が東京の湯島・佐賀の多久と共に日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂である。その対岸の樹木が見える所が伊良林の水神社で、江戸時代に上水道として敷設された倉田水樋の水源に近い。上野彦馬邸には明治5(1872)年頃新築された2階建ての写場が見える。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.7×25.8cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


諏訪神社旧中門

長坂を上がり総門をくぐった正面、安政4(1857)年の火災で焼失後、明治2(1869)年に再建された諏訪神社中門の風景である。右側に明治3(1870)年奉納の青銅の馬が見える。中門は別名四礎門とも言われた。木造檜皮葺、流破風造りの建物で、正面には菊花紋、屋根下には「正一位諏訪三所」の扁額が掲げられていたが、写真では見えない。中門の左右は透塀で、左右の回廊に続いている。前の広場は能馬場と呼ばれ、能舞台があったところである。(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ20.6×27.8cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


諏訪神社の拝殿と祝詞殿

諏訪神社の拝殿と祝詞殿が側面から撮影されている。拝殿は一般人の参拝所で、左右正面に上が口を開く。渡り廊下でつながる祝詞殿の内部は畳敷きである。諏訪神社は、寛永2(1625)年に現在の松森神社の地に再興され、慶安4(1651)年に現在の場所に遷宮した。秋の「くんち」で有名な長崎の氏神である。
(上野彦馬撮影 明治初期 印画紙サイズ21.2×27.6cm)

情報所有館 : 長崎大学附属図書館 


前の50件 (8801-8850/26356)    次の50件