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釉下彩花唐草文大燈籠

二代 加藤杢左衛門。高さ191.0cm。瀬戸市指定文化財。二代杢左衛門は大物づくりに秀で、飾壺や円卓、燈籠など数々の大物製品を製作し、国内外の博覧会へ多く出品しました。この燈籠はイギリスからの里帰り品で、明治11年(1878)のパリ万国博覧会に出品されたと推定されています。二代杢左衛門はこの燈籠の他、秋葉総本殿可睡斎(静岡県袋井市)や善光寺(長野県長野市)にも染付燈籠を奉納しており、明治時代前~中期にかけて大物の製作をしていたと考えられます。最下段の台部に「日本瀬戸加藤杢左製」染付銘があります。年代:明治11年(1878)頃

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染付花鳥図大飾壺(一対)

二代 加藤杢左衛門。高さ172.0cm。重要有形民俗文化財。加藤杢左衛門家は江戸時代から昭和初期に三代にわたり活躍した瀬戸の窯屋で、瀬戸屈指の名家です。 二代杢左衛門は大物づくりに秀で、飾壺や円卓、燈籠など数々の大物製品を製作して国内外の博覧会へ多く出品し、賞牌を受けています。この大飾壺も博覧会に出品するために作られたと考えられ、胴部の染付は富士山を背景に草花や松、雉や鷹などが非常に細かく描き込まれています。年代:19世紀後期

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染付鳳凰唐草文大鉢

二代 加藤周兵衛。「日本瀬戸白雲堂周兵エ精製」染付銘。口径37.0cm。瀬戸の南新谷地区で「白雲堂」と号して、主に染付磁器の生産を行った窯屋の二代目。初代周兵衛の長男徳七で、明治10年(1877)に二代周兵衛として事業を継承し、主に米国・英国向の食器類を生産しました。森村組(現ノリタケカンパニーリミテド)の指定工場として、輸出ディナーセットを手掛けました。特に薄い素地に細い線で着画した製品で好評を得ました。本作品は、大型の鉢で、おそらくパンチボールとしてつくられたとみられます。描かれた鳳凰唐草文様は、白雲堂の得意とする絵柄で、様々な機種に描かれています。年代:明治時代前期

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磁胎七宝衣に花蝶文耳付花瓶

六代 川本半助。「川本半助」染付銘。高さ30.5cm。瀬戸の郷地区で「真陶園」「山半」と号して磁器生産を行った窯屋の六代目。天保15年(1844)、四代半助の長男として生まれ、慶応元年(1865)六代半助を襲名します。製磁技術の開発に熱心で、黒・茶の色釉を発明しています。本作品は磁製の素地外面に有線七宝を施したもので、衣の部分には上絵が施される大変手の込んだ作品です。陶磁胎七宝は江戸時代末期に開発され、その後明治時代盛んに生産されますが、明治10年代後半にはその姿をほとんど消してしまいます。年代:明治時代前期

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染付草花図向高

加藤紋右衛門(六代)。「還情園池紋製」染付銘。高さ65.3cm。この作品は磁器製の小便器で、こうした磁器製便器は陶器製便器が製作され始めた頃と同時期の明治中期に生産が始まりました。磁器製便器は、焼成した窯の名前から「丸窯便器」ともよばれ、手描きの染付による花鳥文や祥瑞文が施され、高級品として市場に登場しました。年代:19世後期~20世紀初め

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銅版染付杵兎文敷瓦

加藤治右衛門。幅24.5cm。明治時代になって西洋文化の流入による日本人の衛生意識の高まりとともに、建築用材としてタイルが使用されるようになりました。この動きに目を付けた瀬戸の窯屋が日本の中でいち早く生産に取り掛かったのが本業敷瓦です。「本業」とは瀬戸では陶器を指す言葉で、「本業敷瓦」は「陶器製タイル」ということになり、陶器製の素地の上に化粧土をかけて焼き上がりを白くし、磁器製品らしく仕上げ、明治20年代から普及しだした絵付方法である銅版転写の技術を駆使して、量産を可能にした国産の量産タイルの第一号ともいえるものです。年代:20世紀初め

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染付千羽鶴段重

庄平窯。山田良治画。高さ24.5cm。磁器製の四段重で、大正から昭和にかけて染付画の名人と謳われた山田良治の手による千羽鶴が細密に描かれた作品です。年代:20世紀

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防衛食器

戦時中つくられた缶詰の代用品です。昭和18年(1943)頃から試作が始まりました。中身は、大豆、にしん、こんぶなどが入れられたようです。封の方法は、まず容器に食品を入れ、ゴムパッキンを挟んで蓋をします。圧力ばさみで蓋と容器を密着させたまま、熱湯、冷水の順に浸します。すると容器の中は真空状態となり、密閉保存される仕組みです。缶を開けるときは、蓋の中央にあるくぼみを突きます。そこは薄いガラス状の被膜になっているため孔が開き、容器の中に空気が入って蓋が開きます。年代:昭和18年(1943)頃~昭和20年(1945)頃まで

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陶製鏡餅

昭和14年(1939)頃、食料の供給減少などの情勢をうけて、代用品の鏡餅が流通するようになりました。「三分搗きの黒い米の時代に、ネズミにかじられない白い餅が飾れる」と好評だったそうです。年代:昭和14年(1939)頃

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陶貨(一銭、五銭、十銭)

太平洋戦争中、お寺の鐘や家庭の金属製品などを武器の材料としての回収が進められるとともに、様々な代用品がつくられました。昭和18年(1943)頃、硬貨もまた将来の原料不足を見越して、やきものによる代用貨幣の開発が始められました。試作は、瀬戸・有田・京都で進められ、昭和19年(1944)から順次生産に取り掛かりますが、終戦を迎え流通することはありませんでした。瀬戸では一銭・五銭・十銭が生産され、その数量は約1300万枚。そのほとんどは占領軍の進駐の前に粉砕処理されました。そのため現存するものはわずかで、流通しなかったことも含め、「幻の陶貨」と呼ばれています。年代:昭和20年(1945)

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風に向かって立つ男女

光和陶器株式会社。高38.6cm。男女一対のこの作品は風になびく髪の毛や服の様子が細かく表現され、石膏型による鋳込成形の技術の高さが感じられます。戦後、大型のノベルティが生産されるようになりますが、その中でも30センチを超える見栄えのする作品の一つです。年代:昭和時代

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白頭鷲

光和陶器株式会社。高46.0cm。瀬戸では装飾用のやきものの置物をノベルティと呼びます。ノベルティは主にアメリカ向け輸出品として生産され、その種類は多彩で、人形・鳥・動物・花・装飾付食器や花瓶など様々です。本作品は大手ノベルティメーカー・光和陶器が昭和時代に製造したもの。鳥の羽根や土台の岩や木など写実的な表現が特徴的です。ノベルティの製作は原画から原型師が粘土で製作した原型をもとに石膏型をおこし、泥漿を流し込んで形をつくります。複雑な鳥は頭、胴、羽、脚など細かく部品に分けて成形し、粘土で接着して焼成。焼成後に上絵付を施してさらに焼成して完成させます。年代:昭和時代

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アン王女

テーケー名古屋人形製陶株式会社。高37.0cm。瀬戸ではレース状の飾りのついたノベルティをレース人形と呼びます。レース人形は粘土を着けた布レースに襞を寄せて、人形のボディに接着して本焼成したもので、ノベルティの中でも高級な花形商品として輸出されました。通常は衣類の表現の一部にレース飾りが使用されるますが、本作品は衣類そのものを全てレースで再現したもので、総レース人形と呼ばれます。元々はアメリカで始まったレースドールの技術を取り入れ、テーケー名古屋人形製陶がノベルティの技術を活かして瀬戸市では初めて開発しました。年代:平成3年(1991)

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赤絵枝梅竹文碗

沖縄本島中部以北から採れる赤土と白土を使い、釉薬をかけて焼きあげた施釉陶器を沖縄では上焼(ジョウヤチ)と呼んでいる。上焼の多くは、赤土で成形したあと器の表面を白くするため白土をかける「白化粧」という技法が施されている。本作品もそれに当たる。透明釉を施し本焼をしたあと、上絵具で彩色し、800℃ほどで焼き付ける「赤絵」の技法により、正面に梅が、その背面に松が描かれている。梅は緑色の枝に赤、黄、桃色をした花が描かれ、竹は緑と青で描かれている。沖縄県立博物館・美術館所蔵の沖縄県指定有形文化財「枝梅竹文赤絵碗」と同系統の作品である。【壺屋焼/19世紀】

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緑釉嘉瓶

焼成時にとけて流れた緑釉の濃淡が鮮やかなグラデーションとなり外面全体を覆っている。このような形の製品を沖縄では嘉瓶(ユシビン)と呼んでいる。嘉瓶とは、お祝い事に使用される沖縄独特の酒器のこと。ご祝儀用の泡盛を入れて、お祝いの相手方に贈るために使われた。贈られた嘉瓶は中の泡盛を他の容器に移したあと、持ち主に返される。そのため、なかには肩のあたりに家紋が入っている嘉瓶もある。嘉瓶の「ユシ」は、沖縄の言葉でおめでたいことを意味する「カリユシ」に通じるといわれる。嘉瓶がひょうたんの様な形をしているのは、くびれている事で小脇に抱えやすい為だといわれている。【壺屋焼/19世紀】

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飴釉抱瓶

外面全体に掛けられた飴釉の発色が鮮やかな作品である。このような形の製品を沖縄では抱瓶(ダチビン)と呼んでいる。抱瓶とは、携帯用の酒器のことで、左右の耳に紐を通し、肩から吊るして持ち運んだ。腰に当てるため三日月状の形をしているのが特徴で、沖縄独特の形である。琉球王府時代、地方の豪農たちが持ち、外出時に携帯したものとされる。【壺屋焼/18世紀】

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掛分飛鉋飴釉流渡名喜瓶

口縁から肩まで飴釉が、腰部から底部にかけて白化粧と透明釉が施されている。胴部には、ロクロを回転させながら器に鉤状の鉋で刻み目を入れる「飛鉋(とびかんな)」という技法で模様が刻まれ、飴釉が流し掛けられている。このような形の製品を沖縄では渡名喜瓶(トナキビン)と呼んでいる。渡名喜瓶とは、泡盛を墓前に供えるために使われた酒器である。【壺屋焼/18~19世紀】

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掛け分け緑釉流し竹型花生け

異なる色の釉薬を分けて掛ける「掛け分け」という技法で、口縁部から胴部に透明釉が、胴部から底部に飴釉が掛けられている。また、釉薬で流し文様をつける「流し掛け」の技法で口縁部から胴部にかけて掛け流された緑釉が鮮やかに発色している。竹の形をかたどった花生けである。【壺屋焼/19世紀】

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酒壺

沖縄本島中南部から採れるジャーガルと呼ばれる黒土と、島尻マージと呼ばれる赤土を使い、釉薬を掛けない陶器、および泥釉・マンガン釉を掛けた陶器を沖縄では荒焼(アラヤチ)と呼んでいる。荒焼は水甕、味噌甕、酒甕など貯蔵を目的とした大型のものから、升瓶などの小型の製品まで作られている。本作品は酒を貯えるのに用いた酒壺である。外面全体にマンガン釉が掛けられ、口縁から胴部にかけて、焼成時に窯の中でふりかかった灰が自然釉となり景色をうんでいる。胴部には2本筋の線模様が描かれ、肩には3つの耳が付けられている。【壺屋焼/19世紀】

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縄目文水甕

無釉の陶器で、水を貯蔵するために使われた。縄目文は粘土で作ったひもをぐるりと巻き、指で凹凸をつけるもので、古い水甕に見られる。頚部には帯(ウービ)と呼ばれる線がヘラで描かれている。【壺屋焼/19世紀】

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竜巻盛り付け透かし彫り壺

外面全体にマンガン釉が掛けられている。胴部には波文が透かし彫りの技法でくりぬかれ、盛り付けの技法で竜と雲が施されている。盛り付けとは仕上がった器面に、粘土で作った文様を施す技法で、沖縄ではタックヮーサーと呼ばれている。頚部にはシーサーが盛り付けられている。【壺屋焼/20世紀】

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味噌甕

無釉の陶器で、味噌を仕込んで貯蔵するために用いられた。肩にはヘラ描きで二本筋が、その上には耳が3つ施されている。戦前は多くの家庭で自家製の味噌を作っており、味噌は貴重な貯蔵食品であった。【壺屋焼/20世紀】

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スーチカーガーミ

無釉の陶器で、塩漬けの豚肉を入れるために使われた。肩にはヘラ描きで二本筋が、その上には窯印が施されている。荒焼用の単室登り窯ではそれぞれの窯元の製品をまとめて窯に詰めて焼成するため、窯印をつけてどの工房の製品かわかるようにされているものがある。豚肉は沖縄を代表する食材。戦前は養豚も家庭単位で行われていた。【壺屋焼/20世紀】

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シーサー

シーサーの原形はオリエントやインドに生息していたライオンといわれる。シルクロードを通って中国に伝わる間に姿・形を変えて獅子になり、13~15世紀頃沖縄に伝わり独特のシーサーになった。14世紀頃シーサーは王族の権力の象徴として、寺社や王族の墓などに用いられた。17世紀頃になると、村落の入口などに石獅子が魔よけや火災よけとして置かれるようになった。作者の國場真一(1887~1968)は、陶工達の間でも「彼の右に出るものはいない」と称されるほどシーサーの名工として知られていた。尻を立て威嚇する姿勢や顔を横に向けるスタイルは彼が考案したものといわれている。【國場真一作/20世紀】

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チブルシーサー

壺屋焼の荒焼の製法で作られた頭部(チブル)だけのシーサー。陶製のシーサーが壺屋で作られるようになったのは19世紀末期から。始めに作られたのが荒焼のチブル(頭部)シーサー。そのころ、瓦葺き職人が瓦と漆喰で作る漆喰シーサーも普及していった。大正から昭和にかけて全身像のシーサーが焼物で作られるようになり、戦後は上焼のシーサーなども作られるようになった。現在では、屋根の上や門柱に据えられているシーサーを沖縄の至る所で見ることができる。【壺屋焼/19世紀】

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白土焼締シーサー

白土で成形し焼成した作品。作者小橋川永仁(1922~1977)は、ロクロの技術は父・仁王から、絵付けは兄・永昌から、そしてシーサー作りは國場真一から学んだ。壺屋の伝統を守りつつ新しい技術を取り入れる革新的存在であり、シーサー作りに石膏型を利用したのは永仁が最初といわれている。非常にアイディアが豊富で、シーサー形の灰皿を考案するなど、新しい形の製品を次々と生み出した。壺屋陶器事業協同組合の初代理事長として壺屋焼の発展に貢献した。【小橋川永仁作/20世紀】

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線彫双魚文皿

皿の中央に二尾の魚が、縁には2本筋と連弁文様が線彫りで描かれている。飴釉、濃紺、鮮やかな青色に発色するそれぞれの釉薬を使い分けて画面の構成を行っている。1963年12月に行われた第6回壺屋陶芸三人展出品作品である。濱田庄司は「次郎の魚は笑っている」と評した。金城次郎(1911~2004)は沖縄県真和志村字与儀(現那覇市)生まれの陶芸家。1985年に国指定重要無形文化財「琉球陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。魚文がトレードマークともいえる次郎だが、インタビューで「沖縄は海に囲まれているので、沖縄らしい模様を作りたかった。そこで魚と海老を選んだ」と答えている。【金城次郎作/1963年】

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イッチン魚文皿

器全体に鉄釉が施されている。スポイト状の道具を使い、液体状にした白土で模様を描くイッチンと呼ばれる技法で、魚と波紋が描かれている。また、口縁部にも白土がぬられ、器面全体を引き締めている。底部・高台内には「金次」の刻銘がある。高台には紐が通せるように穴が二つあけられており、壁面に下げる飾り皿としての意図がうかがえる。琉球電信電話公社総裁でもあり、また沖縄民藝協会を支えた人物の1人でもある新里善福の旧蔵作品。【金城次郎作/1960年代】

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指描唐草文双耳壺

口縁に緑釉が、外面全体に透明釉が施されている。外面は白化粧が施されているが、乾く前に指でふき取られ、唐草模様が描かれている。肩には2つ耳が付けられている。【金城次郎作1960年代末~1970年代】

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線彫魚・海老文壺

口縁に緑釉が施されている。外面全体に魚と海老が様々な模様とともに線彫りで描かれており、文様部分は青と飴色の釉薬で彩色されている。【金城次郎作/1970年代前半】

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線彫魚文三耳壺

外面胴部に線彫りで魚が描かれている。盛り付けの技法で装飾された部分にコバルト釉が、口縁部に緑釉がぬられている。底部は焼成の際に裂けたようで、セメントによる補修が行われている。金城次郎は焼成中に破損した作品も補修を加えて販売することがあった。破損品を安価に市場にだすということは琉球王府時代から行われており、金城次郎もその系譜を引き継いでいる。作家性を重視する現代陶芸の立場から強く批判されたこともある。ただ、市場に出さなかった失敗品もあり、一部の傷や破損より、焼成による全体の雰囲気が優先されたと考えるべきであろう。多少の破綻をいとわない焼成が独特の迫力を生み出している。【金城次郎作/1960年代】

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掻落唐草文壺

外面全体に白化粧と透明釉が施され、口縁から頚部にかけて緑釉が掛けられている。肩と腰部には2本筋の線模様がそれぞれ施され、胴部には掻き落としの技法で唐草文様が描かれている。掻き落としとは、文様のまわりを削り、浮き彫りに見せる技法である。【金城次郎作/1970年代初頭】

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三彩線彫市松文台付鉢

外面は口縁から底部まで飴釉が掛けられている。内面は中央に花の文様が、その周りを取り囲むように市松文様が線彫りで施され、全体が三彩で色づけされている。フルーツなどを盛るための鉢であろう。壺屋焼の伝統的な形ではなく、戦後期の壺屋焼の主要な買い手であった米軍関係者を意識した作品と考えられる。当時の壺屋では、米軍関係者向けの土産品や西洋の生活様式にあった製品も多く作られていた。【金城次郎作/1952年】

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飴釉蝋抜笹文灰皿

模様にする部分にロウを置いてその上から釉薬を掛ける蝋抜という技法により、外面及びふたの表面に笹の図柄が表現されている。壺屋の伝統的な技法ではなく、親交のあった濱田庄司が好んで使った技法で、金城次郎が新しい技術技法を取り入れたことを示す作品である。琉球電信電話公社総裁でもあり、また沖縄民藝協会を支えた人物の1人でもある新里善福の旧蔵作品。【金城次郎作/1960年代後半】

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線彫魚・海老・貝文ランプ

魚、海老、貝と金城次郎が得意とした海の柄の全てが外面全体に線彫りで描かれている。魚は細身の胴部を巡るように描かれ、立体であることを充分に活かした画面の構成になっている。口縁及び文様は飴と青色の釉薬で彩色されている。外面胴部には透かし彫りで花の模様が表現されている。琉球電信電話公社総裁でもあり、また沖縄民藝協会を支えた人物の1人でもある新里善福の旧蔵作品。新里からの直接の注文で作成されたと考えられる。「電気スタンド」は1960年代の沖展出品目録中に名前が確認できる。【金城次郎作/1960年代後半】

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飴釉獅子頭角函

遺骨を入れるための箱(蔵骨器)である。沖縄では蔵骨器のことを厨子(ジーシ)、または厨子甕(ジーシガーミ)と呼び、壺屋では戦前・戦後を通して数多く製作された。籾殻を混ぜ込んだ土を使い、独特の凹凸や亀裂をともなった表情が表面に現れている。この土で焼成された焼物は保水性がないため、戦後は傘立てや植木鉢にも利用された。本作品は伝統的な厨子の形とは異なり、シーサーをかたどっている。【金城次郎作/1973年】

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指描茶碗

口縁が外側に反った茶碗である。器の内面は液状にした白色粘土を掛け、透明釉を施している。口縁近くにはロクロを回しながら白化粧土と透明釉をはぎとった線文様がみられる。また口縁から見込みにかけて数ヵ所に褐色の釉薬が流し掛けられている。外面は液状の白色粘土を掛け、そのうえから褐色の釉薬を施している。胴部には三本指で波状に釉を掻き取った文様が表現されている。口縁から胴部には数ヵ所に緑釉が施されている。高台、高台内は無釉。作者が壺屋で工房を構えている頃に製作した器であるとされる。箱のふたに裏面に「指描茶盌 次郎」と墨書されている。【金城次郎作/1960年代後半】

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窯変茶碗

口縁がやや内側にすぼまった茶碗である。素地を成形したあと、直接釉薬が施されている。登り窯での焼成時に窯変して発色している。高台、高台内、高台脇は無釉。作者が壺屋で工房を構えている頃に製作した器であるとされる。箱のふた裏面に「窯変茶碗 金次」と墨書されている。【金城次郎作/1960年代後半】

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志野茶碗「松」

半筒形の茶碗である。内面と外面は腰部まで白色の長石釉がたっぷりと掛けられている。白色の釉下には鉄釉で松の文様が絵付けされている。絵付けは日本画家の奥村土牛(1889~1990)によるもので、作品の背面には「土牛」のサインが入っている。高台内および高台脇は無釉。高台脇には「斗」と銘が刻まれている。作者の雅号「斗出庵」を表すものである。箱のふた表面には「志野茶垸 大萱 豊蔵斗」と墨書がある。岐阜県可児市の大萱で作られたものであろう。荒川豊蔵(1894~1985)は岐阜県多治見市生まれの陶芸家。1955年に国指定重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」の保持者(人間国宝)に認定されている。【荒川豊蔵作】

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黄瀬戸茶碗

半筒形の茶碗である。内面と外面は腰部まで淡黄色の釉薬が掛けられている。作品正面にあたる部分がもっともよく発色している。高台内および高台脇は無釉。高台脇には「斗」と銘が刻まれている。作者の雅号「斗出庵」を表すものである。箱のふた表面には「黄瀬戸茶垸 大萱 豊蔵斗」と墨書がある。岐阜県可児市の大萱で作られたものであろう。【荒川豊蔵作】

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信楽風茶碗

口縁がすぼまった形の茶碗。無釉である。高台脇には櫛状の道具で複数の線模様を表現する櫛描の技法で線模様が施されている。また、「斗」と銘が刻まれている。作者の雅号「斗出庵」を表すものである。箱のふた表面に「信楽風茶垸 豊蔵斗」と墨書されている。【荒川豊蔵作】

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黒唐津茶碗

口縁がすぼまった形の茶碗である。器の内面と外面は高台脇近くまで黒釉が掛かっている。作品正面にあたる部分には乳白色の釉薬が施されており、斑文状に発色している。高台内、高台、高台脇は無釉。高台内には作者の雅号「栩庵」の一字「栩」の刻印が押されている。箱のふた表面に「黒唐津 宗麿作茶盌 唐九郎」と墨書されている。石黒宗麿(1893~1968)は富山県射水郡作道村(現:射水市)生まれの陶芸家。1955年に国指定重要無形文化財「鉄釉陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。【石黒宗麿作】

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黒釉茶碗

口縁が大きく開いた平茶碗である。内面と外面は口縁から腰部まで黒釉が施されている。高台内および高台脇は無釉。高台内に作者の雅号「栩庵」の一字「栩」の刻印が押されている。箱のふた裏面に「石黒宗麿作 黒釉茶盌 卯一」と墨書されている。墨書は清水卯一氏筆。清水卯一(1926~2004)は京都市生まれの陶芸家。1985年に国指定重要無形文化財「鉄釉陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。【石黒宗麿作】

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志野茶碗

半筒形の茶碗である。内面と外面は腰部まで白色の長石釉が掛けられている。外面の胴から腰部には数ヵ所鉄釉で絵付けされた斑模様があり、褐色に発色している。高台内、高台、高台脇は無釉である。高台脇には、「一ム」と銘が刻まれている。箱のふた表面に「志野茶盌 一無斎」と墨書されている。一無斎は作者加藤唐九郎の雅号である。加藤唐九郎(1898~1985)は愛知県春日井群水野村(現:瀬戸市)生まれの陶芸家。1919年から瀬戸系古窯の調査研究を行う。1952年に織部焼で国の無形文化財有資格者に認定されている。【加藤唐九郎作】

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絵唐津茶碗

口縁が外側に反った形の茶碗である。器の外面胴部には斑文状に、内側の口縁部には筆描きで、鉄釉による絵付けがみられる。焼成により褐色に発色している。内面と外面腰部まで釉薬が施されている。高台内、高台、高台脇は無釉。箱のふた表面に「絵唐津茶盌 一無斎」と墨書されている。一無斎は作者の雅号である。【加藤唐九郎作】

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絵斑唐津片口水指

口縁部に注口を作った片口形の水指で、茶釜へ水を注ぐ器として作られたものであろう。内面と外面は腰部まで乳白色の釉薬がたっぷりと掛けられており、ところどころ斑状に発色している。見込みに褐色の釉薬で「小」と絵付けされている。高台内および高台脇は無釉。高台内に「小」と銘が刻まれている。ふたは黒漆の塗物である。箱のふた表面に「絵斑唐津 片口水指 小十」と墨書されている。西岡小十(1917~2006)は佐賀県唐津市生まれの陶芸家。古唐津の技法を研究し、絵斑唐津や梅華皮唐津の技法を再現した。【西岡小十作】

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赤絵面取茶碗

口縁が外側に反った茶碗で、壺屋焼の上焼の製法で作られている。外面胴部は九面削って面取りし、上絵具で絵付けされている。赤い絵具で面取りの縁を描き、そのなかを赤・緑・黄色の絵具で彩色している。箱のふた裏面に「庄司作 琉球窯 赤絵面取茶盌 晋作識」と墨書されている。作者が来沖した際に壺屋で制作した器であるとされる。濱田庄司(1894~1978)は神奈川県川崎市に生まれ、益子で制作活動を展開した陶芸家。1918年に初めて沖縄を訪問して以来、壺屋を訪れては作陶し、壺屋の陶工に多大な影響を与えた。1955年に国指定重要無形文化財「民芸陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。【濱田庄司作/1970年頃】

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志野茶碗

半筒形の茶碗である。内面と外面は腰部まで白色の長石釉がたっぷりと掛けられている。高台脇には作者の名前の一字「日」が銘として刻まれている。箱のふた表面に「志野茶盌 日出武」と墨書されている。安藤日出武(1938~)は岐阜県多治見市生まれの陶芸家。志野を志し、桃山時代の太平古窯跡の近くに築窯。2003年に岐阜県重要無形文化財保持者「黄瀬戸」に認定されている。【安藤日出武作】

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志野香合

香合は香を一時的に貯えておくための器で、陶磁器製のものは練香を入れて用いる。身の底部を除いて白色の長石釉が掛けられている。ふたの表面には褐色の釉薬で12方に放射状に線模様が絵付けされている。一部はあわせめの目印とするためか、身の部分にもつながっている。底部に「日」と銘が入っている。箱のふた表面に「志野香合 日出武」と墨書されている。【安藤日出武作】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


刷毛目茶碗

口縁が外側に反った平茶碗である。器の外面には口縁から胴部にかけて刷毛で白色粘土がぬられている。高台内には「彌弌」の刻印が押されている。「彌」の字を除く器全体に乳白色の釉薬が掛けられている。内面には淡紅色の斑紋がみられる。箱のふた表面に「刷毛目茶盌 彌弌作」と墨書されている。楠部彌弌(1897~1984)は京都市生まれの陶芸家。1946年の日展発足に関わり、以降、同展を中心に活動を展開した。【楠部彌弌作】

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