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線彫魚文三耳壺

外面胴部に線彫りで魚が描かれている。盛り付けの技法で装飾された部分にコバルト釉が、口縁部に緑釉がぬられている。底部は焼成の際に裂けたようで、セメントによる補修が行われている。金城次郎は焼成中に破損した作品も補修を加えて販売することがあった。破損品を安価に市場にだすということは琉球王府時代から行われており、金城次郎もその系譜を引き継いでいる。作家性を重視する現代陶芸の立場から強く批判されたこともある。ただ、市場に出さなかった失敗品もあり、一部の傷や破損より、焼成による全体の雰囲気が優先されたと考えるべきであろう。多少の破綻をいとわない焼成が独特の迫力を生み出している。【金城次郎作/1960年代】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


掻落唐草文壺

外面全体に白化粧と透明釉が施され、口縁から頚部にかけて緑釉が掛けられている。肩と腰部には2本筋の線模様がそれぞれ施され、胴部には掻き落としの技法で唐草文様が描かれている。掻き落としとは、文様のまわりを削り、浮き彫りに見せる技法である。【金城次郎作/1970年代初頭】

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三彩線彫市松文台付鉢

外面は口縁から底部まで飴釉が掛けられている。内面は中央に花の文様が、その周りを取り囲むように市松文様が線彫りで施され、全体が三彩で色づけされている。フルーツなどを盛るための鉢であろう。壺屋焼の伝統的な形ではなく、戦後期の壺屋焼の主要な買い手であった米軍関係者を意識した作品と考えられる。当時の壺屋では、米軍関係者向けの土産品や西洋の生活様式にあった製品も多く作られていた。【金城次郎作/1952年】

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飴釉蝋抜笹文灰皿

模様にする部分にロウを置いてその上から釉薬を掛ける蝋抜という技法により、外面及びふたの表面に笹の図柄が表現されている。壺屋の伝統的な技法ではなく、親交のあった濱田庄司が好んで使った技法で、金城次郎が新しい技術技法を取り入れたことを示す作品である。琉球電信電話公社総裁でもあり、また沖縄民藝協会を支えた人物の1人でもある新里善福の旧蔵作品。【金城次郎作/1960年代後半】

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線彫魚・海老・貝文ランプ

魚、海老、貝と金城次郎が得意とした海の柄の全てが外面全体に線彫りで描かれている。魚は細身の胴部を巡るように描かれ、立体であることを充分に活かした画面の構成になっている。口縁及び文様は飴と青色の釉薬で彩色されている。外面胴部には透かし彫りで花の模様が表現されている。琉球電信電話公社総裁でもあり、また沖縄民藝協会を支えた人物の1人でもある新里善福の旧蔵作品。新里からの直接の注文で作成されたと考えられる。「電気スタンド」は1960年代の沖展出品目録中に名前が確認できる。【金城次郎作/1960年代後半】

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飴釉獅子頭角函

遺骨を入れるための箱(蔵骨器)である。沖縄では蔵骨器のことを厨子(ジーシ)、または厨子甕(ジーシガーミ)と呼び、壺屋では戦前・戦後を通して数多く製作された。籾殻を混ぜ込んだ土を使い、独特の凹凸や亀裂をともなった表情が表面に現れている。この土で焼成された焼物は保水性がないため、戦後は傘立てや植木鉢にも利用された。本作品は伝統的な厨子の形とは異なり、シーサーをかたどっている。【金城次郎作/1973年】

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指描茶碗

口縁が外側に反った茶碗である。器の内面は液状にした白色粘土を掛け、透明釉を施している。口縁近くにはロクロを回しながら白化粧土と透明釉をはぎとった線文様がみられる。また口縁から見込みにかけて数ヵ所に褐色の釉薬が流し掛けられている。外面は液状の白色粘土を掛け、そのうえから褐色の釉薬を施している。胴部には三本指で波状に釉を掻き取った文様が表現されている。口縁から胴部には数ヵ所に緑釉が施されている。高台、高台内は無釉。作者が壺屋で工房を構えている頃に製作した器であるとされる。箱のふたに裏面に「指描茶盌 次郎」と墨書されている。【金城次郎作/1960年代後半】

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窯変茶碗

口縁がやや内側にすぼまった茶碗である。素地を成形したあと、直接釉薬が施されている。登り窯での焼成時に窯変して発色している。高台、高台内、高台脇は無釉。作者が壺屋で工房を構えている頃に製作した器であるとされる。箱のふた裏面に「窯変茶碗 金次」と墨書されている。【金城次郎作/1960年代後半】

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志野茶碗「松」

半筒形の茶碗である。内面と外面は腰部まで白色の長石釉がたっぷりと掛けられている。白色の釉下には鉄釉で松の文様が絵付けされている。絵付けは日本画家の奥村土牛(1889~1990)によるもので、作品の背面には「土牛」のサインが入っている。高台内および高台脇は無釉。高台脇には「斗」と銘が刻まれている。作者の雅号「斗出庵」を表すものである。箱のふた表面には「志野茶垸 大萱 豊蔵斗」と墨書がある。岐阜県可児市の大萱で作られたものであろう。荒川豊蔵(1894~1985)は岐阜県多治見市生まれの陶芸家。1955年に国指定重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」の保持者(人間国宝)に認定されている。【荒川豊蔵作】

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黄瀬戸茶碗

半筒形の茶碗である。内面と外面は腰部まで淡黄色の釉薬が掛けられている。作品正面にあたる部分がもっともよく発色している。高台内および高台脇は無釉。高台脇には「斗」と銘が刻まれている。作者の雅号「斗出庵」を表すものである。箱のふた表面には「黄瀬戸茶垸 大萱 豊蔵斗」と墨書がある。岐阜県可児市の大萱で作られたものであろう。【荒川豊蔵作】

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信楽風茶碗

口縁がすぼまった形の茶碗。無釉である。高台脇には櫛状の道具で複数の線模様を表現する櫛描の技法で線模様が施されている。また、「斗」と銘が刻まれている。作者の雅号「斗出庵」を表すものである。箱のふた表面に「信楽風茶垸 豊蔵斗」と墨書されている。【荒川豊蔵作】

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黒唐津茶碗

口縁がすぼまった形の茶碗である。器の内面と外面は高台脇近くまで黒釉が掛かっている。作品正面にあたる部分には乳白色の釉薬が施されており、斑文状に発色している。高台内、高台、高台脇は無釉。高台内には作者の雅号「栩庵」の一字「栩」の刻印が押されている。箱のふた表面に「黒唐津 宗麿作茶盌 唐九郎」と墨書されている。石黒宗麿(1893~1968)は富山県射水郡作道村(現:射水市)生まれの陶芸家。1955年に国指定重要無形文化財「鉄釉陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。【石黒宗麿作】

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黒釉茶碗

口縁が大きく開いた平茶碗である。内面と外面は口縁から腰部まで黒釉が施されている。高台内および高台脇は無釉。高台内に作者の雅号「栩庵」の一字「栩」の刻印が押されている。箱のふた裏面に「石黒宗麿作 黒釉茶盌 卯一」と墨書されている。墨書は清水卯一氏筆。清水卯一(1926~2004)は京都市生まれの陶芸家。1985年に国指定重要無形文化財「鉄釉陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。【石黒宗麿作】

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志野茶碗

半筒形の茶碗である。内面と外面は腰部まで白色の長石釉が掛けられている。外面の胴から腰部には数ヵ所鉄釉で絵付けされた斑模様があり、褐色に発色している。高台内、高台、高台脇は無釉である。高台脇には、「一ム」と銘が刻まれている。箱のふた表面に「志野茶盌 一無斎」と墨書されている。一無斎は作者加藤唐九郎の雅号である。加藤唐九郎(1898~1985)は愛知県春日井群水野村(現:瀬戸市)生まれの陶芸家。1919年から瀬戸系古窯の調査研究を行う。1952年に織部焼で国の無形文化財有資格者に認定されている。【加藤唐九郎作】

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絵唐津茶碗

口縁が外側に反った形の茶碗である。器の外面胴部には斑文状に、内側の口縁部には筆描きで、鉄釉による絵付けがみられる。焼成により褐色に発色している。内面と外面腰部まで釉薬が施されている。高台内、高台、高台脇は無釉。箱のふた表面に「絵唐津茶盌 一無斎」と墨書されている。一無斎は作者の雅号である。【加藤唐九郎作】

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絵斑唐津片口水指

口縁部に注口を作った片口形の水指で、茶釜へ水を注ぐ器として作られたものであろう。内面と外面は腰部まで乳白色の釉薬がたっぷりと掛けられており、ところどころ斑状に発色している。見込みに褐色の釉薬で「小」と絵付けされている。高台内および高台脇は無釉。高台内に「小」と銘が刻まれている。ふたは黒漆の塗物である。箱のふた表面に「絵斑唐津 片口水指 小十」と墨書されている。西岡小十(1917~2006)は佐賀県唐津市生まれの陶芸家。古唐津の技法を研究し、絵斑唐津や梅華皮唐津の技法を再現した。【西岡小十作】

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赤絵面取茶碗

口縁が外側に反った茶碗で、壺屋焼の上焼の製法で作られている。外面胴部は九面削って面取りし、上絵具で絵付けされている。赤い絵具で面取りの縁を描き、そのなかを赤・緑・黄色の絵具で彩色している。箱のふた裏面に「庄司作 琉球窯 赤絵面取茶盌 晋作識」と墨書されている。作者が来沖した際に壺屋で制作した器であるとされる。濱田庄司(1894~1978)は神奈川県川崎市に生まれ、益子で制作活動を展開した陶芸家。1918年に初めて沖縄を訪問して以来、壺屋を訪れては作陶し、壺屋の陶工に多大な影響を与えた。1955年に国指定重要無形文化財「民芸陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。【濱田庄司作/1970年頃】

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志野茶碗

半筒形の茶碗である。内面と外面は腰部まで白色の長石釉がたっぷりと掛けられている。高台脇には作者の名前の一字「日」が銘として刻まれている。箱のふた表面に「志野茶盌 日出武」と墨書されている。安藤日出武(1938~)は岐阜県多治見市生まれの陶芸家。志野を志し、桃山時代の太平古窯跡の近くに築窯。2003年に岐阜県重要無形文化財保持者「黄瀬戸」に認定されている。【安藤日出武作】

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志野香合

香合は香を一時的に貯えておくための器で、陶磁器製のものは練香を入れて用いる。身の底部を除いて白色の長石釉が掛けられている。ふたの表面には褐色の釉薬で12方に放射状に線模様が絵付けされている。一部はあわせめの目印とするためか、身の部分にもつながっている。底部に「日」と銘が入っている。箱のふた表面に「志野香合 日出武」と墨書されている。【安藤日出武作】

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刷毛目茶碗

口縁が外側に反った平茶碗である。器の外面には口縁から胴部にかけて刷毛で白色粘土がぬられている。高台内には「彌弌」の刻印が押されている。「彌」の字を除く器全体に乳白色の釉薬が掛けられている。内面には淡紅色の斑紋がみられる。箱のふた表面に「刷毛目茶盌 彌弌作」と墨書されている。楠部彌弌(1897~1984)は京都市生まれの陶芸家。1946年の日展発足に関わり、以降、同展を中心に活動を展開した。【楠部彌弌作】

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梅染付香爐

香をたくのに使う器である。磁器の白い素地に呉須と呼ばれる青い顔料で下絵付けする染付の技法で文様が表現されている。作品正面には梅文が、その背面には竹文が描かれている。底部には「悠」と銘が記されている。付属品として銀製の火屋が付いている。火屋には透かし彫りにより松の文様が施されており、香炉の梅・竹とあわせて「松竹梅」のモチーフが表現されている。箱のふた表面に「梅染付香爐 悠」と墨書されている。近藤悠三(1902~1985)は京都市清水生まれの陶芸家。1977年に国指定重要無形文化財「染付」の保持者(人間国宝)に認定されている。【近藤悠三作】

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鉄砂抜絵巡礼者模様皿

口縁がつば状の皿である。器の内面には白濁色の釉薬をかけ、模様にする部分にロウを置いて、その上から鉄砂釉を掛けている。蝋抜絵により山と托鉢の巡礼者の図柄が表現されている。この図柄は作者が陶器の文様としてよく用いたものである。縁は無釉。外面には褐色の釉を掛け、その上から鉄砂釉を掛けている。高台内には白濁色の釉薬が施されており、また「BL」の文字が褐色の釉で記されている。「BL」は作者バーナード・リーチのイニシャル。バーナード・リーチはイギリスの陶芸家。富本憲吉、柳宗悦、濱田庄司らと親交を深め、沖縄・壺屋では濱田庄司とともに何度か滞在し、陶芸制作を行った。【バーナード・リーチ作/1950年】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


香合

香を一時的に貯えておくための器。ふたの表面は中心から3方向にかけて液状の白色粘土が刷毛で波状にぬられている。ふた、身ともに全体に釉薬が掛けられている。ふたの表面と身の内側と外面胴部は黄土色に発色しており、ふたの裏面と身の腰部および底部は灰濁色に発色している。箱のふた裏面に「19BL53」と墨書されている。「BL」は作者バーナード・リーチ(1887~1979)のイニシャルである。【バーナード・リーチ作/1953年】

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畜力原動機:傘型式

牛馬の歩行を回転動力に変換する装置。岡山県邑久郡豊村の奥山鹿吉による1902(明治35)年の発明。太い木製主軸を垂直に立て、これを中心に上部に16~24本の腕木を傘型に張り出し、その先端をY字型とし、これに動力伝達用のロープをかける。傘の直径は3m内外で、大型では6mに及ぶ。主軸のやや下方に、長さ1.5~2.1mの曳木をつけ、これを牛馬にひかせて回行させ、傘からのロープで脱穀機や籾摺機を運転する。明治末期から普及し、1921(大正10)年には岡山県下だけでも12,000台の普及をみた。年代:1902年

情報所有館 : 生物系特定産業技術研究支援センター 農業機械化研究所資料館 


揮発油発動機:アンドロー式

熱効率の高い輸入発動機。農林省農産課が、国産石油発動機改良上の参考品として1928(昭和3)年ころパリのシトロエン工場から購入。本機は特殊なリンク機構によって、吸込・圧縮・爆発・排気のピストン行程長が異なる差動を行なう珍しい発動機で、熱効率を試算すると約35%となり、当時の揮発油発動機としては記録破りの値。回転数1,300rpm、正味馬力4.0(3kW)、燃料消費量(毎時毎馬力)173gとされている。年代:1928年

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単用犁

利用末期の日本式改良型畜力用犁。1920(大正9)年ころ、農林省農事試験場技師が考案改良した。農業の基本である大地の掘り起こしに畜力を用いる起源については諸説多いが、我が国でも2000年に近い。農林省農産課は赤羽飛行機製作工場に委託して100台製作し、全国各府県に2台ずつ送った。この犁に模して製作された犁も用いられた。年代:1920年

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動力耕耘機:ロータリ式

国産初期の歩行動力耕耘機。1952~53(昭和27~28)年ころの久保田鉄工所(現:クボタ)製。発動機はクボタ式 CHC型5~6馬力(3.75~4.5kW)、回転数1,000~1,200rpm。試験用のために、ハンドルの下に力量測定装置が付いている。輸入・国産を問わない歩行型動力耕耘機の普及が、順次、畜力に取って代わった。耕耘作業部機構は現在、歩行用・乗用を問わず大半がロータリ式であり、その最も初期の形式である。年代:1952年

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動力耕耘機:スクリュ式

縦2軸のスクリュが同期回転し、土を切削耕耘する方式の歩行動力耕耘機。古川農機具工業株式会社(石川県金沢市)製。1955~1965(昭和30)年代に全国的に利用された。本機は軽量小型、低重心で安定性が良い。畦際耕うんの際にはスクリュ刃軸を移動することができ、その前後方向傾斜角も調節できる。スクリュ式耕耘機構は、高速作業には不適であるが砕土性能が高く、根菜類の栽培に適しているとされ、現在も一部で用いられている。年代:1960年

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乗用トラクタ

純国産、初の乗用可能なトラクタ。1951(昭和26)年、石川島芝浦機械が開発・生産した。リヤエンジンの三輪タイプで旋回性に優れ、作業機はミッドマウント(腹装式)で視認性が良い。特に水田車輪装着による高速代掻き作業や腹装モーアによる牧草刈取り作業、また左右に装着した左反転と右反転プラウによる往復耕耘作業に威力を発揮した。さらに本体前部を取り外し、ハンドルと耕耘ロータリを装着して歩行型耕耘機としても使えるユニークな機構である。北海道・東北、特に酪農地帯で使用され、生産台数は1951(昭和26)年から1958(昭和33)年まで477台を数えた。年代:1951年

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人力田植機

実用にも供された人力田植機。二反田春三(広島県)の考案による1955(昭和30)年ころの試作品。成苗用2条植で、把手を押せば中央にある径60cmの走行車輪が回転して前進し、この車輪軸に付いている苗送り機が運動して、成苗が前方に出てくる。そのとき、同じく車輪軸に付いている植付爪が動いて成苗を植えつける。田植機開発の先駆。年代:1955年

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人力田植機:帯苗式

我が国最初の市販人力田植機。カンリウ工業(長野県塩尻市)が1965(昭和40)年に発売し、各地で使用された。手押しにより走行車輪から動力を得て帯苗を連続的に送り出し、6枚の切断刃を持つ「植爪車」で帯苗の切断・植え込みを行う。ポリシート折込み育苗の土付き帯苗(短冊苗とも言う) を用いる方式。1968(昭和43)年には動力式が発売された。作業能率10a当たり2.5~3時間。年代:1965年

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動力田植機:ひも苗式

エンジン搭載型初期田植機。ヤンマー農機(現:ヤンマー)、1970(昭和45)年製。最初の実用田植機に用いられた帯苗から、現在のマット苗に移行する中間形式と言える「ひも苗」田植機。1株分の苗は苗ひもを適切な長さに切断して得られる。ひも苗の育苗は、短冊苗より省力的であるものの、マット苗に比較してなお複雑であり、次第にマット苗に転換した。価格171,000円。作業能率10a当たり1~1.5時間。年代:1970年

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水田中耕除草器

利用末期の手押し式水稲中耕除草器。昭和初期、農林省農事試験場技師が鴻巣試験地の工場で製作。「除草」は、田植え・稲刈りほど期間集中せず、加重ではないものの最も長期間にわたり必須な作業であった。本機は稲株の根際までも中耕・除草しうるように、従来の爪車の幅を半分にし、稲株をまたいで使用するようにした。昭和40年代の除草剤の普及により、除草作業は格段に省力化された。年代:1930年

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刈取機

普及型人力手押し刈り取り機。関農具商会(岡山県津山町)製。1925(大正14)年の農林省委託大日本農会の稲麦刈取機の設計図面の懸賞募集に入選、つづいて大正15年の刈取機懸賞募集に入選した。前部の搬送部から送り込まれてくる稲稈は、1枚の鎌状固定刃で刈り取られ、後部の収納箱に収容され、レバー操作により放出される。人力用刈取機は、多くの篤農家・野鍛冶により、様々な形式が開発・利用され、我が国における本格的な圃場農作業機械化の嚆矢となった。年代:1925年

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結束機

刈り取った稲束をハンドリング単位に束ねる人力結束作業機。大正末~昭和初期、五光技研工業株式会社(愛媛県)製。作物の収穫、具体的には稲の刈り取りとハンドリングは最も重労働であり、人力に依存する時代にも多くの工夫が行われた。誘導アームにより刈り倒し集束した稲稈を抱きかかえ込むようにハンドルを閉じると、縄捻鉤(なわねじりかぎ)と嵌込軸が作用して縄を捻り、嵌め込んで直径5~15cmに結束する。昭和中期のバインダ(稲刈り取り結束作業機)のメカに採用されたが、コンバインの普及により、結束作業行程そのものが消滅した。年代:1925年

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連枷(れんが)

一説によれば数千年に渡り利用された脱穀用具。古く中国より伝来。「からさお」、「めぐり棒」、「くるり捧」などとも呼ばれ、竹の柄の先端に横木をわたし、この横木に回転できるようにした堅木(または竹を編んだもの)を取り付け、筵(むしろ)に麦類・豆類・菜種、脱粒性の良い品種の稲などを敷き広げ、これを上からたたいて脱穀・脱莢(だっきょう)する。脱穀は収穫・刈取りに次ぐ重要にして加重な作業である。なお脱粒性の良くない一般的な稲には扱箸が用いられた。

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千歯稲扱

普及末期モデルの千歯稲扱。窪添之助(大阪府堺市)が1902(明治35)年に扱歯の並びを彎曲させ、作業効率を上げて特許を得た。千歯は元禄期に竹製の扱歯で考案されたと伝えられ、漸時扱箸を駆逐し、明治中期から鉄製扱歯が普及した。日本農具製造株式会社(神戸市)で量産、当時の価格は3円で、1911(明治44)年の年産5万挺。朝鮮、南アメリカ、フィリピンにも販売し、同年、帝国農会主催の全国農具展覧会で4等賞受賞。千歯は神事等、少量の脱穀機として現在も一部で用いられている。年代:1902年

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脱穀機:西谷・福永式

現存する最古の足踏み回転脱穀機。福永章一(山口県佐波郡牟礼村)によって考案され1911(明治44)年に特許第19621号を得ている。その後、1913(大正2)年に山口県を除く地での製作販売の権利を西谷繁雄(東京)に譲渡し、西谷が改良を加え、西谷・福永式として販売した。脱穀機の登場によって千歯は消滅に向かう。年代:1911年

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脱穀機:岡市式

広く普及した中期の足踏み回転脱穀機。岡市農具製作所(大阪府北河内郡川越村)の岡市半兵衛が開発製造。1924(大正13)年に実用新案80539号を得ている。架台は鉄製、三角型扱歯は遊動式で、遠心力により扱歯が伸出する機構は独特であり、国内に止まらず満州・台湾・朝鮮などでも販売された。さらに改良が加えられた脱穀機構は、足踏み式から動力脱穀機に発展し昭和末期には自脱型コンバインの心臓部に組み込まれた。年代:1924年

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製縄機

世界初と推定される人力用製縄機。開発した宮崎林三郎は盲人でありながら1905(明治38)年に特許を取得、製縄機の開祖といわれる。1911(明治44)年の帝国農会主催全国農具展覧会に出品し、5等賞受賞。人力用として開発された製縄機は、その後動力に電動機を用いるようになり、昭和中期まで主要な農機具として広く用いられた。年代:1905年

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牽引動力計

牛馬の牽引力または被牽引作業機の抵抗力を測定する計器。昭和初期、国立の農業試験研究組織であった農事試験場の技師が試作し、改良を加え用いられた。耕鞍の左右に円筒形コイルバネの牽引動力計を取りつけ、上部の糸巻車によって記録紙を巻き取りながら牽引力を記録する。年代:1935年

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腰掛式洗落し便器 C14

それまで使用されてきた洗落し式便器(C15)の高さを日本人の体格に合わせて低くしたもの。座面が小さく、水たまり面が狭いため汚れやすい欠点があったが、昭和時代中期のトイレの水洗化工事の際の代表的な製品として多く採用された。     年代:1957年

情報所有館 : TOTOミュージアム 


腰掛式洗落し便器 C15

ヨーロッパの影響を受けて廉価品として開発された腰掛便器。便器の高さが日本人には高すぎるため、後に高さの低い便器(C14)にモデルチェンジされた昭和初期の代表的な水洗便器である。年代:1929年

情報所有館 : TOTOミュージアム 


腰掛式サイホン便器 C21

サイホン作用を利用して洗浄する水洗便器。座面が大きく、水たまり面が洗落し便器よりも広いため、中級クラスの便器として多く採用された。年代:1955年

情報所有館 : TOTOミュージアム 


腰掛式サイホンゼット便器 C38

昭和時代初期に開発されたサイホンゼット式の国産初の高級便器。サイホン作用とゼット噴流による強力な洗浄方式の採用で、座面が大きいためゆったり座れ、水たまり面が広くて汚れにくい大型の水洗便器の商品化が実現。帝国議会議事堂を始めとした昭和時代初期の賓客が使用する著名な建物に採用された。年代:1927年

情報所有館 : TOTOミュージアム 


腰掛式サイホンゼット便器 C710&S710B

最初の節水便器として開発されたサイホンゼット式の便器。それまでのサイホンゼット便器は洗浄に20Lの水を消費していたが、この便器の登場により洗浄水量は13Lになった。年代:1976年

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ウォシュレットクイーン TCF950

便器とウォシュレットを一体化し、両者をトータルデザインした初代機種。従来のウォシュレットが有していた「おしり洗浄」「ビデ洗浄」「温風乾燥」「暖房便座」の機能に加え、「洗浄ノズル位置調節」や「ムーブ洗浄機能」、手元でらくらく操作できる「ワイヤレスリモコン」など12の特長を備えた豪華な多機能便器である。年代:1987年

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ネオレストEX1 CES990B

ローシルエットタイプのタンクレス便器で、洗浄用のタンクがないため、トイレ空間を広く見せることができるのが特長。水道直圧式で、洗浄はシーケンシャルバルブで行い、便器洗浄に最適な水量を自動制御するしくみになっている。年代:1993年

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幼児用便器 C40

保育園児用の高さの低い国産初の腰掛便器。保育園のトイレに設置され、そこで園児が使用する。排泄行為が自分でできるようになることは子どもの成長過程においてとても重要なことで、大人の手を借りることなく使用できる大きさの便器の存在は大きな意味がある。年代:1959年

情報所有館 : TOTOミュージアム 


力士用便器 CZ432

日本相撲協会からの要請を受けて、大相撲の力士のために開発した便器。力士の体格に合わせて、座面の大きさを幅5cm、奥行き7cm大きくしている。座ったときに破損しないように便座の厚みを厚くした便座を組み合わせて使用する。年代:1985年

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