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フォードソントラクタ

1922(大正11)年フォードソン社製(アメリカ)。F22馬力。クランクハンドルでガソリン始動、石油に切り替え、内燃機関としては初期の80年前のもの。1923(大正12)年八雲町徳川農場で導入、国内で2~3台目のもの。当時の価格1、910円は米140俵ほどの時代、付近の農家の驚きの様子が八雲町史に記されている。徳川農場閉鎖になり、後に元山氏が譲り受け、使用、保存していた。国内現存機種では希少価値の高い産業遺産の1台。年代:1922年

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ファモールカブトラクタ

1951(昭和26)年インターナショナルハーベスター社製(アメリカ)。CUB型9,75馬力。ガソリンエンジン。1951(昭和26)年奈井江町北修二氏導入。価格は80万円当時農家1年の販売高が6~70万の頃、機械化の先鞭をつける導入だったという。モーアでの牧草刈りなど威力を発揮した。50年を過ぎた今も部品供給がなされている。同型は以後8年間に道内で108台導入している。年代:1951年

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トラクターA館

土の館は1992(平成4)年開館し、本館の他、トラクター館A,B館(北海道の戦後開拓当時の50~60年前のトラクターが80台展示しています)プラウ館などが併設しています。また、2004年北海道遺産にも選定されています。

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灰釉縄手付瓶

広久手F窯跡出土。高さ26.7cm。瀬戸窯の発生期に位置付けられるとともに、古代灰釉陶器の最末期に属するものです。粘土紐を貼り合わせた把手と頚部の基部に巡る突帯が特徴で、器面全体に灰釉が刷毛塗りされています。なお、本器は底部周辺を欠いていて、本来は平底であったと思われます。年代:11世紀後期

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灰釉締腰形瓶子

数成口窯出土。高さ32.5cm。中世で唯一の国産施釉陶器である「古瀬戸」の瓶子。古瀬戸の前期に位置付けられます。肩部二段に櫛描き沈線が巡ることが特徴となっています。年代:13世紀中期

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入子

針原2号窯出土。入子は古瀬戸前Ⅰ期の13世紀前期より登場してくる器種です。無釉の器で、重ねて焼成されます。この入子は、9個体をセットで重ねられます。用途について確かなことはわかりませんが、消費地遺跡で出土した入子には、紅の痕跡があるものがあることから、 化粧入(紅入れ)ではないかと考えられています。年代:14世紀前期

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鉄釉印花文蓮弁香炉

出土地不明。高8.2cm。古瀬戸中期は、スタンプで押す印花(いんか)文、ヘラなどで削る画花(かっか)文、粘土の飾りを貼り付ける貼花(ちょうか)文といった文様の技法が花開くとともに、新たに鉄釉の使用が始まる時代です。本作品は袴腰形の香炉で、口縁部には波状縁帯を持ち、胴部には印花で、腰部には貼花で蓮の花弁が装飾され、器体全体が蓮を表現しています。年代:14世紀前期

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鉄釉天目茶碗

出土地不明。高6.1cm。口縁部のくびれはほとんどなく、削り出しの輪高台で、その周囲に段はなく、白い胎土が見えています。この時代の典型的な天目茶碗です。鉄釉の施された上に焼成時に灰がかかり、溶けて流れる様が趣きのある景色となっています。年代:14世紀前期

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鉄釉大海茶入

伝桧平窯跡出土。高4.5cm。瀬戸窯では14世紀中頃には肩の張る胴長の肩衝形・口の広い大海形・頸部に粘土塊を貼り付けた擂座形・細頸の丸壺形の4種類の茶入が生産されました。本作品は大海茶入の典型的な例で、肩の張りが強く、胴部には沈線が一周しています。鉄分の多い土を胎土に使用して非常に薄手に制作されており、中国製品をよく模倣した優品です。年代:14世紀中期

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鉄釉四耳壺

重要有形民俗文化財。「慶長 藤四郎 元年」刻銘。幅24.3cm。端正な球状の体部に大形の耳を伴う四耳壺で、やや赤味のある黝灰(ゆうかい)色で緻密な胎土が用いられています。釉薬が重ねて掛けられ、特に耳の間の肩部から釉薬が流れ落ちるように意識的に掛けられていますが、釉薬が混ざり合い飴色から褐色気味の発色をしています。年代:慶長元年(1596)

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鳴海織部沓形茶碗

重要有形民俗文化財。口径13.8cm。白土と鉄分を含んだ赤土の二種類をつなぎ合わせた沓形の茶碗です。白土には緑釉を、赤土には長石釉をかけて片身替わりにしたものです。文様は赤土部分に白化粧土と鉄絵で描かれます。年代:江戸時代前期

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鉄釉十一面観音像

赤津窯加右エ門。高38.7cm。どっしりと立つ大柄な体型や、大きな手足、おたふくを連想させるふっくらとした顔の表情は観音像の造形としては珍しいですが、見る者に大らかで明るい印象を与える良い作品です。全体に鉄釉が施されていますが、顔と両手足は無釉。胎土に鉄を含んだ土を使用しており、全体の色調が整えられています。背中に「慶安四年七月吉日 飽津窯加右エ門」と銘が彫られています。年代:慶安4年(1651年)

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鉄釉敷瓦

穴田窯出土。幅30cm。瀬戸市の北部にある定光寺に建てられた尾張徳川家藩祖徳川義直公の廟所の源敬公廟の焼香殿に使用されたものと同型の敷瓦です。この敷瓦は日本のタイルの黎明期のものといわれ、濃い鉄釉が全面に施され、薄い鉄釉で中央に花文、対角に唐草文が描かれています。年代:17世紀中期

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馬の目皿

口径30.7cm。皿の内面に茶色の鉄系顔料で渦巻き文様が数個描かれているもので、この渦巻き文様が「馬の目玉」のように見えることから後にこの名前がついたといわれています。馬の目皿は一見単調に見えますが、渦巻き文様だけでも千差万別で、その数は3個から10個までと様々です。また、見込み部分に絵の描かれているものもあります。年代:19世紀中期

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松竹梅文石皿

口径27cm。皿の縁が鍔のように突き出た厚手の皿で、この形状は割れにくく、持ち運びが便利という実用性を重視したものだといわれています。石皿は見込みに絵が描かれているものがあり、青色の呉須と茶色の鉄系顔料の二色が必ず使用されています。描かれている文様は、柳、菊、桜などの草木文を始めとして松竹梅、鶴亀、宝珠などの縁起のよいものや判じ絵など多岐にわたります。年代:19世紀中期

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駱駝文行燈皿

口径19.7cm。行燈皿は、行燈の台に置き、その燈火から落ちる油を受けたり、油注ぎを置く台として使用される皿で、別名「油皿」とも呼ばれます。この皿には高台がなく、こぼれた油をこぼさないように皿の縁が立ちあがった形状になっているのが特徴です。行燈皿は、茶色の鉄系顔料で絵が描かれているものが多く、その絵は行燈の灯りでほのかに照らし出されることを考え、落ち着いた雰囲気のものが主流となっています。年代:19世紀中期

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水禽文絵高麗

口径31.6cm。一般的にいわれる絵高麗は中国磁州窯製の白化粧の鉄絵皿などを指しますが、瀬戸では白化粧した素地に鉄系顔料と瀬戸地方独特の赤楽とよばれる顔料を用いて、安南手の獣禽文の絵皿を真似たものをいいます。高麗手ともよばれ、文政5年(1822)に下品野村の加藤定蔵がつくりだしたといわれています。年代:19世紀中期

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染付山水図花瓶

重要有形民俗文化財。伝加藤民吉(初代)伊豆原麻谷 画。高46.8cm。加藤民吉は江戸時代後期の瀬戸村の窯屋。父吉左衛門とともに熱田の新田開発に従事していた際に尾張藩熱田奉行津金文左衛門の指導と援助により南京焼(磁器)の研究を行ない、享和元年(1801)9月、染付磁器の焼成に成功しました。その後、文化元年(1804)に九州へ修業に行き、肥前の技術を瀬戸に伝えて瀬戸の磁器づくりを発展させたことから民吉は瀬戸の磁祖として窯神神社に祀られています。この作品は胴部には山水図、下部には龍が描かれ、底部には尾張を示す「張」の染付銘が記されています。年代:19世紀前期

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染付山水図三段重

重要有形民俗文化財。伝 加藤忠治。高さ18.3cm。加藤忠治は江戸時代後期の瀬戸の窯屋で、享和元年(1801)、瀬戸において最初に磁器生産へ転じた十六家に名を連ねました。また、染付焼茶碗を12俵(約1200個)を尾張藩の蔵元へ最初に納めています。忠司の作品は山水画に巧みで、良質の呉須を豊富に使用することから、発色が鮮やかで、瑠璃釉に近い色合いが特徴です。年代:江戸時代後期

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染付花鳥図獅子鈕蓋付大飾壺

初代 川本桝吉。高さ96.0cm。川本桝吉は瀬戸で「竒陶軒」と号し、三代にわたって陶磁器生産を行った窯屋。初代は、安政4年(1857)に同村の窯屋四代川本半助の婿養子となり、五代半助を襲名しました。文久2年(1862)分家し、輸出向け製品の他、博覧会向の作品も多く製作し、国内外で高い評価を得ました。本作品は、ドイツからの里帰り品で瀬戸市指定文化財です。南画系の繊細な染付画は当時の瀬戸染付の特徴です。下部の龍は注口となっており、ドイツではワインを入れる容器として使われたと伝わります。なお、染付銘から、明治9年(1876)に開催されたフィラデルフィア万国博覧会に出品されたと考えられます。年代:明治9年(1876)頃

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釉下彩花唐草文大燈籠

二代 加藤杢左衛門。高さ191.0cm。瀬戸市指定文化財。二代杢左衛門は大物づくりに秀で、飾壺や円卓、燈籠など数々の大物製品を製作し、国内外の博覧会へ多く出品しました。この燈籠はイギリスからの里帰り品で、明治11年(1878)のパリ万国博覧会に出品されたと推定されています。二代杢左衛門はこの燈籠の他、秋葉総本殿可睡斎(静岡県袋井市)や善光寺(長野県長野市)にも染付燈籠を奉納しており、明治時代前~中期にかけて大物の製作をしていたと考えられます。最下段の台部に「日本瀬戸加藤杢左製」染付銘があります。年代:明治11年(1878)頃

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染付花鳥図大飾壺(一対)

二代 加藤杢左衛門。高さ172.0cm。重要有形民俗文化財。加藤杢左衛門家は江戸時代から昭和初期に三代にわたり活躍した瀬戸の窯屋で、瀬戸屈指の名家です。 二代杢左衛門は大物づくりに秀で、飾壺や円卓、燈籠など数々の大物製品を製作して国内外の博覧会へ多く出品し、賞牌を受けています。この大飾壺も博覧会に出品するために作られたと考えられ、胴部の染付は富士山を背景に草花や松、雉や鷹などが非常に細かく描き込まれています。年代:19世紀後期

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染付鳳凰唐草文大鉢

二代 加藤周兵衛。「日本瀬戸白雲堂周兵エ精製」染付銘。口径37.0cm。瀬戸の南新谷地区で「白雲堂」と号して、主に染付磁器の生産を行った窯屋の二代目。初代周兵衛の長男徳七で、明治10年(1877)に二代周兵衛として事業を継承し、主に米国・英国向の食器類を生産しました。森村組(現ノリタケカンパニーリミテド)の指定工場として、輸出ディナーセットを手掛けました。特に薄い素地に細い線で着画した製品で好評を得ました。本作品は、大型の鉢で、おそらくパンチボールとしてつくられたとみられます。描かれた鳳凰唐草文様は、白雲堂の得意とする絵柄で、様々な機種に描かれています。年代:明治時代前期

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磁胎七宝衣に花蝶文耳付花瓶

六代 川本半助。「川本半助」染付銘。高さ30.5cm。瀬戸の郷地区で「真陶園」「山半」と号して磁器生産を行った窯屋の六代目。天保15年(1844)、四代半助の長男として生まれ、慶応元年(1865)六代半助を襲名します。製磁技術の開発に熱心で、黒・茶の色釉を発明しています。本作品は磁製の素地外面に有線七宝を施したもので、衣の部分には上絵が施される大変手の込んだ作品です。陶磁胎七宝は江戸時代末期に開発され、その後明治時代盛んに生産されますが、明治10年代後半にはその姿をほとんど消してしまいます。年代:明治時代前期

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染付草花図向高

加藤紋右衛門(六代)。「還情園池紋製」染付銘。高さ65.3cm。この作品は磁器製の小便器で、こうした磁器製便器は陶器製便器が製作され始めた頃と同時期の明治中期に生産が始まりました。磁器製便器は、焼成した窯の名前から「丸窯便器」ともよばれ、手描きの染付による花鳥文や祥瑞文が施され、高級品として市場に登場しました。年代:19世後期~20世紀初め

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銅版染付杵兎文敷瓦

加藤治右衛門。幅24.5cm。明治時代になって西洋文化の流入による日本人の衛生意識の高まりとともに、建築用材としてタイルが使用されるようになりました。この動きに目を付けた瀬戸の窯屋が日本の中でいち早く生産に取り掛かったのが本業敷瓦です。「本業」とは瀬戸では陶器を指す言葉で、「本業敷瓦」は「陶器製タイル」ということになり、陶器製の素地の上に化粧土をかけて焼き上がりを白くし、磁器製品らしく仕上げ、明治20年代から普及しだした絵付方法である銅版転写の技術を駆使して、量産を可能にした国産の量産タイルの第一号ともいえるものです。年代:20世紀初め

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染付千羽鶴段重

庄平窯。山田良治画。高さ24.5cm。磁器製の四段重で、大正から昭和にかけて染付画の名人と謳われた山田良治の手による千羽鶴が細密に描かれた作品です。年代:20世紀

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防衛食器

戦時中つくられた缶詰の代用品です。昭和18年(1943)頃から試作が始まりました。中身は、大豆、にしん、こんぶなどが入れられたようです。封の方法は、まず容器に食品を入れ、ゴムパッキンを挟んで蓋をします。圧力ばさみで蓋と容器を密着させたまま、熱湯、冷水の順に浸します。すると容器の中は真空状態となり、密閉保存される仕組みです。缶を開けるときは、蓋の中央にあるくぼみを突きます。そこは薄いガラス状の被膜になっているため孔が開き、容器の中に空気が入って蓋が開きます。年代:昭和18年(1943)頃~昭和20年(1945)頃まで

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陶製鏡餅

昭和14年(1939)頃、食料の供給減少などの情勢をうけて、代用品の鏡餅が流通するようになりました。「三分搗きの黒い米の時代に、ネズミにかじられない白い餅が飾れる」と好評だったそうです。年代:昭和14年(1939)頃

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陶貨(一銭、五銭、十銭)

太平洋戦争中、お寺の鐘や家庭の金属製品などを武器の材料としての回収が進められるとともに、様々な代用品がつくられました。昭和18年(1943)頃、硬貨もまた将来の原料不足を見越して、やきものによる代用貨幣の開発が始められました。試作は、瀬戸・有田・京都で進められ、昭和19年(1944)から順次生産に取り掛かりますが、終戦を迎え流通することはありませんでした。瀬戸では一銭・五銭・十銭が生産され、その数量は約1300万枚。そのほとんどは占領軍の進駐の前に粉砕処理されました。そのため現存するものはわずかで、流通しなかったことも含め、「幻の陶貨」と呼ばれています。年代:昭和20年(1945)

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風に向かって立つ男女

光和陶器株式会社。高38.6cm。男女一対のこの作品は風になびく髪の毛や服の様子が細かく表現され、石膏型による鋳込成形の技術の高さが感じられます。戦後、大型のノベルティが生産されるようになりますが、その中でも30センチを超える見栄えのする作品の一つです。年代:昭和時代

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白頭鷲

光和陶器株式会社。高46.0cm。瀬戸では装飾用のやきものの置物をノベルティと呼びます。ノベルティは主にアメリカ向け輸出品として生産され、その種類は多彩で、人形・鳥・動物・花・装飾付食器や花瓶など様々です。本作品は大手ノベルティメーカー・光和陶器が昭和時代に製造したもの。鳥の羽根や土台の岩や木など写実的な表現が特徴的です。ノベルティの製作は原画から原型師が粘土で製作した原型をもとに石膏型をおこし、泥漿を流し込んで形をつくります。複雑な鳥は頭、胴、羽、脚など細かく部品に分けて成形し、粘土で接着して焼成。焼成後に上絵付を施してさらに焼成して完成させます。年代:昭和時代

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アン王女

テーケー名古屋人形製陶株式会社。高37.0cm。瀬戸ではレース状の飾りのついたノベルティをレース人形と呼びます。レース人形は粘土を着けた布レースに襞を寄せて、人形のボディに接着して本焼成したもので、ノベルティの中でも高級な花形商品として輸出されました。通常は衣類の表現の一部にレース飾りが使用されるますが、本作品は衣類そのものを全てレースで再現したもので、総レース人形と呼ばれます。元々はアメリカで始まったレースドールの技術を取り入れ、テーケー名古屋人形製陶がノベルティの技術を活かして瀬戸市では初めて開発しました。年代:平成3年(1991)

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赤絵枝梅竹文碗

沖縄本島中部以北から採れる赤土と白土を使い、釉薬をかけて焼きあげた施釉陶器を沖縄では上焼(ジョウヤチ)と呼んでいる。上焼の多くは、赤土で成形したあと器の表面を白くするため白土をかける「白化粧」という技法が施されている。本作品もそれに当たる。透明釉を施し本焼をしたあと、上絵具で彩色し、800℃ほどで焼き付ける「赤絵」の技法により、正面に梅が、その背面に松が描かれている。梅は緑色の枝に赤、黄、桃色をした花が描かれ、竹は緑と青で描かれている。沖縄県立博物館・美術館所蔵の沖縄県指定有形文化財「枝梅竹文赤絵碗」と同系統の作品である。【壺屋焼/19世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


緑釉嘉瓶

焼成時にとけて流れた緑釉の濃淡が鮮やかなグラデーションとなり外面全体を覆っている。このような形の製品を沖縄では嘉瓶(ユシビン)と呼んでいる。嘉瓶とは、お祝い事に使用される沖縄独特の酒器のこと。ご祝儀用の泡盛を入れて、お祝いの相手方に贈るために使われた。贈られた嘉瓶は中の泡盛を他の容器に移したあと、持ち主に返される。そのため、なかには肩のあたりに家紋が入っている嘉瓶もある。嘉瓶の「ユシ」は、沖縄の言葉でおめでたいことを意味する「カリユシ」に通じるといわれる。嘉瓶がひょうたんの様な形をしているのは、くびれている事で小脇に抱えやすい為だといわれている。【壺屋焼/19世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


飴釉抱瓶

外面全体に掛けられた飴釉の発色が鮮やかな作品である。このような形の製品を沖縄では抱瓶(ダチビン)と呼んでいる。抱瓶とは、携帯用の酒器のことで、左右の耳に紐を通し、肩から吊るして持ち運んだ。腰に当てるため三日月状の形をしているのが特徴で、沖縄独特の形である。琉球王府時代、地方の豪農たちが持ち、外出時に携帯したものとされる。【壺屋焼/18世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


掛分飛鉋飴釉流渡名喜瓶

口縁から肩まで飴釉が、腰部から底部にかけて白化粧と透明釉が施されている。胴部には、ロクロを回転させながら器に鉤状の鉋で刻み目を入れる「飛鉋(とびかんな)」という技法で模様が刻まれ、飴釉が流し掛けられている。このような形の製品を沖縄では渡名喜瓶(トナキビン)と呼んでいる。渡名喜瓶とは、泡盛を墓前に供えるために使われた酒器である。【壺屋焼/18~19世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


掛け分け緑釉流し竹型花生け

異なる色の釉薬を分けて掛ける「掛け分け」という技法で、口縁部から胴部に透明釉が、胴部から底部に飴釉が掛けられている。また、釉薬で流し文様をつける「流し掛け」の技法で口縁部から胴部にかけて掛け流された緑釉が鮮やかに発色している。竹の形をかたどった花生けである。【壺屋焼/19世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


酒壺

沖縄本島中南部から採れるジャーガルと呼ばれる黒土と、島尻マージと呼ばれる赤土を使い、釉薬を掛けない陶器、および泥釉・マンガン釉を掛けた陶器を沖縄では荒焼(アラヤチ)と呼んでいる。荒焼は水甕、味噌甕、酒甕など貯蔵を目的とした大型のものから、升瓶などの小型の製品まで作られている。本作品は酒を貯えるのに用いた酒壺である。外面全体にマンガン釉が掛けられ、口縁から胴部にかけて、焼成時に窯の中でふりかかった灰が自然釉となり景色をうんでいる。胴部には2本筋の線模様が描かれ、肩には3つの耳が付けられている。【壺屋焼/19世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


縄目文水甕

無釉の陶器で、水を貯蔵するために使われた。縄目文は粘土で作ったひもをぐるりと巻き、指で凹凸をつけるもので、古い水甕に見られる。頚部には帯(ウービ)と呼ばれる線がヘラで描かれている。【壺屋焼/19世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


竜巻盛り付け透かし彫り壺

外面全体にマンガン釉が掛けられている。胴部には波文が透かし彫りの技法でくりぬかれ、盛り付けの技法で竜と雲が施されている。盛り付けとは仕上がった器面に、粘土で作った文様を施す技法で、沖縄ではタックヮーサーと呼ばれている。頚部にはシーサーが盛り付けられている。【壺屋焼/20世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


味噌甕

無釉の陶器で、味噌を仕込んで貯蔵するために用いられた。肩にはヘラ描きで二本筋が、その上には耳が3つ施されている。戦前は多くの家庭で自家製の味噌を作っており、味噌は貴重な貯蔵食品であった。【壺屋焼/20世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


スーチカーガーミ

無釉の陶器で、塩漬けの豚肉を入れるために使われた。肩にはヘラ描きで二本筋が、その上には窯印が施されている。荒焼用の単室登り窯ではそれぞれの窯元の製品をまとめて窯に詰めて焼成するため、窯印をつけてどの工房の製品かわかるようにされているものがある。豚肉は沖縄を代表する食材。戦前は養豚も家庭単位で行われていた。【壺屋焼/20世紀】

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シーサー

シーサーの原形はオリエントやインドに生息していたライオンといわれる。シルクロードを通って中国に伝わる間に姿・形を変えて獅子になり、13~15世紀頃沖縄に伝わり独特のシーサーになった。14世紀頃シーサーは王族の権力の象徴として、寺社や王族の墓などに用いられた。17世紀頃になると、村落の入口などに石獅子が魔よけや火災よけとして置かれるようになった。作者の國場真一(1887~1968)は、陶工達の間でも「彼の右に出るものはいない」と称されるほどシーサーの名工として知られていた。尻を立て威嚇する姿勢や顔を横に向けるスタイルは彼が考案したものといわれている。【國場真一作/20世紀】

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チブルシーサー

壺屋焼の荒焼の製法で作られた頭部(チブル)だけのシーサー。陶製のシーサーが壺屋で作られるようになったのは19世紀末期から。始めに作られたのが荒焼のチブル(頭部)シーサー。そのころ、瓦葺き職人が瓦と漆喰で作る漆喰シーサーも普及していった。大正から昭和にかけて全身像のシーサーが焼物で作られるようになり、戦後は上焼のシーサーなども作られるようになった。現在では、屋根の上や門柱に据えられているシーサーを沖縄の至る所で見ることができる。【壺屋焼/19世紀】

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白土焼締シーサー

白土で成形し焼成した作品。作者小橋川永仁(1922~1977)は、ロクロの技術は父・仁王から、絵付けは兄・永昌から、そしてシーサー作りは國場真一から学んだ。壺屋の伝統を守りつつ新しい技術を取り入れる革新的存在であり、シーサー作りに石膏型を利用したのは永仁が最初といわれている。非常にアイディアが豊富で、シーサー形の灰皿を考案するなど、新しい形の製品を次々と生み出した。壺屋陶器事業協同組合の初代理事長として壺屋焼の発展に貢献した。【小橋川永仁作/20世紀】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


線彫双魚文皿

皿の中央に二尾の魚が、縁には2本筋と連弁文様が線彫りで描かれている。飴釉、濃紺、鮮やかな青色に発色するそれぞれの釉薬を使い分けて画面の構成を行っている。1963年12月に行われた第6回壺屋陶芸三人展出品作品である。濱田庄司は「次郎の魚は笑っている」と評した。金城次郎(1911~2004)は沖縄県真和志村字与儀(現那覇市)生まれの陶芸家。1985年に国指定重要無形文化財「琉球陶器」の保持者(人間国宝)に認定されている。魚文がトレードマークともいえる次郎だが、インタビューで「沖縄は海に囲まれているので、沖縄らしい模様を作りたかった。そこで魚と海老を選んだ」と答えている。【金城次郎作/1963年】

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イッチン魚文皿

器全体に鉄釉が施されている。スポイト状の道具を使い、液体状にした白土で模様を描くイッチンと呼ばれる技法で、魚と波紋が描かれている。また、口縁部にも白土がぬられ、器面全体を引き締めている。底部・高台内には「金次」の刻銘がある。高台には紐が通せるように穴が二つあけられており、壁面に下げる飾り皿としての意図がうかがえる。琉球電信電話公社総裁でもあり、また沖縄民藝協会を支えた人物の1人でもある新里善福の旧蔵作品。【金城次郎作/1960年代】

情報所有館 : 那覇市立壺屋焼物博物館 


指描唐草文双耳壺

口縁に緑釉が、外面全体に透明釉が施されている。外面は白化粧が施されているが、乾く前に指でふき取られ、唐草模様が描かれている。肩には2つ耳が付けられている。【金城次郎作1960年代末~1970年代】

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線彫魚・海老文壺

口縁に緑釉が施されている。外面全体に魚と海老が様々な模様とともに線彫りで描かれており、文様部分は青と飴色の釉薬で彩色されている。【金城次郎作/1970年代前半】

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