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武徳ポスター原画

村井兄弟商会のたばこ「武徳」のポスター原画。明治を代表するたばこ商村井兄弟商会は、東洋印刷株式会社を設立し、趣向に富んだパッケージやポスターで岩谷商会と宣伝合戦を繰り広げた。水彩画で、右下の白く塗られた部分はたばこパッケージ用のスペースとなっている。この原画は同寸法の石版に転写され印刷された。年代:明治35年

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武徳ポスター

村井兄弟商会のたばこ「武徳」のポスター。石版印刷で作成されており、原画に忠実な仕上がりとなっている。原画で白く塗られていた部分にパッケージが描かれている。明治を代表するたばこ商村井兄弟商会は、東洋印刷株式会社を設立し、趣向に富んだパッケージやポスターで岩谷商会と宣伝合戦を繰り広げた。年代:明治35年

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大きせる形提灯看板(複製)

明治20年代に長野で使われていた紙製提灯看板。高さは3.8mにも及ぶ。毎年の初売に出されていた。年代:明治20年代

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天狗煙草看板

明治を代表するたばこ商岩谷商会の看板。岩谷は自社商品に「天狗」と名付けたため、看板には天狗煙草と表記されている。販売中の銘柄に並んで「勿驚税金三百万圓/慈善職工三十万人」といった文句が記されているが、岩谷はその隆盛を示すため、税額や職工人数を年々増やしていった。

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村井兄弟商会人形形看板

明治を代表するたばこ商村井兄弟商会の看板。看板の人形は会社のマスコット的存在で、人形の身体部分は自社のパッケージで作られている。アメリカのたばこ会社と提携関係にあった村井兄弟商会らしく、銘柄には横文字が多くみられる。

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鋳鉄釜

海水を濃縮した、かん水を煮詰めるための釜。直径180cm、深さ30cm、重さ160kg。昭和初期から昭和58年(1983)までの約60年間能登で使われていたもの。

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塩用叺(40kg)

明治38年の塩専売制施行により塩の包装も俵から叺に変更された。昭和30年に専売公社が試験的に導入した紙袋包装が定着し、昭和40年頃に藁製の塩用叺も自然と廃止された。当館で所蔵しているのは、当時の職人が当時の叺織機をもって平成年間に制作したもので、農林物資規格法(昭和25年)に基づき規格化された40kg入となっている。

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入浜式塩田模型

瀬戸内地方の入浜式製塩のジオラマ。入浜式製塩は、潮の干満を利用して海水を自動的に塩浜へ導入する製塩法で、干満差の大きい内海や干潟の発達した場所に多く見られた。江戸時代初期には大規模な「入浜式塩田」が瀬戸内海沿岸に築造されて日本の製塩の主流となった。昭和30年頃まで日本独特の製塩法として盛んに行われた。

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流下式塩田模型

流下式塩田は昭和20年代後半から入浜式塩田に替わって導入され、昭和46年まで行われた。表面に粘土を張り、ゆるい傾斜をつけた流下版のうえに海水を流し、太陽熱で水分を蒸発させる。次に竹の枝を組んだ枝条架の上から滴下させ、風力によって蒸発させて鹹水をとる方法。大量の砂を動かす重労働がなくなり、年間の稼働日数も多くとれるため入浜式製塩に比して生産量は2.5-3倍と大幅に増加した。

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洋式平釜模型

明治中期以降、欧米の塩釜にならってさまざまな洋式の鉄釜が考案され、石釜に替わって導入された。大正末期には「十州塩田」のほとんどが鉄製の塩釜となった。浅い角型の開放釜で、総称して平釜と呼ばれた。煙の熱を呼び熱に利用している分、在来の塩釜より燃料効率が改善されているが、蒸気の熱は利用されずに逃げる構造であった。

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蒸気利用式塩釜

平釜では、鹹水を煮詰める際に発生する蒸気は、大気中に拡散してしまっていたが、この蒸気を逃さず、その熱も鹹水の加熱に有効利用するようにしたのが蒸気利用式塩釜である。平釜に比して石炭使用量は半減し、大量生産が可能になった。昭和初期から30年代にかけて広く使われた。

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焼塩壷

塩を高温加熱して塩化マグネシウムを酸化させたものを焼塩という。これは吸湿性を低下させ運搬をたやすくしたもので、その際に用いた湯呑み程度の大きさの壷が焼塩壷である。焼塩は進物として用いられたらしく、箱書きには「泉州 堺」とあるものも見られる。これは瀬戸内沿岸で製造された塩が堺を経由して各地に運ばれていったためだが、ブランドとして表記された可能性も否定できず、必ずしも産地を特定するものではない。

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明治、大正時代の歯科用足踏みエンジン

1872年にニューヨークで売り出された足踏みエンジンはむし歯の治療、歯の清掃・研磨、歯科技工の作業などに用いられた。それ以前にも個人的には使われていたが、公表はされなかった。日本にも明治初期(明治12・3年頃)輸入され、盛んに使用し、国産でも作られるようになった。日本では歯科技工用を含めると、1955(昭和30)年頃まで使われていた。展示品の本体は1900年頃のものと思われる。狭い口腔内で作業をするので、歯科医が把持する部分の機器は交換が可能になっている。その交換部品(ハンドピース)のうち当館には1890年特許のS.S.ホワイト社ライトアングル及びコントラアングルなどがある。 年代:共に1900年頃

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1900年頃のDistributing Panel(アメリカ、リッター社製)

1900年頃の治療室は歯科用椅子にうがいをした水を吐く“唾吐き”が付いており、足踏みエンジンが置いてある程度だった。その頃アメリカのリッター社はDistributing Panelを発売した。これは歯科治療に必要な電機系を板上にまとめた歯科用ユニットの原形である。また、その頃の建物の壁面には電気の配線はされていなかった。当博物館にはDistributing Panelが展示してある。それ以後これを基として歯科用ユニットが開発された。このPanelは非常に数少なく珍しいものである。エアーコンプレッサーと連結され、温度調節可能なエアーシリンジ、電気焼灼器、照射ランプ、時計などが備えられている。年代:1900年頃

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大正時代の歯科診療ユニット(アメリカ、S.S.ホワイト社製)

歯科用設備はアメリカで発達した。当博物館にはアメリカのS.S.ホワイト社、1915(大正4)年に発売された歯科用ユニットが展示してある。スピットン(唾吐き)は排水管と連結され、電燈、電気エンジン、ブラケットなどが組み込まれている。年代:1915年

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昭和初期の歯科診療ユニット

昭和初期の歯科用ユニットにはエアーシリンジなど、エアーコンプレッサーと連結され照明にも進歩が見られ、シャンデリア等が付属している。

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昭和中期の歯科診療ユニット

昭和中期のユニットで日本のモリタ社。1957(昭和32)年製。エアータービンはまだ付属していない。戦後の日本の技術力を示したものであった。年代:1957年

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大正時代の歯科診療電気エンジン(アメリカ、リッター社製)

足踏みエンジンに代わってモーターの回転を利用して歯や骨を切削出来るセットが発売された。これは世界中の歯科医により使われるようになった。回転数は12000回転くらいまで上がった。当館のスタンド型の電気エンジンは初期のものでリッター社、4000回転。1918(大正7)年に特許を取っている。大正7~8年頃の製品である。他にユニットに取り付けたもの数個ある。年代:1920年頃

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大正時代の歯科用レントゲン撮影装置(アメリカ、リッター社製)

W.C.レントゲンによりレントゲン線が発見されたのは1895(明治28)年である。当博物館にある装置は1921(大正10)年製のもので装置として初期のものである。高圧電流が流れる線が露出しているタイプである。アメリカ、リッター社製。年代:1921年

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大正時代の歯科診療用椅子(チェアー)(アメリカ、リッター社製)

歯科の治療用の専用の椅子が普及したのは1800年代の後半のことである。当博物館には大正時代に製造されたアメリカ・リッター社製の歯科用椅子が展示してある。それ以外の歯科用椅子も展示してある。年代:1910年頃

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大正時代の旅行用軽便木製治療椅子

少数の権威ある歯科医を除いて大部分の歯科医が診療所を定めて診療するようになったのは日本でも、外国でも1800年後半以後のことであり、場所を移動して診療している人が多かった。この椅子は歯科医用の軽便治療椅子(移動用)で現在では大変珍しいものである。昭和初めの中井商店のカタログに載っているので当時でも需要があったらしい。

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1800年代西洋の歯科用手用ドリル

人の歯に穴をあけたり、入れ歯の加工に用いられた。当館に二点あり、切削用ドリルと支えが連なっているのは「Merryのドリル」とも呼ばれるものである。年代:1850年頃

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西洋の抜歯鉗子、エレベーター(移動歯科医携帯用抜歯器具)

西洋の版画には歯を抜くのにヤットコ(釘抜き)などを使っている絵が描かれている。1841年にJohn Tomes(イギリス)は抜歯鉗子を歯牙の解剖学的形態に適応するものであるべきことを提唱した。当博物館には、アメリカ製の移動歯科医の使っていた抜歯道具セットが展示してある。年代:1750~1850年

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昭和戦後開発された歯科用エアータービン

空気の圧力によりタ-ビンを回転させ、油霧と水噴霧を加えて切削するので回転数があがり、画期的な歯科用切削機械となった。切削器具はダイヤモンドの粉末をつけた切削用バーなどを用いて削るので、能率が著しく向上した。回転数は40万rpm程度。当館には開発当初の大型のもの(吉田製作所)のほか、小型化され、ユニットに外付けされたものも数個展示してある。年代:1957年

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西洋の入れ歯[象牙製]

フランスのピエール・フォシャールは1746年に「歯科外科医」第2版で上下の総入れ歯を発表した。それは上下の入れ歯を外側後部でスプリングで連ね、スプリングの弾力によって入れ歯を上下の顎に押し付ける方法であった。これは上の歯が落ちてこない画期的な方法で、多くの人たちから歓迎された。材料は象牙、動物の骨、金属などを用いた。当博物館では象牙や河馬の牙を彫刻したスプリング用金具のついている入れ歯が展示してある。象牙製。年代:1750~1800年

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河馬の牙製の入れ歯

河馬の牙を彫刻して、入れ歯の土台とし、歯の部分は人間の抜けた歯をはめ込んだ入れ歯が数個展示してある。(入手する時の解説で真偽の程は分からないが1815年のウァーテルローの戦死者の歯を使っているという)。年代:1750~1800年

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西洋の陶材製の入れ歯

象牙や動物の牙で作った入れ歯は有機質が腐敗して相当な悪臭をした。1790年頃フランスやイギリスで流行した陶材の入れ歯は悪臭が少ないため流行したらしい。ウエッジウッド社も協力しロンドンでは12000個ほど作られたとされている。当館では、スプリングを装着するための穴があいている入れ歯が展示してある。この陶材入れ歯の下顎の粘膜面には金箔が焼き付けてあり、貴金属を用いると食物残渣の腐敗を防ぐという当時の知恵を見ることができる。陶材製。年代:1790~1800年

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西洋の抜歯器具(ペリカン、歯鍵)

抜歯器具のペリカン(写真左)は1400年頃から1850年頃まで、歯鍵(tooth key:写真右)は1730年頃から1850年頃まで西洋で盛んに使われていた。近代麻酔が発見される以前は、多少軟組織が損傷しても、短時間で手術を終わらせる必要があった。近代麻酔のない当時は大変機能的に優れた器具なので、長年にわたり用いられてきた。日本でも1859(安政6)年に杉生方策が「内服同功」のなかに「歯鍵のことを臂鉤(ひこう)」として「簡便にして患者より其術に堪う便と謂うべし」と紹介している。年代:ペリカン1700~1800年頃、歯鍵1750年頃。

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日本の軍隊(陸軍、海軍)の歯科用治療用具セット

日本軍の抜歯器具、同じく外科道具セット日本海軍の「2号口腔外科器具」、その他往診用電気エンジン(電動切削器具)なども展示してある。年代:1940年

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江戸期から明治にかけてのお歯黒道具

お歯黒道具は、耳だらい、かね椀、かね沸かし、渡し金、お歯黒壺、うがい茶碗、ふし箱(大小)、房楊枝、羽根筆、お歯黒箱である。女性の嫁入りには、お歯黒道具は必需品であった。上流階級のお歯黒道具は、家紋や金蒔絵の漆塗りだった。しかし、庶民用は黒塗りの箱に入った粗末な道具だった。お歯黒に使う「ふし粉、懐中お歯黒」は需要が多く、その広告や紙袋は江戸から明治にかけて数多く見られる。当館にはお歯黒道具や「お歯黒」の紙袋が展示してある。

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お歯黒を描いた浮世絵

平安時代の上流階級の女性は、歯を黒く染めていた。公家の男性が女性の化粧を真似てお歯黒を塗ったと言われている。平安時代の“枕草子”、“紫式部日記”、“源氏物語”には、はぐろ、はぐろめ などの呼び方でお歯黒が出てくる。“源平盛衰記”にもあるように、平家の武将もお歯黒を塗っていた。江戸時代の浮世絵には、お歯黒を塗る女性が多く描かれている。浮世絵は「玉藻前」、「暦中段つくし」、「婦女さとし種」、「時代かがみ」などがある。

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華族のお歯黒の停止(禁止)の太政官日誌、新聞記事

明治政府は開国のあと、1870(明治3)年2月5日に“華族を対象にお歯黒と眉剃り禁止”の布告を出した。その法令や新聞記事が残されている。さらに明治6年3月2日には、昭憲皇太后自らがお歯黒、眉剃りを止められる宣言をおこなった旨の新聞記事がある。しかし、若い女性以外の庶民の間では、お歯黒の習慣は明治の終わりころまで続いた。

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江戸期の木の入れ歯(木床義歯)

現存する日本で最古の木の入れ歯は、1538(天文7)年に亡くなった和歌山市願成寺の尼僧(通称:仏姫)の使っていた木の入れ歯である。当館にもいくつかの木の入れ歯がある。入れ歯は黄楊を彫刻して、前歯の見える部分は人の抜けた歯、象牙、蝋石などを上手にはめ込んである。奥歯は、銅や真鍮の釘を打って硬い食べ物も噛むことができた。その証拠に咬耗の跡がある、前記の仏姫の入れ歯は、前歯も顎の部分も全体が木で彫刻されている。又女性用のお歯黒の入れ歯も当館にある。

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入れ歯師の広告(入れ歯の引札)

木の入れ歯は、仏師の手なぐさみからはじまったと云われている。奈良時代に鋳造仏が増えて、木彫仏の注文が少なくなり、仏師が失業し彫刻技術を活かして入れ歯師に転向したという。“装剣奇賞(そうけんきしょう)”1781(天明元)年には、2名の根付師が木の入れ歯を制作したという記載がある。江戸時代になると、小野玄入、長井兵助など入れ歯師という専門職ができ、抜歯や歯痛の治療などをおこなうようになった。江戸時代の木床義歯の広告、明治の開港の後、西洋から輸入されたゴム床の義歯の広告、木床義歯とゴム床義歯と両方を手掛けている入れ歯師の広告など日本の医制の変化に伴って変遷の軌跡を見ることができる。 

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明治初期から昭和の戦争中まで使われていたゴム床義歯

幕末から明治初期にかけて、横浜居留地には外国人歯科医が開業した。外国人歯科医は、当時のアメリカの最新歯科材料や技術を日本に持ち込んだ。ゴム床義歯は、生ゴムに硫黄を混ぜた材料を圧力釜の中で高圧、高熱を加えて硬くしたものである。外国人歯科医の助手を通じて、技術が伝わりゴム床義歯は「西洋義歯」と呼ばれ、明治中期には「皇国義歯」と呼ばれた木の入れ歯はだんだん少なくなった。戦後、義歯の材料としてプラスチックが輸入されるまでゴム床義歯は世界中で使われていた。

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江戸時代、房楊枝および房楊枝を売る楊枝店の絵画

「江戸名所図会」などには楊枝店の様子を見ることができる。江戸時代中期になると、歯木から現代の歯ブラシに相当する川柳、黒文字、肝木を材料に加工した房楊枝が商品化された。明治中期頃まで、庶民は房楊枝を使っていた。浅草寺の境内には、美人の看板娘を置いた楊枝店が数十軒あり賑わっていた。

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各国の歯木

インド、モロッコ、ギニアなど南方では歯木を見ることができる。古代インドで、釈迦が弟子たちに仏前に詣でる前に歯木(小枝の端を噛んで繊維を出したもの)で歯を清掃することを勧めたのが歯みがきの始まりである。釈迦が使った小枝は、菩提樹かニームであると云われている。西遊記の三蔵法師のモデルとなった中国の僧・玄奘三蔵は、インドで16年間仏教を修業し、中国に帰って歯みがきを伝えた。中国には、菩提樹の木がないため楊柳の枝を使い歯をみがいたため「楊枝」と呼ばれたという。

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明治初期の小楊枝(つま楊枝)

当館には種々の小楊枝が展示してある。房楊枝の一端の尖った部分が独立したと言われている。小楊枝、爪楊枝、妻楊枝という言い方がある。江戸時代や明治時代には、小楊枝は楊枝師による手作りであり、キセル、白魚、ウナギ、鉄砲、船の櫂、房楊枝を小型にした形態に削ったものなどがある。材料は、柳、黒文字、うつぎ、白樺、竹などである。小楊枝を使っている浮世絵も数枚展示してある。

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江戸時代の歯みがき粉の袋(表と裏)

歯みがき粉は、1625(寛永2)年、丁子(ちょうじ)家喜佐衛門が朝鮮から来た人に教えて貰い、“大明香薬砂”、“丁子家の歯磨”という商品名で売り出した。安房の国の房州砂を水飛し細かい粒子にしたものに龍脳や丁子などを加えて、紅でピンク色に染めた。歯みがきは、江戸の名物で、浅草寺の境内の楊枝店、小間物店、銭湯、歯みがき売り(百眼米吉:ひゃくまなこよねきち)などで購入した。当館には数多くの歯磨き粉の袋と広告がある。明治、大正、昭和のものも展示してある。

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江戸時代の日本の抜歯道具を再現したもの

フロイスによる“日本覚書”、松田毅一訳1986(昭和61)年には、“われらは抜歯鋏、鉗子、鸚鵡(おうむ)の嘴(くちばし)などを用いて歯を抜く。日本人は鑿(のみ)、木鎚、弓と矢、鉄の釘抜きを用いる”とある。当館には「瘍科秘録」本間玄調著にある抜歯道具を再現したものなどを展示している。

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江戸時代、抜歯時の麻酔についての本

江戸時代には、麻酔をしないで抜歯したとされている。しかし、華岡青洲は、整骨師が使っていた朝鮮アサガオ、マンダラケなどの毒薬を調合した麻酔薬(麻薬,魔薬と呼んだ)で手術をしていた。口中医や入れ歯師は、現代の表面麻酔のように、これらの薬物を調合、綿糸に染み込ませて歯の周り歯肉に押し込み時間をおいて抜歯したという。当館には「口中医書」の写本などがある。

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江戸時代の歯痛を止めるまじないの引き札

江戸時代は、虫歯になり歯痛があると、1.神仏に祈願、2.おまじない、3.鍼灸、4.生薬などの民間薬、5.口中医や入れ歯師、香具師など口中薬などを用いた。水戸光圀が、藩医・穂積甫庵に命じて出版された「救民妙薬」、1693(元禄6)年刊には、動植物を用いた歯痛止めの薬が記載してある。

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江戸時代の歯草(歯周病)の治療についての本

歯周病は、江戸時代には口がくさくなるため「歯くさ」とか「走馬牙疳(そうまげかん)」と呼ばれた。歯くさの薬として、昆布、あかざ、白礬、茄子のへたの黒焼、乳香、甘草を粉にしてつけるとある。口中の臭きには、びゃくしを粉にして食後水にて用いて良しとある。このような「歯草」治療の教書として「広益秘事大全」「妙薬博物筌」などがある。

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江戸時代口中医書の写本

奈良時代には、耳目口科として医科の一つであった。平安時代に、口科として独立し上流階級の人々を対象に治療をおこなっていた。鎌倉・室町時代には、朝廷や大名に仕えた口中医として金康安兼、本康宗硯などがいる。口中医は時代によって異なるが、江戸時代は、歯、口、喉、舌を治療対象にし、口中秘伝書数冊を検証すると入れ歯は作らなかったようである。

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横浜開港後、アメリカ人歯科医・イーストレーキ

1865(慶應元)年10月に、アメリカ人歯科医W.C.イーストレーキが横浜居留地108番で開業したのが近代西洋歯科医学が伝来した最初である。従来、1860年に来日したと云われていたが新聞広告などにより1865年9月27日(西洋暦)に来日していることが分かった。その後、バーミンガム、レスノー、ウィン、アレキサンダー、エリオット、パーキンス、ギューリックなどが来日し、多くの日本人助手を養成し、当時始まった医術開業試験にその日本人助手たちが合格した。彼ら日本人歯科医は近代歯科医学を伝承したわけである。当館にはこれらの来日した外国人歯科医および伝承を受けた日本人歯科医の広告などがある。

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歯の衛生週間などのポスター

1928(昭和3)年に日本歯科医師会は、第一回の“ムシ歯予防デー”を6月4日に実施した。日中戦争が始まり、健康な青年を兵隊として戦力にするため、5月2日~8日を健康週間とし、“護歯デー”とし5月4日に制定した。1949(昭和24)年、日本歯科医師会は6月1日~7日を“口腔衛生週間”と改称し、戦前は“ムシ歯予防デー”とした。これ等のポスターを見ることができる。

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明治中期の歯みがきなどの看板

江戸時代の商品の宣伝広告は、引札(現代のチラシ)に平賀源内や式亭三馬などが宣伝文を書いた。看板は、商品の歯みがき粉の購買意欲を盛り上げる手段として制作された。暖簾、のぼりなどで商品を印象づけるために用いられた。看板は、文字より商品の絵、実物の模造を使用した方が効果的であった。

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西洋の歯磨き粉容器

1800年頃の歯磨き剤は、陶材や金属の容器に入れて売られていた。入れ物の蓋に内容や特徴が表示してある。石鹸やビンロウなどを加えたものが散見される。

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西洋の歯ブラシ

これらは1590年頃Antonio Perezによってスペインからフランスに伝わったとされている。歯ブラシは中国の発明でシルクロードを通ってヨーロッパに伝わったものとされている。柄は銀、象牙、動物の骨が使われている。彫刻のあるもの、両端に植毛されている物もある。当館には1800年頃のヨーロッパで使われた歯ブラシ類がある。銀製の歯ブラシなどを使った王侯、貴族たちの生活がうかがわれる。年代:1800年

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外国の歯石除去器

当博物館には歯石除去器が展示してある。小さな携帯用のセットは上流階級の個人用のものである。柄の長いものは歯科医用である。ちなみにアメリカの歯石取りの値段は広告によれば、3シリングから6シリングと書いてある。独立前のイギリスの植民地時代でシリングを用いている。年代:1800年

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