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この建物は、明治34年旧住友銀行新居浜出張店が支店に昇格した頃に建造され、昭和33年まで旧住友銀行(現三井住友銀行)の新居浜支店として使用されていた。その後、一部改修の上当社製造部詰所として使用され、現在は当社歴史資料館として使用している。登録有形文化財、近代化産業遺産として登録・認定。年代:明治34年
情報所有館 : 住友化学愛媛工場歴史資料館(公開中)
銅鉱石製錬の際に発生する煙害問題は硫酸を製造することで大幅に改善されたが、硫酸製造の際の排ガスになお亜硫酸ガスを含んでいたため、当社はその完全除去法の研究を続けた。その結果、アンモニア水を用いたアンモニア洗浄法が確立され、接触硫酸工場に適用することとなった。中和除害塔は昭和10年6月に完成し、硫酸製造における亜硫酸ガスを完全に除去することができた。この技術は、昭和14年に四阪島製錬所の亜硫酸ガス除去装置に応用され、約30年にわたって悩みぬいた同島の煙害問題に終止符を打つことができた。年代:昭和初期
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大正14年6月1日、住友総本店所属から株式会社住友肥料製造所として独立する際に申請を行った肥料取締法に基づく業者変更届と免許。年代:大正14年頃
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出荷する為に肥料をかますに詰めている様子。年代:昭和9年
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当時、肥料の出荷はほとんど船で行われていたが、出荷の際に何千、何万とあるかますや袋の数を確実に数えることは大変だった。その為、この万棒を陸側でかますに刺し、船側で回収することでかますの数を数えた。年代:昭和初期
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化成肥料等のサンプル等。
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昭和8年、当社は濃硫酸を直接製造できる(それまでは硫酸を濃縮していた)CCC社のセルデン式接触硫酸製造法を採用し、日産45tの新工場を建設した(完成は翌年)。この工場は、わが国で最初の大規模な接触硫酸工場であり、予想したとおりの成果をあげた。(資料は当時CCC社から入手したもの)。年代:昭和初期
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硫酸用土瓶:硫酸の販売用として大正4年以降使用されていたもの。(容量は27リットルで、濃硫酸が約40kg入る。)∥籠瓶:ホルマリン、アンモニア水、硫酸等の工業用薬品向けの容器として、使用されたもの。(容量は20リットルで、手ごろな大きさとして重宝された。中の瓶はガラスで、外側を竹で編んだ籠で保護している。)。年代:大正初期
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昭和33年、住友化学がわが国で初めて高圧法による低密度ポリエチレンの製造を開始した際に、最初のポリエチレンを用いて作成したレリーフ。年代:昭和33年
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高圧法ポリエチレンの製造を開始した当時、技術導入の為来日していたICI社の技師が使用した自転車。新居浜市の鑑札がついている。年代:昭和30年代年代
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磯浦、東予各工場などでアルミニウムの生産を開始した時や終了した時の記念品。年代:昭和40年代以降
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昭和35年頃の新居浜における住友グループ関係の工場、社宅等の配置が記載された地図。黄色部分は各社の工場用地を、オレンジ色部分は社宅用地を、赤線部分は住友別子鉱山鉄道の線路を示している。年代:昭和35年
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この石碑は明治23年、別子銅山開坑200年祭を記念し、当時住友家の総理であった広瀬宰平が、總開の由来とその発展を祝って建てたもの。書は明治の三舟(海舟、鉄舟、泥舟)の一人である高橋泥舟のもの。年代:明治23年
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たばこの考証本。かんな刻み台の仕組みと使用法が詳細に記される。箱部分には圧搾してブロック状に固めたたばこを乗せる台と、それをせり上げるための機構がある。かんなを引く度に足でペダルを踏めば、ブロック状のたばこが少しづつせり上がる旨が記される。年代:弘化3年
情報所有館 : たばこと塩の博物館
成立時期、作者は不詳ながら、近世の漁業や農業、各種商工業の様相を描いた本。たばこの植物としての生態や日本特有の製塩法(能登の揚浜)を挿絵と共に解説している。
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蘭学者大槻玄沢によるたばこの研究書。日本のみならず、ロシアやオランダの喫煙具についても風聞を元に素材や構造や用法を挿絵を添えて記している。外国の文物を多く掲載した廉で出版はみとめられず、大槻玄沢の私塾「芝蘭堂」の私家版として出された。年代:天明頃
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葛飾北斎によるきせる意匠の雛形本。櫛ときせるの図案をあわせて400余が載る。ほぼ実物大の大きさで図が描かれており、下絵としてそのまま利用できる。実際に下絵にほぼ一致する図案のきせるも当館では所蔵している。年代:文政6年
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たばこの考証本。著者は未詳ながら、大槻玄沢門人でかつ、代々続くたばこ屋と推測される。たばこにまつわる俗説、流行の様子やきせるの構造解説といった本文に加え、玄沢の私家本「えん録」から引用した世界の喫煙形態(インド、中国、オランダなど)が載る。年代:文化12年
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浮世絵を制作する際に用いる板木は、作品を摺り終えると再び平面に削られ新たな作品を彫るという形で再利用された。このたばこ盆はこうした浮世絵版画の板木を利用したもので、側面には遊女と人形使いの絵柄が見える。
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きせるでの喫煙に必要な、きせる、火入れ、灰落しをまとめた什器をたばこ盆とよび、持ち主や身分により素材や意匠も異なっていた。大名道具として伝わるこの資料(梨子地波に葦蒔絵舟形たばこ盆)は、趣向および漆工、蒔絵、金工の技術力の高さを示している。
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従来のたばこ盆には炭火をおいた火入れが必要だったが、マッチの登場で火入れは不用となり小型化されたたばこ盆。以降、灰落としときせるを配しただけの簡素なたばこ盆が登場するようになる。
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明治期の卓上たばこセット。紙巻きたばこ移入後も、明治・大正期には刻みたばこを喫煙する文化が色濃くのこっており、紙巻きたばこと刻みたばこの両方に使用できる造りとなっている。盆の上にはたばこ箱、マッチケース、灰皿などがセットされている。
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火皿と吸口を金属、管の部分に竹を用いた羅宇きせるの製作工程。吸口と雁首部分は、厚さ1.1mm~1.3mmの真鍮の地金を切り抜いたあと、金槌でたたきながら筒状に成形、接合する。雁首の上部に火皿を固定し、凹凸や曲りを調製したあと、ヤスリで磨く。仕上げに管部分に節を抜いた竹や木をすげる。
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きせるのなかでも火皿、管、吸口のすべてを金属で作る延べきせるの製作工程。大正期以降、紙巻たばこでの喫煙が主流になる中で、きせるの需要も縮小したが、現在も受注生産で手作りの製品を制作するほか、プレス加工での製造が続けられている。
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「櫛きん雛形」十五丁にある鳥刺の意匠を模したきせる。きせるの彫刻と元の意匠とでは若干の差異があるため、雛形本をそのまま下絵に用いたのではないが、本を元に転用した例とわかる。
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ソーダ石灰を用いたヨーロッパガラスには強度、透明度とも及ばないが、日本でも鉛含有量の多い和製ガラスを用いて酒器や装身具が作られた。和製ガラスを用いた「ぎやまんきせる」も作られ、茶席で好んで用いられた。ヤニが残っているものもあり、ガラスの管を通る煙を楽しんだであろうことが想像される。
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戦時中(昭和16年~20年)の物資不足で喫煙具も簡素化が進み、陶製の簡易きせるや金属製の簡易パイプが作られた。この資料は美濃焼の簡易きせるで、生産から販売まで完全統制が行われた。吸口には各生産者に付した「生産者別表示記号」が記されるため製造元が特定できる。美濃焼は「岐○○」という記号で識別された。
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近世の初期には金属加工技術がきせるにまで及んでおらず、織部や瀬戸の窯でもきせるが焼かれた。割れ易く、形も瓢箪のように丸い形と細長い形の二種類で実用というよりも鑑賞用として用いられた可能性が高い。
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竹きせるは、近世初期までよく使われていたが、国内で金属きせるを製作するようになると次第に使われなくなったとされる。当館では九州の神社で神事に用いられる竹きせるを所蔵している。
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喫煙習慣の定着で、きせるや刻みたばこを携帯するためにたばこ入れが使われるようになった。特に帯刀できない庶民の間では装身具として意匠や装飾に趣向を凝らしたものが作られた。形態で分類した内、提げたばこ入れと称されるものは、たばこを入れる袋ときせる筒を根付で腰から提げて使う。
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喫煙習慣の定着で、きせるや刻みたばこを携帯するためにたばこ入れが使われるようになった。特に帯刀できない庶民の間では装身具として意匠や装飾に趣向を凝らしたものが作られた。形態で分類した内、一つ提げたばこ入れと称されるものは、たばこを入れる袋を根付で腰から提げて使う。
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喫煙習慣の定着で、きせるや刻みたばこを携帯するためにたばこ入れが使われるようになった。特に帯刀できない庶民の間では装身具として意匠や装飾に趣向を凝らしたものが作られた。形態で分類した内、腰差したばこ入れと称されるものは、根付ではなくきせる筒を腰に差して使う。明治以降にはこの形の物が多く制作された。
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喫煙習慣の定着で、きせるや刻みたばこを携帯するためにたばこ入れが使われるようになった。形態で分類した内、懐中たばこ入れと称されるものは着物の懐中に入れて携帯するもので、たばこ入れとしては最も古くから存在していたと考えられる。扁平な二つ折の袋をこはぜで止める物が多い。
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木材や金属、角、牙、甲羅、陶磁器、貝など硬質な素材を用いたたばこ入れ。天候の変化や激しい作業に耐え、ある程度の気密性を保てることから、農業や林業、漁業、狩猟などの野外作業に従事する人たちが用いたとされる。名前の由来は定かではない。
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たばこが専売化される明治37年より以前には全国各地にたばこ商が点在し、それぞれ特色のあるパッケージで売り出された。写真は常陸(現在の茨城県)のたばこ商川上弥介(佐野屋)が扱っていた「国府」の包かと板木。「国府」自体は鹿児島を中心に栽培された事に由来する品種だが、茨城や東北地方南部でも栽培された。江戸時代から名葉として広く流通し、民営期に各地のたばこ商が売り出した多種多様な包かからは名葉としての人気と販路の規模が示される。年代:明治期
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石版は薬品による化学処理で油性インクの付く部分と付かない部分を作って製版する技法。欧州で発展し日本に伝わったのは幕末頃とされる。描いた描線を濃淡までそのまま製版印刷できたため、図版印刷に重宝された。アールヌーボ調の「アルマ」は専売局唯一の肖像画デザイン。
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「アルマ」はトルコ産の葉を用いたオリエンタルシガレット。外箱のラベルにもアールヌーボ調の縁取りやフラミンゴといった異国情緒あふれる図柄があしらわれた。石版で印刷されたラベルの中でもとりわけ美しく点描式製版が印刷された例といえる。
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「ピーコック」は米国バージニア、カロライナの名葉を用いた村井兄弟商会のたばこ銘柄。明治29年ころから清向けに輸出した。この鋼板は現代でいうカートン用の鋼板。年代:明治期
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「ヒーロー」は日本で初めてアメリカ葉を使用し、輸入たばこに近い品質に仕上げた村井兄弟商会の銘柄。先行商品「サンライス」の臭味を改善するために、原料、製法を変え、香料を加えて十本入三銭で売り出した。国内では売り上げ一位となるほどの人気を博し、韓国にも輸出された。流行していた輸入たばこの美しい包装に対抗すべく、包装にも力を入れた。この鋼板は現代でいうカートン用の鋼板。年代:明治期
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「HONEY BEE」は清、韓国への輸出用に製造された両切たばこ。パッケージには蜂と蜂の巣が写実的に描かれている。この鋼板は現代でいうカートン用の鋼板。明治39年から大正4年頃と考えられる。
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「HONEY BEE」は明治39年から大正4年にかけて清、韓国への輸出用に製造された両切たばこ。パッケージには蜂と蜂の巣が写実的に描かれており、5本入の簡素な包装となっている。
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「エアーシップ」の石版。版には凹凸がなく、水と油の反発作用を利用して図や線描部にだけインクが付くようになっている。石版ペンまたは細い筆で小点を描き、点の大小、疎密で濃淡を描き分ける点描式製法を用いて、油彩のタッチを生かした印刷ができた。
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明治43年に50本詰めの缶入りで発売された。この年は日本の空を初めて飛行機が飛んだ年で、大空への関心が高まり名付けられた。点描式という製版技法により油絵のような微妙なタッチが生かされたデザインは、発売された明治43年当初はブリキ缶に直接印刷された。後には同柄の缶ラベル(紙)や10本詰の箱も登場した。年代:大正15年~昭和12年
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オリエントは、専売局が初めて発売したトルコ巻(トルコ、ギリシャ産のオリエント葉を原料とする紙巻き煙草)の高級品。箱は10本を一列に並べた平型で、エジプトのたばこを模倣したような図柄の隣に菊、というデザインになっている。明治38年発売、昭和8年製造中止。石版にはパッケージの表裏両面が描かれている。
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