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船舶が夜間に航海するときに安全に航行するための灯火で、国際衝突予防法に定められている。航海灯は日没から日の出まで掲げるよう規定された灯火で種類と行動を他船に示す。マスト灯、舷灯、船尾灯の3種があり、舷灯は進行方向に向かい右側が緑、左側が赤と決まっていた。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
港を建設するときに使用された潜水服で、ヘルメットから空気を送るチューブが海上の船に延びていた。船では人力で空気を潜水服に送り込んでいたが、潜水服内に空気が充満して浮力が大きくなるため、重りを体に付けて作業を行った。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
貯木場で木を引っ掛けたり、引き寄せるために使用する。「鳶」は鳶口のことで、棒の先端に鳶の嘴のような鉄製の鈎の手がついている。清水港では大正12年の関東大震災の後に港湾最奥部に貯木場ができ、昭和40年代まで使われていた。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
荷役作業につく人や作業の割り当てに使われたくじ。丸環のなかの紐を引いた人があたりになる。くじは握り部分を中心に放射状に広げて使ったようすが、阿弥陀如来像の光背に似ていたことからあみだくじと名がついたという。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
清水の折戸湾付近で戦後から昭和38年まで真珠の養殖が行われていた。これはその頃使用された機械で、真珠が入ったアコヤ貝の身を攪拌機にいれると、モーターが回転し、身と真珠を分離した。年代:昭和30年代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
缶詰の蓋を取り付ける機械。モーターで動き、真空ポンプと連動させて使うことができたために、製茶業でも使われたという。東洋製罐社製。年代:1963年
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
まぐろ油漬け缶詰の輸出が盛んになった昭和初年から戦後にかけての缶詰ラベル。主に静岡市の石版印刷所で印刷されていた。表面にはニスが塗られた。年代:昭和5年頃
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
清水はまぐろ油漬け缶詰の発祥の地。この木製機械は、茹でたまぐろの切り身を等間隔で切るために使われた。この間隔が缶詰の高さになっていた。まぐろ缶詰事業は雇用創出を考慮して創業されたという。したがって、より多くの人がだれでも就業できるように仕事に工夫がされていた。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
底の窪みにグリスを塗り、これを海底沈めて付着した土砂を精査して地質調査を行う。また、ロープに5メートル毎に符票を付けて海に降ろして水深を測ったりもした。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
通常の船箪笥は、外面がケヤキ材で作られ、内部を桐で作っていた。これはケヤキは堅くて頑丈で、桐は火と水に強いことからきている。しかし、東海地方の静岡など一部の地域では総桐の船箪笥が作られることがあった。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
静岡県内の缶詰業者が昭和31年(1956)4月に全国で初めて、初任給に最低賃金を設定する協定を業者間で結び、同時に年齢別・経験年齢別の標準賃金を制定したことを記念した石碑。石碑の表には池上舜による「働く女子労働者の面影」のレリーフが飾られ、背面には石碑建立の趣旨が刻まれている。それによれば、労働条件の改善が企業の発展をもたらすことを確信して協定締結を行ったことや、この最低賃金制度を実施したことが日本の同制度の普及に貢献していること、昭和35年に労働大臣から社団法人静岡缶詰協会に感謝状を授与されたことなどが刻まれている。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
明治時代から大正時代にかけて茶の海外輸出用に使われた茶箱。木箱の内側をブリキを張り、湿気を入らないようにし、外部は中国製の竹で編んだアンペラで覆っていた。このアンペラの表面に茶箱用ラベル(商標)を貼ったものがある。茶箱用ラベルは蘭字と呼ばれるもので、薄い雁皮紙に木版により英語の商品名や日本的な画を刷り上げたもので、ニスを塗布することでアンペラに密着し、あたかも描いたように見えた。年代:明治時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
貯木場で材木の上に乗るために、靴の上から履いて使われたスパイク。水の上に浮かんだ材木の上で作業する時は、木材の表皮に樹脂がついて滑りやすいため、裏に滑り止め用の釘が取り付けられたスパイクを履いた。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
静岡鉄道 清水港線で使われていた通行票とそのキャリアー、同一の線路に2つの車両が進入して衝突することを防ぐために、各駅間で進入を許可してもらうためにタブレットを駅員に渡して進行をしていった。年代:昭和時代
情報所有館 : 一般財団法人清水港湾博物館
「上水記」は、玉川上水開削から137年後の寛政三年(1791)、幕府普請奉行上水方道方である、石野遠江守広通によってつくられた江戸上水に関する幕府の公式記録である。全十巻。玉川・神田、江戸の二大上水の概要から、市中配管状況や水路図、当時の水道料金など、江戸の繁栄や高い土木技術をうかがい知ることができる。江戸上水の歴史を今に伝える貴重な資料として、東京都指定有形文化財(古文書)の指定を受けている。年代:寛政3年[1791]
情報所有館 : 東京都水道歴史館
この石樋(石垣樋)は、昭和62年から平成元年にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を本郷給水所公苑に移築復原したものである。石樋の内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120~150cmで、長さ約180cm、幅60cm、厚さ30cm前後の蓋石がのせられている。年代:江戸時代
情報所有館 : 東京都水道歴史館
東京都千代田区丸の内三丁目遺跡、阿波徳島藩上屋敷跡より出土した木樋である。木樋の上部にある溝を潜らせるために、一段下げられた木樋を連結してつくられている。木樋の蓋は溝からの水が木樋に入らないように、一枚板が使用されている。木樋の結合部分には、組み合わせる樋がわかるように、絵印の刻みを入れるなど、江戸時代の人々の上水の知恵を今に見ることができる。東京都埋蔵文化財センターの発掘調査による。年代:江戸時代
情報所有館 : 東京都水道歴史館
昭和57年[1982]8月31日、千代田区内幸町一丁目2・3番より、千代田区教育委員会の調査で発掘された。実際には2/3くらいまでが地面に埋められていた。木の水道管である木樋を流れてきた上水を呼樋(竹筒)によりこの井戸に引き込んでため、人々はそれを汲んで、飲み水にしたり生活用水として使っていた。年代:江戸時代
情報所有館 : 東京都水道歴史館
継手:印籠(ソケット)継手 塗装:コールタール塗装焼付 使用時期:明治27年[1894]から昭和33年[1958]。但し、昭和8年[1933年]以降は高級鋳鉄管。明治30年[1897]製。中央区新富一丁目付近に付設したものである。口径150mm、管厚10mm。年代:明治30年[1897]
情報所有館 : 東京都水道歴史館
共用栓は、水道利用の契約をした人だけが鍵を持ち、共同で使われていた。この共用栓は、水の出口が竜をかたどっている、蛇体鉄柱式共用栓で「蛇口」の語源とも言われている。この共用栓は消火栓も兼ねていた。いざというときに水道水を消火に使うシステムもヨーロッパに習ったものであった。高さ1045mm、幅330mm、奥行328mm。年代:明治時代~大正時代
情報所有館 : 東京都水道歴史館
14×22.5cm、金属製。明治時代になると漢方薬に代わって西洋薬が主流になり、薬を調合するための秤が必要になった。明治22(1889)年3月に公布された『薬品営業並薬品取扱規則』で薬局には調剤用の天秤を備えておくことが義務付けられ、調剤用上皿天秤が普及した。写真の上皿天秤は明治後期に大阪で製造されたもので、ひょう量200グラム、感量200ミリグラムのもの。皿はベッコウ製で、裏が透けて見えるほど薄くて非常に軽いもの。年代:明治
情報所有館 : 明治薬科大学明薬資料館