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基準尺として用いられたと伝えられますが、大谷亮吉は『伊能忠敬』の中で圭表儀の部品と述べています。遊尺があり、板バ ネとねじで止められるようになっています。(大)の裏面には田中丹柳作の刻銘があります。最大長36センチ
情報所有館 : 伊能忠敬記念館
忠敬の孫忠誨が使った器具です。錘の力で振り子を動かす振り子式の時計です。裏面には大野規行(大野弥三郎)の刻銘があ ります。最大長33.7センチ 年代:1825
情報所有館 : 伊能忠敬記念館
日本で古くから使われていた手織機の1つ。家内工業として木綿、絹、麻等を原料とする衣料の製造に用いられたが、明治 20年(1887年)頃から自動織機の急速な発展によって次第に衰退し、今では特殊な民芸品を作るほかには、ほとんど使われなくなった。
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
明治21年に書かれた下村紡績所への伝習生(実習生)志願書。当社は日本では珍しく全てリング精紡機からスタートをして おり、ミュール精紡機に加えてリング精紡機も設備していた下村紡績所に、伝習生の受け入れを要請した。長期間の実習を終えたこの伝習生たちは当社の新鋭紡 機の運転にあたり、中核となって貢献し、その後、リング精紡機の使用と優れた技術力を持つ従業員の協力により、国内から品質面で高い評価を受けた。 年代:1888
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
当社の登録商標「三馬」。明治28年(1895年)中国向け綿糸の輸出を開始する際、品質の責任を明らかにするために当 社独自の商標として、3頭の奔馬をあしらった商標「三馬」を制作した。デザインは倉敷出身で、数年間、中国に留学した画家である衣笠豪谷氏に依頼。「三」 は古来中国では縁起が良い数として好まれ、「奔馬」は驀進、勇勢を表すことからモチーフに採用された。この後、当社の輸出綿糸も奔馬が天を翔けるような勢 いで中国各地へ広がった。 年代:1895
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
創立時の第1号株券。創立総会は明治21年(1888年)に社名を有限責任倉敷紡績所とし、倉敷村誓願寺で行われた。す でに大原孝四郎を頭取(社長)に内定した旨を早々に発表していたため、大原頭取による紡績所設立を知り、当社の貧村救済という創設の理念に共鳴し、創立者 の熱意にほだされた倉敷及び岡山県下の人々から多数の株式引受の申込があった。 年代:1888
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
明治30年(1897年)にイギリスから輸入した消防用蒸気ポンプ。綿などのワタを扱う紡績工場では、火災は会社の死活 を左右し、なによりも工場で作業する従業員の生命にかかわる重大な問題だった。しかし明治時代には龍吐水・手押ポンプなど極めて貧弱な消防器具しか国内に はなかったため、当社は消防用蒸気ポンプを海外から購入し、またそれ以外に消防用具の整備、防火壁・防火扉の新設改修、高架水槽の設置、火災保険の契約を 行い、防火体制を固めた。 年代:1897
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
クラボウの社章で、社訓「謙受」の精神をシンボライズ。人々はとかく一番になると、慢心し心が緩み後退するので、たとえ 何事において一番になったときでも、常に二番・三番にいる気持ちで、一番を目指すつもりで努力せよ、という訓戒をカタチにしている。
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
ク ラボウの社訓で、満足して驕り高ぶる者は損なわれ、謙虚に努力する者は利益を受ける、の意。経典「書経」の一節「満招損、謙受益、時乃天道」を初代社長の 大原家が代々家訓として伝えていた言葉。慢心を諫め絶え間ない努力こそが会社経営の根本精神だとし、社員達に説いた。
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
大正15年(1926年)5月に摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が、当時最新の工場といわれた当社の万寿工場と、同工場内 にあった倉敷労働科学研究所(現 労働科学研究所)をご視察された記念に制作された絵はがき。 年代:1926
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
クラボウの2代目社長として就任した大原孫三郎の執務机。大原孫三郎はその優れた経営手腕で綿紡績以外に毛紡績、レーヨ ン事業、金融、電力などの分野に事業を拡大した。また孤児院院長の石井十次の影響を受け、数多くの社会的貢献に力を注いだ人物だ。大原美術館、倉紡中央病 院(現 倉敷中央病院)、倉敷労働科学研究所(現 労働科学研究所)などを開設し、現在も人々の文化面、社会面等で役立っている。
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
従業員の寄宿生活を改善した分散寄宿舎の模型。明治40年(1907年)頃は休憩や睡眠は二の次とし、会社が従業員に過 酷な生活環境を強いる風潮があったが、当社は「従業員の健全な生活を確保し、勉学にも精をだせる環境を整えることも会社として行うべき崇高な使命である」 という考えのもと、第2代社長 大原孫三郎を中心に福利厚生等の改革を進めた。まずは従業員が雑居し、衛生上不備な点が多かった寄宿舎において、分散式家族的寄宿舎を建設。この施設は従 業員が安らげるように少人数用に部屋が区分けされ、また学校、裁縫室、診療所、販売所、花壇やレクレーション用の舞台も設備した。 年代:1907
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
当社の従業員のために建てられた総合病院の写真。従業員のために各科診療のできる総合病院を大正12年(1923年)に 創設。その後一般の方の診療にも応じ、昭和2年(1927年)に倉敷中央病院と改名。現在は1,000を超えるベット数を持ち、先進的な医療を行う病院と して地域に貢献している。 年代:1923
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
倉敷労働科学研究所(現 労働科学研究所)が作業に対するエネルギー消費の大きさを測定するために考案した労研式ガス分 析器。倉敷労働科学研究所は工業化、産業化に伴って発生する労働問題について医学的、心理学的研究に基づいて改善するための施設で、工場内の温湿度と健康 確保、労働衛生、生産能率向上の問題に取り組んだり、労働者の所要カロリーを割り出し、給食炊事の献立も提案。 年代:1921
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
平良敏子先生より寄贈していただいた作品。平良敏子先生は、沖縄女子挺身隊の一人として、万寿航空機製作所に入所。その 時大原社長が、勤労の傍ら沖縄の伝統織物である芭蕉布の製織技能を習得する機会を設け、平良敏子先生は、その技能を沖縄帰郷後も磨き、人間国宝になられ た。
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
クラボウの社是で、社内の和と団結を第一とし、若手の力を十二分に発揮できる環境づくりを目指して初代社長が社是として 掲げた言葉。一人一人の働きや才能が異なっていても、目的を達成するために、皆が心を一つにして互いに力を合わせて協力していこう、という意味。儒家の始 祖であり、中国春秋時代の思想家、孔子の史書「春秋左氏伝」にある一節。
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
日本の主力産業であった紡績業の工場を、天皇陛下がご視察になられた時に使用した机椅子。天皇陛下が四国御巡幸の途次、 昭和25年(1950年)に当時、国内でもっとも新しい代表的綿紡織工場であった倉敷紡績北条工場へ御臨幸になられた。 年代:1950
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
大原總一郎社長が後援していた棟方志功先生が工場の礼法室の襖に描いた書画。戦時中、大原總一郎社長が従業員の精神の高 揚を失わないようにと、棟方志功先生に従業員の心のよりどころとなる作品を依頼。棟方志功先生は「玉琢かざれば器とならず、人学ばざれば道をしらず」の文 字を書き、それに稲妻とハマナスを配した作品を襖に描かれた。これは激しい戦争中でも、ハマナスのように強く生き、美しい花を咲かせられるように勉強を続 けようという意味。
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
旧木曽川工場の模型。旧木曽川工場は手編毛糸を製造し、ここから生まれた「スキー毛糸」は日本における代表的銘柄となっ た。増設を行っても需給に応じきれないほどの人気商品で、手編毛糸業界での四大銘柄の1つと呼ばれるほどに。現在は、工場を閉鎖し、その跡地にモール型 ショッピングセンター「ダイヤモンドシティ・キリオ」が建てられ、建物賃貸を行っている。 年代:1942
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
日本万国博のせんい館に関する資料として、せんい館記念署名簿、せんい館記念アルバム、万国博記念品と館内撮影もされ たビデオを展示。※ビデオは別室で放映 年代:1970
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
当社の映画部がリクルート用に撮影した大正時代の工場生活のビデオ。女子従業員の工場で働く姿や寄宿舎での生活風景な ど、当時の社員の様子が映されている。
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
十大紡の1社と言われることにもつながった国光紡績合併の辞令通知。経営の合理化と企業体質の強化を図ることを目的とし て、昭和16年(1941年)、国光紡績を吸収合併した。また昭和18年(1943年)に政府が行った企業の整備統合で、紡績業は10社に整備統合された が、当社は国光紡績の合併もあり、100万錘以上の規模を有していたので、その10社に残ることができた。 年代:1941
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
現在の倉敷アイビースクエア(ホテル)は、明治22年(1889年)に建てられた当社発祥の旧倉敷本社工場の建物を活用 して設立。また工場内にあった原綿倉庫は、この倉紡記念館に改造された。倉紡記念館では、原綿倉庫ならでは建築的工夫を見学することができる。例えば壁や 床には、原綿にカビが生えないように室内の湿度調整を行うための縦横の木製柱が埋められている。 年代:1969
情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ)
初期の新聞オフセット輪転機。昭和54(1979)年に静岡新聞社に納入され、平成9(1997)年まで使用されまし た。1時間当たり最高15万部の新聞を印刷することができます。 メーカー:東京機械製作所 使用:静岡新聞社
情報所有館 : 日本新聞博物館
マリノ二社が開発・製造した輪転機が明治23(1890)年に初めて、朝日新聞社によって日本に輸入され、議会報道に威 力を発揮しました。明治30年代末になると、同輪転機を参考にした国産の輪転機が普及し始めます。それがマリノニ型輪転機です。当館所蔵のマリノニ型輪転 機は、東京機械が大正11(1922)年から昭和11(1936)年までに製造した改良型62台のうちのひとつです。印刷速度は、4ページ印刷で1時間当 たり最高24,000部、8ページ印刷で1時間当たり最高12,000部でした。 メーカー:東京機械製作所 使用:化学工業日報社
情報所有館 : 日本新聞博物館
スピードグラフィック・カメラ(通称スピグラ)は、戦後の一時期における新聞カメラマンの社会的地位を象徴するものでし た。終戦直後から少しずつ普及しましたが、スピグラ時代の初期は、ベテランのカメラマンだけが持つことを許されました。 使用期間:1950(昭和25) 年~1970(昭和45)年ごろ メーカー:グラフレックス(米国)
情報所有館 : 日本新聞博物館
写真電送送信機は、事件現場や新聞社の支局など、離れた場所から新聞社に写真を送るために使われました。使用期間:昭和 24(1949)年~1960年代 メーカー:日本電気 使用:朝日新聞東京本社
情報所有館 : 日本新聞博物館
写真電送受信機は、写真を送る写真電送送信機と呼吸を合わせてスタートします。写真電送送信機から送られてきた写真は、 写真電送受信機のドラム部分に巻いた印画紙に受信されます。 使用期間:昭和39(1964)年~昭和61(1986)年 メーカー:日本電気 使用:朝 日新聞東京本社
情報所有館 : 日本新聞博物館
アメリカ人のリン・ベントンが1884年に特許を取得、後に改良された母型彫刻機です。製図用の拡大縮小器の原理を応用 したもので、装置本体の下部に取り付けた文字の原型(正字)を探り針でなぞり、上部の母型素材に文字を彫刻します。 使用期間:昭和29(1954)年~ 昭和63(1988)年 メーカー:津上製作所 使用:読売新聞大阪本社
情報所有館 : 日本新聞博物館
漢字、かな、数字、約物などの活字ケースを、使用頻度別に大出張、小出張、本場、本場下などに仕分けて配列する傾斜をつ けた活字ケース台で、「ウマ」は俗称です。 使用期間:昭和47(1972)年~昭和61(1986)年 メーカー:綾瀬工業 使用:読売新聞東京本社
情報所有館 : 日本新聞博物館
全自動モノタイプの鋳植部に符号を送るテープをさん孔するのが漢字キーボードで、テープをモニター原稿の形で印字するの が漢字プリンターです。機種にもよりますが、キーボードは2,304~2,500の文字や符号を収容していました。 使用期間:昭和34(1959)年~ 昭和48(1973)年 メーカー:新興製作所 使用:朝日新聞東京本社
情報所有館 : 日本新聞博物館
送信機から送られたモノタイプ用テープの穴の符号を、離れた場所で受信し、機械的に読み取って同じ符号をテープにさん孔 (穴を空ける)する機器です。当初のさん孔速度は175字/分でした。 使用期間:昭和37(1962)年~昭和50(1975)年 メーカー:新興製作 所 使用:熊本日日新聞社
情報所有館 : 日本新聞博物館
さん孔テープの符号を解読して母型を選択し、基本活字を鋳込んで1行15字に組む自動鋳植機です。 使用期間:昭和 50(1975)年~平成2(1990)年 メーカー:日本タイプライター 使用:サンケイ総合印刷
情報所有館 : 日本新聞博物館
昭和56(1981)年の文字拡大まで1ページの基本活字収容本数は総計20,700本で実質は朝刊1面で約7,000 本でした。組み版は、締め枠「チェース」で仮締めします。使用:読売新聞東京本社 毎日新聞東京本社/大組み台は、1ページに組み上げる鋳鉄製の台です。 組み版の天側に中段(真ちゅうの全角罫)を収納するケースが、地側の左側にインテルや罫を入れたケースを置き、作業をしやすくしていました。台には複数段 の棚があり、取り置き版を保存しました。 使用期間:昭和31(1956)年~平成5(1993)年 使用:東京新聞
情報所有館 : 日本新聞博物館
高速度新聞電送機は、同時印刷をする離れた印刷工場に紙面を送る機械です。受信側では、完成面をフィルム受信できるの で、活版-大組-紙型鉛版工程からファクス-金属板-紙型鉛版工程に変更となり、時間短縮と省力化につながりました。 使用期間:昭和35(1960) 年~昭和49(1974)年 メーカー:ウエストレックス(米国) 使用:読売新聞東京本社
情報所有館 : 日本新聞博物館