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電信機の信号を中継送信する継電装置。永久磁石付きの高感度型で1870~1880年頃の製品。初期の通信装置。
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電池駆動式扇風機用。 液体電池のユニットで、電池を作動させるには,使用者が薬品を調整する必要があった。
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手動磁石発電機内蔵タイプ。高級型。1850~1860年代の製品。 電気の黎明期には「電気が体によい」と考えた人達がいて、さまざまな電気治療器を開発した。電極を治療を受ける人に握らせて、電気を加えた。 19世紀後半
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手動磁石発電機内蔵タイプ。普及型。1850~1860年代の製品 電気の黎明期には「電気が体によい」と考えた人達がいて、さまざまな電気治療器を開発した。電極を治療を受ける人に握らせて、電気を加えた。 19世紀後半
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電池を内蔵し、誘導コイルで昇圧するタイプ。 電気の黎明期には「電気が体によい」と考えた人達がいて、さまざまな電気治療器を開発した。電極を治療を受ける人に握らせて、電気を加えた。 19世紀後期の製品
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発電機をベースに固定する時に使ったボルトとナット。 1880年代。明治
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地中配電器具。 エジソンの中央発電所システムは、都市部に作られたので、初期から地中配電が行われた。これは、その地中ケーブル。
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ねじ込みタイプのヒューズ・ソケット。ヒューズ溶断時の交換が簡単という特徴がある。GE社製。1880~1890年代。明治
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2ピン型壁付け用コンセントとプラグ。差し込み孔にシャッターが付いており、使用しないときは安全のため閉じる。1900年代。
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1910年代。タンデム刃型壁付け用コンセント。着脱自由なコンセントへの要求に応えた初期の製品。通常の平行刃型が開発されたのは1920年になってからである。
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壁付け用オン/オフ交互作動型スイッチ。オンボタンを押すとオンに、オフボタンを押すとオフになる。1880年代。明治
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壁付け用回転型スイッチ。ノブをまわしてオン/オフ動作をさせる。1880年代。明治
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壁付け用回転型スイッチ。ノブをまわしてオン/オフ動作をさせる。1880年代。明治
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吊り下げ金具付き電球ソケット。口金はエジソン・ねじ式。スイッチ付き。
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吊り下げ型器具用電球ソケット。耐熱型。口金はエジソン・ねじ式。スイッチ付き。
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壁付け型電球ソケット。口金はエジソン・ねじ式 1890年代。明治
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・実用的白熱電灯の発明者として知られるエジソンが開発を手がけた直流発電機の一つである。当時、エジソンが製作販売した直流発電機は、基本設計は同じであるが、目的にあわせて出力の異なる幾つかのタイプがあった。この発電機は、その中の代表的なもので 1890(明治23)年から下野麻紡織で工場照明用電源として使われていたものと同じタイプのものである。 ・製造年代 / 1890年頃(推定) ・電圧 / DC110V ・出力 / 17kW
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・明治初期に開業した日光金谷ホテルは、数少ない本格的な西洋風リゾートホテルとして発展してきた。そして、早くも1908(明治41)年に水力による自家発電設備を導入、電灯による照明を始めた。この史料はドイツのSiemens-Schuckert Werke社製のもので1950年頃まで稼動、40年以上にわたりホテルへ電気を供給した。水車に横軸フランシス水車を用い、水車軸を発電機に直結したタイプで、三相交流50kWを発電した。 ・水車部< メーカー/ドイツ・Voith 製造年/1907年 詳細不祥/横軸フランシス水車単輪、調速機とフライホイール付き > ・発電機部< メーカー/ドイツ・Siemens-Schuckert Werke 製造年/1908年 定格電圧 /2100V 出力/三相50Hz 50kW 回転数/750rpm> ・昭和38年頃発電所廃止,建物、水圧鉄管、発電機、 配電盤など一式存置。状態は錆びているが良好。
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栃木,水力発電
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1983年から1988年に柏崎刈羽原子力発電所第2号機および第3号機(MARK-Ⅱ改良型原子炉 格納容器)内のプラント配置設計用のエンジニアリングモデルとして製作されたもので、 設計から工事まで幅広く利用された。
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・小中島発電所(東北電力)で使用されていたもので、発電機を流水路内に設置する形式である。出力は2320kWで、1964(昭和39)年の運転開始当時、横軸円筒型水車としては国内最大容量機であった。横軸円筒型水車は低落差における効率の良さが特徴であるが、一般に低落差では水車回転速度が低くなるため、水車と発電機の間に増速装置を設置する場合が多い。小中島発電所で使用された増速装置は、横軸円筒型水車用の国産第一号である。 ・水車出力/2320kW ・水車回転数/200rpm ・発電機出力/2600kVA ・発電機回転数/1000rpm
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・猪苗代第一発電所と高電圧長距離送電 ・駒橋発電所から始まった高電圧長距離送電をさらに大規模化し、「水主火従」時代の到来を決定づけたのが、1915(大正4)年に完成した猪苗代第一発電所(猪苗代水力電気)の成功であった。猪苗代湖の豊富な水力を利用し、最大出力は37500kW。115kVの送電電圧、 東京までの226kmの送電距離、ともに当時世界有数の規模であった。水車には、ドイツの Voith社製11250馬力、横軸フランシス水車6台(うち予備1台)が採用された。発電機は、イギリスのDick、Kerr社製の同じタイプのもの6台で、各発電機の発電電圧は6.6kV、最大出力は9250kVAだった。この史料は、磨耗交換された2代目で、1987年まで使用されていたものである。
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・1939(昭和14)年に建設された信濃川発電所で使用されていた水車発電機。信濃川発電所は千曲川を源流とする信濃川の豊富な水を利用する水路式発電所で、5基の水車発電機により、建設当時には東洋一の発電所出力165000kWを誇った。この史料は2号機で、2000年から始った改造工事に伴い取り外されたものである。この展示では、限られた展示スペースで水車発電機の全体構成を示すために、主要部を分解加工して構造模型に組み込んである。 ・水車<メーカー/Voith 型式/立軸フランシス水車・単輪 最大出力/39000kW 最大使用水量/39.2m3/S 回転数/214rpm> ・発電機<メーカー/AEG 型式/立軸回転磁界 最大出力/39000kVA 定格電圧/11kV 冷却方式/水冷熱交換器形> ・総重量:23t ・大きさ:5.3m(長さ)×3.2m(幅)×2.6m(口径) ・輸送条件:横に転倒して輸送(高さ1m) ・その他:主弁サーボは、東芝で取替(日本製)
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・発電所で使う油圧装置用の圧油をつくることを目的に、今井発電所で1925(大正14)年から1979(昭和54)年まで使用されていた。 ・出力/30馬力 ・回転数/450rpm
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・この史料は開閉器、導体を鉄函に収めた装甲型開閉装置用に作られたものである。装甲型開閉装置は普通の開閉装置に比べ専有面積が少ないので、地価の高い都市部で使われた。イギリスの代表的な電機メーカーであったMetropolitan Vickers社が1924(大正13)年に製造し、芝変電所で使用されていたものである。 ・遮断容量/22kV 400A
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・1926(大正15)年に、東京電燈が電力ネットワークの電圧調整のために輸入したGE社製同期調相機。設置以来、老巧化で1988年に運転を停止するまで63年間にわたって使用された。同期調相機は、無効電力の発生や吸収を行う装置で、系統の電圧調整維持に使われる。1918(大正7)年の初導入以来、需要増に伴うネットワークの拡大とともに設置台数がふえ、最盛期には、25変電所、41台、出力合計361000kVAになった。戦後は、設備の老巧化などに伴い、電力用コンデンサー、分路リアクトルなどの静止型調相設備に置き変わっていったが、調相機の機能が見直されるとともに1990年から新型の同期調相機が主要変電所に設置されている。 ・周波数/50Hz ・電圧/11kV ・回転数/600rpm ・容量/進み 25000kVA~遅れ 18000kVA ・変電調相機器 調相装置 ・旭変電所で大正15年(1926年)使用開始 ・平成5年11月19日運転停止 平成6年11月21日廃止。 ・横軸回転界磁水冷熱交換器形 励磁方式 直流機直接励磁始動方式 ダンパ始動
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日本最初のOFケーブル,東尾久変電所
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22kV3芯150mm2 H形紙絶縁鉛被ケーブルである。(Hochstadter type Lead sheathed cable) 導体上に絶縁紙を巻き、その上に金属遮蔽テープを巻いた線芯3芯を、撚添えジュートと共に撚り合わせた上に金属帯を巻き付け、乾燥浸油して鉛被を施したもので、導体を扇形としてケーブル外径を小さくしている。 Hケーブルは、ベルトケーブルの欠点を補うため芯線絶縁層の上に金属テープを巻いたもので、1913年(大正2年)に発明され、我が国では1926年(大正15年)より製造された。 このケーブルは発明者のドイツ人Hochstadter氏の頭文字をとってHケーブルと名付けられた。 Hケーブルは、SLケーブルに比して外径が小さくなるが、電気的ストレスはかからないとはいえ撚添部を持っているためケーブルの通電による温度上昇に起因し油の粘度が下がり、高低差がある部分で絶縁油の流下が起こり、絶縁性能がやや不安定な嫌いがあるため、使用区分を限定しながらも比較的多く使われた。しかしながら、近年はCVケーブルに殆ど置き変わっている。
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22kV3芯150mm2 ベルト紙絶縁鉛被鋼帯がい装ケーブルである。(Paper insulated lead sheathed and steel Tape Armoured cable) 導体上に絶縁紙を巻いた線芯3芯を、撚添えジュートと共に撚り合わせた上にさらに絶縁紙を巻き付け、乾燥浸油して鉛被を施し、ケーブル防護のためにその上に鋼帯を鎧装したもので、導体を扇形としてケーブル外径を小さくしている。別名ベルトケーブルとも呼ばれている。 このベルトケーブルは、充電部(導体)からアース(金属被)に対する電気的ストレスの方向が絶縁紙層に直角でないため、また芯線絶縁層の上に遮蔽層がないため絶縁紙より弱い材質で構成されている撚添部にもストレスがかかるので絶縁耐力が低く、1935年(昭和10年)頃まで使われていたが、次第にこの欠点を改良したSLケーブルやHケーブルにとって替わられていった。ちなみにベルトケーブルの名称は、3芯を撚合わせた上に巻かれた絶縁紙が帯に似ていることからつけられたものである。
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22kV3芯150mm2 ベルト紙絶縁鉛被鋼帯がい装ケーブルである。(Paper insulated lead sheathed and steel Tape Armoured cable) 導体上に絶縁紙を巻いた線芯3芯を、撚添えジュートと共に撚り合わせた上にさらに絶縁紙を巻き付け、乾燥浸油して鉛被を施し、ケーブル防護のためにその上に鋼帯を鎧装したもので、導体を扇形としてケーブル外径を小さくしている。別名ベルトケーブルとも呼ばれている。 このベルトケーブルは、充電部(導体)からアース(金属被)に対する電気的ストレスの方向が絶縁紙層に直角でないため、また芯線絶縁層の上に遮蔽層がないため絶縁紙より弱い材質で構成されている撚添部にもストレスがかかるので絶縁耐力が低く、1935年(昭和10年)頃まで使われていたが、次第にこの欠点を改良したSLケーブルやHケーブルにとって替わられていった。ちなみにベルトケーブルの名称は、3芯を撚合わせた上に巻かれた絶縁紙が帯に似ていることからつけられたものである。 導体が扇形であるため、ケーブル接続時の導体接続作業のスリーブ挿入に苦労した。 また、長期間使用されたケーブルは、絶縁紙の絶縁油が脱油、ワックス化により耐圧試験を実施すると度々絶縁破壊を起こした。このため、耐圧試験時には事故復旧の体制を整えて試験を実施した。耐圧試験で絶縁破壊した線路の事故点調査は、ケーブル外部に兆候が出ていないので測定が正確でも発見までには長時間を要した。
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22kV3芯150mm2 H形紙絶縁クロロプレン防食ケーブルである。 (Hochstadter type Lead and neopren sheathed cable) 導体上に絶縁紙を巻き、その上に金属遮蔽テープを巻いた線芯3芯を、撚添えジュートと共に撚り合わせた上に金属帯を巻き付け、乾燥浸油して鉛被を施した上にクロロプレン防食をしたものである。導体を扇形としてケーブル外径を小さくしている。 Hケーブルは、ベルトケーブルの欠点を補うため芯線絶縁層の上に金属テープを巻いたもので、1913年(大正2年)に発明され、我が国では1926年(大正15年)より製造された。 このケーブルは発明者のドイツ人Hochstadter氏の頭文字をとってHケーブルと名付けられた。 Hケーブルは、SLケーブルに比して外径が小さくなるが、電気的ストレスはかからないとはいえ撚添部を持っているためケーブルの通電による温度上昇に起因し油の粘度が下がり、高低差がある部分で絶縁油の流下が起こり、絶縁性能がやや不安定な嫌いがあるため、使用区分を限定しながらも比較的多く使われた。しかしながら、近年はCVケーブルに殆ど置き変わっている。 なお、Hケーブルの防食ケーブルは鉛被の腐食防止のためのもので、昭和20年代後半から 使用された。
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66kV 単芯 126.7mm2 OF(Oil Filled)ケーブルである。 1928年(昭和3年)に当時の東京電燈株式会社が熱海変電所に我が国初に布設した国産ケーブルである。 当時、熱海変電所に布設された66kVケーブルは、容量3000kVA 亘長445m 2回線で1回線がOF式で残りの回線はH型ソリッド式であった。ケーブル布設ルートは高低差136m、下部で最大31度の急勾配部を含む傾斜地で中間に接続部をおいて、 直接埋設された。 絶縁体厚さは16.5mm、鉛被厚3.3mm(ケーブル外径65mm)で、充填絶縁油は粘度の高いものが使われた。また、鉛被補強層として硅鋼線φ2mm及び硅銅テープ0.8mmの2種類が使われた。 このケーブルは、その後66kV以上の地中送電ケーブルの主役となったOF(油浸絶縁)ケーブルの原型となった他、布設技術ともに当時としては、世界的に画期的なものであった。 送電、ケーブル、サンプル、一号機,電力ケーブル
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日本電力(1919~1942年)で地中ケーブルの管路として使用されたヒューム管。
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1928(昭和3)年、東京電燈熱海変電所で導入された日本最初の66kV地中ケーブルのケーブルヘッド。
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1928(昭和3)年、東京電燈熱海変電所で導入された日本最初の66kV地中ケーブルの中間接続部。 当時、熱海変電所に布設された66kVケーブルは、容量3000kVA 亘長445m 2回線で1回線がOF式で残りの回線はH型ソリッド式であった。ケーブル布設ルートは高低差136m、下部で最大31度の急勾配部を含む傾斜地で中間に接続部が設置された。 本接続部のケーブル金属シースと接続部銅管との接続方式は、現在と変わらない鉛工であるが、銅管と銅管の接続は現在のフランジ接続とは異なる鉛工となっている。また、コネクタ取付位置も現在は上下に配置しているが同一方向の配置となっている。 この接続部は、その後66kV以上の地中送電ケーブルの主役となったOFケーブルの中間接続部の原型となった。 国産単芯OFケーブル。
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東京電燈のマンホール蓋は戦後も引き続き使用され、1970年頃まではよく見られた。中央円形部に東京電燈のマークがデザインされている。 東京電燈株式会社(明治19年7月開業、昭和17年3月解散)が所有していたマンホール蓋で、昭和40年代半ばころまでは都区内の旧東京市15区内(現在の港区、新宿区四谷・牛込、文京区小石川・本郷、台東区下谷、浅草、江東区本所・深川、中央区日本橋・京橋、千代田区麹町・神田)でかなり見られ、現在でも希に見ることがある。中央円形部に東京電燈マークがデザインされている。 東京都区内に敷設されている東京電力地中送電線用マンホール蓋(配電単独設備は含めない)は約13500個(平成12年12月現在)が存在し、この中には昭和26年5月の東京電力発足時以前の東京電燈・東京市電等から引き継いだ蓋も含まれており、これらの蓋は道路工事やマンホール改修工事等に伴って新しい規格仕様のものに取り替えられているが、時代の流れと変遷を染み込ませて所々で現役として立派に役割を果たしつづけている。ちなみに、日本国内電力会社の地中送電用マンホール蓋の歴史は、ある文献によるとケーブル敷設方式は直埋め方式であったものが、大正時代の初期から管路方式が次第に普及され始めたとされている。
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日本電力は関西地方を中心に事業を展開していたが、1929(昭和4)年に東京の一部への電気供給権を獲得したため,当時は東京でも同社のマンホールが見られた。 日本電力(大正10年6月創業、昭和17年4月関東配電株式会社に統合)が所有していたマンホール蓋で、大正14年に東京府豊多摩郡(現在の新宿・渋谷・目黒区方面)に限っての電力供給許可を受け、昭和4年9月には東京府南葛飾郡(現在の江東・墨田区方面)、南足立郡(現在の足立・葛飾区方面)、北豊島郡(現在の荒川・北区方面)の供給権を獲得し、電力事業を行っていた。現在の東京電力渋谷変電所の位置には日本電力の変電所が存在し、この変電所から旧サッポロビール工場(現在の恵比寿ガーデン)方面への地中ケーブルが敷設されていたようで、この旧ビール工場近くの渋1号マンホールに使用されていた鉄蓋で平成2年頃現在の規格品に取り替えられた。なお、渋1号マンホールは恵比寿ガーデンの建設工事の関係で撤去され現在は存在していない。
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大正時代末、東邦電力が関東進出の足がかりとして創立した東京電力(略称、東力)は関東を舞台に東京電燈と激しい需要家争奪戦を繰りひろげたが、1928(昭和3)年、東京電燈に吸収合併された。 旧東京電力(東力:大正14年3月創立、昭和3年4月東京電燈株式会社に合併)が所有していたマンホール蓋で、大正15年に東京府南葛飾郡(現在の江東・墨田区方面)、北豊島郡(現在の荒川・北区方面)、南足立郡(現在の足立・葛飾区方面)への供給権を獲得し、昭和2年からこの地域への送電を開始した。この蓋は開閉用のトッテがあるのが特徴で、 東京電力江東電力所近くの国道14号線に架かる松代橋左岸の上り線側歩道に設置されていた城8号マンホールに使用されていたが、平成7年頃の道路工事に伴いマンホールとともに撤去された。 このマンホールは昭和のはじめ頃建設されたものと推測される。
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東京市電気局は1911(明治44)年に発足、電気軌道事業(いわゆる市電)と電気供給事業を行った。マンホール蓋中央円形部に電気局のマークがデザインされている。
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1960年代なかばまで使用されていた東京電力の旧規格のマンホール蓋。中央円形部に旧東電マークがデザインされている。 東京電力旧規格のマンホールは、蓋センターのデザインが「稲妻マークと東電」「六万ボルト地中送電線」「東京電力地中電線路」「稲妻マーク」と変遷しており、「稲妻マークと東電」は昭和35年頃まで、「六万ボルト地中送電線」は昭和28~35年頃まで、「東京電力地中電線路」昭和35~45年頃までにそれぞれ製作され、「稲妻マーク」は昭和45年から現在の「TEPCOマーク」の適用された昭和63年まで東電規格として製作され使用されている。
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初期には角形のマンホール蓋が少なくなかったが、作業時にマンホール内に落としやすいこと、破損しやすいことなどから次第に円形が標準になっていった。これは、東京市電気局(1911~1942年)のものと推測される。 現在の地中送電用マンホール蓋の形状は円形が標準となっているが、当時は矩形のものが多かったようである。矩形の蓋は取り扱いにくく、開閉作業時にマンホール内に落としケーブルを損傷する恐れがあり、また破損し易い等から、円形か蓋が標準となった。 東京市電気局(明治44年8月発足、昭和17年4月電気供給事業を関東配電株式会社に統合)
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・マンホールは地中線の点検や保守のために地中に設けられた設備である。地中線の布設に管路引込式が採用されるようになるのは大正時代に入ってからであるが、マンホールの設置が始まったのもまたその頃と推定される。展示品は、1925(大正14)年に作られた煉瓦造りのマンホールのレプリカで、現物は東京・浅草で現在も使用されている。
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・10mm、20mm幅等小幅のオイルペーパー(絶縁紙)を温めてペーパー内の湿気を除去するために使用した。 厚さ1.2mmの銅版製の鍋で、絶縁油を8分目程度入れ120℃以上の温度にならないよう油温管理するとともに、内部にごみ等が入らないよう使用時以外は蓋をする等配慮した。 地中線の接続と工具 22kV地中線ケーブルの接続作業に使われていた接続工具である。一部のものは現在も使用されている。 接続の主な作業 ●導体の接続 22kV以下のケーブルの導体の接続は半田付け方式で行われた。 導体を銅スリーブで接続し、炉にかけた半田鍋で溶かした半田を半田杓子でスリーブ上にかけて密着させた。路上で溶解した高温な半田をマンホール内におろしての作業なので慎重に行われた。 ●絶縁被覆 オイル鍋にオイルペーパーを入れて暖め、ペーパーの湿気を除去し、胴体の上に巻いて絶縁した。 ●鉛被覆 ケーブル接続部を密閉するために、鉛管で被覆した。接続部に鉛管をかぶせてドレッサーで接続ケーブルの鉛被へ円錐状になるようかしめ、トーチランプで半田付けした。
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地中線の接続と工具 22kV地中線ケーブルの接続作業に使われていた接続工具である。一部のものは現在も使用されている。 接続の主な作業 ●導体の接続 22kV以下のケーブルの導体の接続は半田付け方式で行われた。 導体を銅スリーブで接続し、炉にかけた半田鍋で溶かした半田を半田杓子でスリーブ上にかけて密着させた。路上で溶解した高温な半田をマンホール内におろしての作業なので慎重に行われた。 ●絶縁被覆 オイル鍋にオイルペーパーを入れて暖め、ペーパーの湿気を除去し、胴体の上に巻いて絶縁した。 ●鉛被覆 ケーブル接続部を密閉するために、鉛管で被覆した。接続部に鉛管をかぶせてドレッサーで接続ケーブルの鉛被へ円錐状になるようかしめ、トーチランプで半田付けした。
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・半田鍋・コンパウンドの溶解、オイルペーパーの温め、半田ごての焼き付け等に使用し燃料には木炭を使用していた( ~昭和40年代、現在はガスバーナーを使用) 木炭は一回の接続作業で1/2~1/3俵を使用した。 ・上部より200mmの位置に木炭を乗せるロストル、半田コテ焼き付け用の上窓口、通風用の下窓口、内側上部にはコンパウンド缶を乗せる台金を溶接したものを備えている。 ・作業工程に合わせて半田鍋→オイル鍋→半田こて→コンパウンド缶等作業を進める上で機能的な役割を果たしたが、この役割を果たすために、接続作業の進み具合を見ながらタイミングよく準備していく、手元作業員の労苦の積み重ねを忘れることは出来ない。 ・火の粉や灰が接続作業しているところに飛散しないよう、ファイヤーポットは必ず風下に置くことも要領のひとつだった。 地中線の接続と工具 22kV地中線ケーブルの接続作業に使われていた接続工具である。一部のものは現在も使用されている。 接続の主な作業 ●導体の接続 22kV以下のケーブルの導体の接続は半田付け方式で行われた。 導体を銅スリーブで接続し、炉にかけた半田鍋で溶かした半田を半田杓子でスリーブ上にかけて密着させた。路上で溶解した高温な半田をマンホール内におろしての作業なので慎重に行われた。 ●絶縁被覆 オイル鍋にオイルペーパーを入れて暖め、ペーパーの湿気を除去し、胴体の上に巻いて絶縁した。 ●鉛被覆 ケーブル接続部を密閉するために、鉛管で被覆した。接続部に鉛管をかぶせてドレッサーで接続ケーブルの鉛被へ円錐状になるようかしめ、トーチランプで半田付けした。 地中送電,地中線,建設・工事概要
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・1909(明治42)年に箱根水力電気会社が箱根町に建設した塔之沢水力発電所 (出力3300kW)の電力を、横浜の保土ヶ谷変電所まで亘長58km、電圧44kVの2回線で送電した鉄塔で、アメリカの設計技術により建設された。従来、送電線には木柱が使われ、河川横断部などで部分的に鉄塔が用いられていたが、全線にわたって鉄塔が採用されたのは、この塔之沢線が最初であった。当時、日本では鉄塔、碍子、電線等の材料は主にアメリカより輸入し外国に依存して建設してきた。 ・鉄塔番号/塔之沢線No.37 ・鉄塔重量/1540kg ・鉄塔高さ/14.68m(地上高) ・碍子/60号ピン碍子 ・電線/硬銅より線(HDCC)55mm2
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・1911(明治44)年に鬼怒川水力電気が栃木県の鬼怒川温泉に建設した下滝水力発電所(出 力37500kW)の電力を、東京市電へ供給するため、尾久変電所まで亘長124km、電圧66kVの2回線で送電した鉄塔。アメリカの設計技術により国産材料を用いて建設された。用地補 償の軽減のためになるべく幅員(最外側電線間の幅)を狭くすることや、電線の正三角形の配置を維持することなどから特殊な形の設計となり、人間がバンザイをした形に似ていることから「バンザイ鉄塔」と呼ばれた。 ・1918年にはこの送電線を使って,世界初の電力線搬送通信の実運用試験が行われた。 ・鉄塔番号/鬼怒川線No.865 ・鉄塔重量/2324kg ・鉄塔高さ/13.40m (地上高) ・碍子/60号ピン碍子 ・電線/硬銅より線(HDCC)200mm2 ・明治時代、鉄塔、バンザイ鉄塔、送電線、支持物、アメリカ、架空線、鬼怒川、送電
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