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コニカ C35AF

自動焦点カメラ(パッシブ三角測量式)。昭和52年11月発売。形式:レンズシャッター式透視ファインダーカメラ、感光材料:135フィルム、画面サイズ:24×36ミリ、価格:42、800円。年代:1977

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ミノルタ 7000AF

交換レンズのAF駆動源(モーター)をボディー側にもつオートフォーカス式一眼レフカメラ。昭和59年12月発売。形式:フォーカルプレンシャッター式一眼レフカメラ、感光材料:135フィルム、画面サイズ:24×36ミリ、価格:88、000円(ボディーのみ)・118、000円(50ミリF1.8付)。年代:1984

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南蛮船上商いの図

江戸時代の南蛮貿易の様子が描かれた絵画で、カンバス(絵を描く支持体)に革を用いている。16世紀半ばから18世紀頃に使われていたガレオン船(帆船:軍艦や商船として運航)、その船上で商売をしているポルトガルに中国人たち、港から海上を眺める人々などが力強く描かれている。ポルトガル人との貿易の様子を描いた絵画であったはずなのに、掲げた旗がオランダ国旗になっているのは、日本が鎖国となった後、ポルトガル国旗の上からオランダのものに塗り替えられたと考えられる。年代:16世紀半ば~18世紀

情報所有館 : 中冨記念くすり博物館 


ガリポット

17世紀頃、オランダ東インド会社が有田の窯元に作らせた陶器で、薬や香料入れとして用いられた。胴体に染め付けられた『VOC』の文字は、社名の『VereenigdeOostindischeCompagnie』の頭文字をデザイン化したもの。伊万里の港から積み出され、関連会社の病院や薬局がある国々へと運ばれた。年代:17世紀

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アルバン・アトキン薬局

イギリスはロンドンの郊外に実存していた薬局で、開店は約100年前。閉店から半世紀以上が過ぎるその古い薬局の店内をそっくりそのまま移設し、再現。勤務していた数名の薬剤師は、病状に合わせて薬を処方、調合していた。当時のイギリスの薬剤師は、医師から独立した地位を認められていた。薬の他にも日用品、化粧品なども陳列しており、店内には約2万点の資料(薬品類)が残っている。年代:1900年頃

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ベラドンナチンキ

ベラドンナ(ナス科)の根から抽出し、濃縮したエキス剤。鎮痛・鎮痙・鎮咳・止汗薬。有効成分にアトロピンを含み、瞳孔を拡げる作用がある。そのアトロピンの副作用を美への追求に用いたのが中世ヨーロッパの女性たちで、ひと時だけでも大きく魅力的な瞳に見せたいとの願いから点眼する者もいたと言う。年代:1900~1950年

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ジギタリスチンキ

ジギタリス(ゴマノハグサ科)の葉を60℃以下で乾燥させ、細切りにした後、抽出したエキスを濃縮したもの。強心・利尿薬。栽培はヨーロッパのほか、日本でも行われていた。有効成分にジギトキシン等の強心配糖体を含み、心臓の筋肉の収縮を強化するため、うっ血性の心不全に用いられる。年代:1900~1950年

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シュメールタブレット

メソポタミア地方(現在のイラク辺り)・ニップルより出土した粘土板(複製品)。表面に楔形文字が刻まれており、“シュメールタブレット”、または“クレイタブレット”と呼ばれる。紀元前3000年頃、この地に文明を築いていたシュメール人の医師によって書かれたもので、文明史上で最も古いくすりの作り方の記録。展示している粘土板には、内服薬、湿布薬などの作り方が記されている。年代:紀元前3000年のものの複製

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ファイバースコープ

1962(昭和37)年に、アメリカより輸入された内視鏡(ファイバースコープ)。その時、輸入された数は5台で、こちらの1台は外科医武石明治氏(筑紫野市在住)が約130万円で購入したもの。当時の130万円は、現在の1千万円に相当する。当時、最新であったアメリカ製のファイバースコープの導入によって、現在最も一般的なX線を併用する胃潰瘍・胃癌などの正確な診断法が確立された。年代:1962年

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神農像

別名を炎帝と言い、古代中国に実在した皇帝。農業と医薬の神として、中国では広く知られている。草を口に含んでいるさまが絵画や彫刻の題材(モチーフ)となっているのは、自らで植物などを服用して、その有効性・安全性を探り、体験から得た確かな薬物療法を人々に教えたとされているから。中国のみならず、日本でも薬業関係者には信仰されてきた薬の神様。この掛け軸は、配置売薬業を商いとしていた家で大切に所有されていたもの。年代:明治期

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白澤(はくたく)

中国の伝説に登場する神獣で、6本の角と9つの眼を持つ牛のような姿をしている。徳の高い治政者の世に現れるとされ、人の言葉を理解し、病魔を防ぐ力があると謂われている。日本に伝わったのは平安時代。江戸時代には、旅行中の病気や厄除けのお守りとして、白澤の絵を懐に携え、旅する習慣があったとされている。栃木県日光市にある日光東照宮では、白澤の図を見ることが出来る。

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本草綱目

中国の博物学者・李時珍(りじちん)によって編纂された本草の解説書。現在の図鑑に近い。1892種の本草が16部60種に分類され、詳しく解説されている。初版本を「金稜本」(全52巻)といい、1596(慶長元)年に刊行。こちらの「江西本」は第2版として全36巻にて1653年に刊行されたもので、江戸時代の初期に伝わり、日本の本草学に大きな影響を与えた。年代:1653年

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煎り鍋

ドクダミやオウレンなど、自家調達した生薬を炒って、乾かすための道具。大きく重いため、生薬を取り出しやすいように掻き出し口がついている。こちらの炒り鍋は、江戸時代末期頃まで当地(佐賀県鳥栖市田代)の売薬業者である重松家で使用されていたもの。直径87cm、深さ14cmの鉄製。年代:江戸末期~明治初期

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片手切り

生薬である薬草を刻む道具。片手盤とも呼ばれた。木製の台部(円柱)に支柱があり、その支柱部分に包丁の先端を差し込み、テコの原理にて生薬を刻む。台部(木製の円柱)の上辺がギザギザなのは、包丁を使っていくうちに木が筋状に削れてしまったから。一部だけが削れすぎてしまうのを防ぐため、台部は規則的に回転させた。包丁もよく使用する部分の刃が減っている。年代:江戸末期~明治初期

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両手切り (もろてぎり)

片手切りと同じく、生薬である薬草を刻む道具。弓型の刃の両側に木製の取っ手が付いている。その刃には重石が付いていて、弓型の刃を左右に揺らすと、石の重さで硬い生薬を刻むことが出来た。双手切りとも呼ばれた。片手切りなどで裁断した生薬をさらに細かく刻む時に使用した。両手切りの刃は鍛冶屋が、石は石工によって加工された。いずれも当地(佐賀県鳥栖市田代)の職人が手掛けたもの。年代:江戸末期~明治初期

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薬研

片手切り・両手切りなどで刻んだ生薬を粉状にする道具。昔の製薬には、欠かせなかった道具の一つ。V字形の溝に生薬を入れ、円盤をきしらせるように転がすと擂り潰せる。平安時代末期ごろには使われていたようで、薬研の溝の形から『薬研堀』、『薬研彫』、『薬研馬鍬』などの言葉が生まれた。年代:江戸末期~明治初期

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碾き臼

生薬を粉末に擂り潰す道具。薬研で粗めにすり潰したものをさらに細かな粉末(散薬)にすることが出来た。また、薬をつくるときの他、大豆や抹茶を挽く際にも使用した。昭和20年代までは日本の農家などで広く活用された道具だった。

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乳鉢 ・ 乳棒

粗く刻んだ薬草をすり潰す道具。また、数種の薬剤を調合するの時にも使用した。磁器、ガラス、鉄、石など用途によって材質を使い分けた。乳鉢は内側の表面が滑らかなものが良品で、穴やすき間があると均等に粉砕・調合されない。また、乳棒は、通常、乳鉢と同質のものを使うが、鹿の角を乳棒とすることもある。年代:江戸末期~明治初期

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箱篩い

粉末(散薬)の粒の大きさを均一に整える道具。箱形、蓋付きで、粉が周りに飛び散らないようになっている。篩う際は、箱に蓋をかぶせ、取っ手を押し引きして使う。その時にゴトゴトと音を立てることから、当地(佐賀県鳥栖市田代)では”ゴトゴト”という名で呼ばれることもあった。年代:1859年(安政6年)

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竿秤(さおばかり)

さお(衡)の片方には重さを量るものを乗せた皿、もう片方には錘(おもり)、その二つを竿のバランスによって計量する道具。小型のものは厘秤(りんばかり)と呼ばれ、服用する薬の一回分を量る際に活用した。年代:江戸末期~明治初期

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こね鉢

丸薬(丸い粒状の薬)を作る際、粉末になった数種の生薬を調合し、粘土状に捏ねる道具。陶器製が主流だが、木製もある。少量の調合の場合、乳鉢を代用品とすることもあった。粉末にした主原料につなぎ(米粉、蜂蜜など)、デンプンなどを混ぜ、少量の水を加えながら練り合わせた。年代:江戸末期~明治初期

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バラ

製丸(原料を粒状に丸める作業)や丸薬に色づけする際に用いた道具。形状は大型の笊(ざる)。特徴は底面の中央部が山型になっていて、笊の円周は溝になっている。色づけするには、バラに丸薬を入れ、そこに朱などの染料をまぶし、均等に色が付くようバラを揺すった。年代:江戸末期~明治初期

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計数・調剤匙

計数匙は丸薬を数える匙で、調剤匙は粉末を量る匙。計数匙の素材は木やべっ甲などがあり、丸薬をすくうと、穴の数だけ粒数が計れる。調剤匙は黄銅製が多く、匙の形状はさまざま。年代:江戸末期~明治初期

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柳行李

コリヤナギの枝(皮)で編まれた籠。撥水・防カビ作用があるコリヤナギの枝は、昔から衣類などを収納するための籠、お弁当入れの素材として使われている。配置売薬業者の多くは、五段重ねの柳行李を用いた。大きさの違う五つの籠には、上から一段目に配置帳やそろばん・財布など、二段目には得意先への土産品、三段目と四段目には新しい薬、五段目には回収した古い薬を入れた。重ねた柳行李は風呂敷包みにし、重さ20キロ以上にもなるそれを背負って行商した。年代:江戸末期~明治期

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預け箱・預け袋

薬を預けた得意先で、用いてもらう薬入れ(薬の保管箱)。箱型のものの他に紙袋もあった。箱の素材は厚手の紙や木(桐)などで出来た抽斗式のもので、どの面にも売薬業者名、薬品名などがくっきりと記されている。預け袋は売薬人が持ち運ぶのにかさばらず、少量の薬を預けておくのに適していた。袋の表には売薬業者名に薬品名が、裏には配置した年月日、数量を書き込む欄がある。売薬人は得意先を訪れた際、預け箱や預け袋の中身を確認して、薬代の請求、薬の交換や補充などを行った。年代:江戸末期~明治期

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紙風船

得意先の子どもたちに渡した土産で、紙製の風船。立方体で、各面には薬の広告などの絵柄が刷られている。折り畳んだ状態の紙風船はかさばらないので、行商時、何枚も束ねて持っていくことが出来た。年代:昭和中期

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配置帳

顧客管理台帳で、得意帳、配附帳、配置簿などとも呼ばれた。富山では懸場帳とも呼ばれていた。得意先1軒につき、見開き1ページ。そこに得意先名(配置先の名前)、家族構成、家の位置、預けている薬品名、その数などが記録された冊子で、地域別、または配置担当者別に綴られていた。薬を消費した数、その代金の領収まで記録しておくことで、正確な顧客管理が出来た。売薬業を引退する時や経営難になった時など、同業者の間では、この配置帳は売買の対象となった。配置帳を売り渡すということは得意先を譲るということになるので、高価で取引がなされた。年代:1885年

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往来手形

江戸時代、売薬人をはじめ、他国(他藩)へ行く時に携帯した手形。旅行許可券と身分証明書を兼ねた現在のパスポートにあたるもので、町役人や寺などが発行。これを関所や番所などで提示することで、他藩へ入ることが許された。年代:1864年

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矢立

筆と墨壺が備わった昔の筆入れ。売薬人をはじめ、さまざまな商人たちの必需品だったが、万年筆の普及と共に姿を消した。年代:江戸末期

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行商鑑札

売薬の行商許可証で、身分証明書も兼ねていた。こちらの鑑札は、佐賀県三養基郡役所が発行したもの。年代:1915年

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売渡証文

配置売薬の得意先(行商権のこと)を売渡した証文。この証文とともに、配置帳、得意先に関する情報、権利一切が引き渡される。得意先の情報を記録した配置帳は、売薬人にとっては貴重な財産で、売買、譲渡のほか、質入れや抵当にすることもできた。この証文には、当地(佐賀県鳥栖市田代)の売薬業者、扇屋勘右衛門が松隈要七へ筑後羽犬塚(現在の福岡県筑後市)近くの得意先200軒を売り渡したということが記されている。年代:1860年

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置看板

薬舗(店内)の前方に置くための木製看板。足がついており、床に立てて用いることが出来た。金・銀箔に朱や黒の漆塗り、繊細で巧みな彫刻などが施されたものが多い。一つの商品名を一枚の看板に示して販売促進力を強める、店の奥を覗かせない、そんな二つの役目を担っていた。店の格式を誇る象徴となるだけに、制作費用が掛けられた。こちらは佐賀県伊万里市の薬舗で使われていた置看板で、縦150cm、横130cm。彫刻部は全て金箔仕上げ。

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紙看板

版を刷って作られた紙製の看板。薬舗(店内)に貼ることもあったが、主に旅先(行商の時)での宿場で用いた。宿の軒に紙看板を吊るすことで薬の宣伝となり、また、宿場の周辺の得意先に薬代を準備することを伝える役目も担った。紙製でしたので、軽量でかさばらないため、行商に携帯するには便利だった。年代:江戸時代

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袋看板

生薬の保管袋を模った看板。江戸時代、生薬袋の形を看板としたのは薬種屋と砂糖屋だけだったことから、軒先に吊るした看板で、人はすぐに薬種屋を見つけることができた。紙製であったため、雨が降ると店内へ入れていた。年代:江戸時代の複製品

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百味箪笥

乾燥した生薬を小分けして、保管しておくための箪笥。たくさんの小さな抽斗が備わっている。その抽斗に、一つずつ異なる生薬を納めていた。一つの箪笥に幾種もの生薬が保管できることから“百味”と名付けられたよう。年代:江戸末期~明治初期

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膏薬釜

生薬を煮詰めるための釜(道具)。万金膏を造る時にも使用した。主原料を混ぜ合わせ、煮詰める際、出火しないようにするには技術を要した。時間を掛けて煮詰めてゆくが、専用の掻き混ぜ棒(大型のヘラ:長さ1.5mほど)を用いて混ざり具合を調整した。釜の直径は80cm。年代:昭和中期

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万金膏

当地(佐賀県鳥栖市田代)で生まれた薬の中で代表格のもので、“延べ膏薬”“黒膏”とも呼ばれた貼りぐすり。大きさは、葉書よりやや小さめ。主成分の胡麻油や鉛丹(四酸化三鉛)を釜で煮つめ、その泥状の黒い膏薬を和紙に薄く伸ばして加工した。現在の白色貼付剤の前身。年代:昭和中期

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奇応丸

奇応丸はニンジン(人参)、ジンコウ(沈香)、ユウタン(熊胆)、ジャコウ(麝香)が配合された胃腸薬。極めて小さな粒の丸剤で、多くは金箔が施されている。室町時代の処方が残っているほど、古い歴史を持つ薬。万能薬として扱われることも多く、薬種商で盛んな各地で作られていた。年代:江戸末期~明治初期

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散薬混和機(V混)

薬の原料を混ぜ合わせる機械。それぞれ種類の違う散薬(粉薬)をV字形の両面から入れ、一定時間回転させることで均等に混ざ合わせることが出来る。年代:昭和中期

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ボールミル

製剤で使われていた代表的な粉砕機で、くすりの原料を細かく砕くことのできた機械。太鼓形のドラムに、数個の磁器製のボール(団子くらいの球)とくすりの原料を入れ、ドラムの回転により落下するボールの衝撃で、原料を細かく砕いた。粉砕の力は、ドラムの回転速度、ボールの数や大きさ・重量によって違った。年代:昭和中期

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浸煎剤器

湯煎器。固形物や粉末を湯煎で溶かすことが出来る。年代:昭和中期

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攪拌器

薬品になる数種の原料を入れてすり潰し、均等に攪拌する(かき混ぜる)機械。昭和時代までは使われていた。製薬だけでなく、蒲鉾屋やお菓子屋などで用いるようになったところもあり、今も使っている店もあるという。年代:昭和中期

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打錠機

1打で1錠が作れる、錠剤の小規模生産用の機械。薬品の粉末を上下のキネで圧縮して製剤。年代:昭和中期

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飲食養生鑑

江戸時代の刷り物で、陰陽五行説の思想に基づく、五臓六腑の働きと養生の方法が著されている。作者は歌川芳綱。大食い、大酒、むら食いが万病のもとで、好き嫌いをせず、ほどよく飲み食いをし、心を安らかにすることが健康の秘訣と説いている。また、食事は腹六分目で長寿となり、九分目で命を縮めるという記述も見られる。年代:江戸

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売薬土産(売薬版画)

浮世絵・錦絵のことで、配置薬を使ってくれる得意先への土産の一つとしていた。浮世絵は江戸時代後期より登場。絵師、彫り師、摺り師らが技術を集結させて作られる高価な刷り物だったので、上得意への土産としていた。名所、役者、暦など、豊富な題材で多数の作品が残っている。売薬土産はおまけ商法の始まりとされている。

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往診用薬箱

医者が患者のもとを訪れる時に携えた薬箱で、こちらは有馬藩(福岡県久留米市)藩主を診察する際に使われていたもの。御殿医を務めていた平野家所有の薬箱。中には110種類の生薬が当時のまま現存している。多種の生薬を病状に合わせて処方していたことが伺える。年代:江戸

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天秤担ぎの薬箱

天秤棒の左右に桶や笊、箱を下げて物を運搬した道具。別名、“振り売り箱”とも呼ばれた。こちらは枇杷の葉を販売する際(枇杷葉湯売り)に使われていたもの。室町時代より登場したこの振り売りは、江戸時代に大きく栄えた。通りに出れば、生活に必要な物が買えるという点から多くの人に親しまれ、さまざまな品が販売された。薬の振り売りは、枇杷の葉売りと薬屋の定斎屋が有名。枇杷の葉を煎じたものは暑気あたり、めまい、疲労などに効くとして、夏になると登場した。年代:江戸末期~明治初期

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蘭引

酒などの蒸留器。香水も蘭引で造られていた。沸点の違いによって、原料から抽出したい成分を取り出すことができる。“らんびき”という名前の由来は、アラビア語の“アランビック(蒸留器という意味)”で、17世紀初めにオランダから伝わった。

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生命の種子モニュメント

イタリアの彫刻家チェッコ・ボナノッテ作。博物館の正面玄関に展示。博物館の開館(1995年)に合わせて創られた作品で、テーマは“いのち”。作品名は『生命の種子』。作品名通り、命の誕生から終わりまでが、6つの場面で表されている。博物館の建物の基本設計もチェッコ・ボナノッテによる。

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破傷風菌培養装置

細菌学者である北里柴三郎が破傷風菌を培養するために使った装置(復元)。破傷風菌が空気を嫌うことから、代わりに亜鉛と硫酸を反応させて作った水素の中で培養したことで、1889年(明治22)、培養に成功。培養した菌を用いて、破傷風毒素・抗毒素を発見し、血清療法という治療分野を切り開いた。

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