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1864年(元治元年)、酢造りと酒造りを兼営していた中野又左衛門は自らが持つ酒造株1514石と購入した651石を、約300石ずつ中野小吉などの一族や中野家関係の深い人々に譲渡しました。
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「買帳」は支出を記録した帳簿です。酢の原料である酒粕、樽や桶、袋などの道具類、蔵で働く人々への給料など、中野又左衛門が支払った金額と費目・相手などが日を追って記されている。展示されている「買帳」は1845年(弘化2年)9月から約1年間の記録。(複製)
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1884年(明治17年)商標条例が施行されると、商標の専有には登録が必要になり、登録者以外の使用が禁止されました。商標使用の権利は登録出願の先着者が優先されました。中野又左衛門は、それまで同じ丸環印を使ってきた他の酢屋に遅れを取り、新たな商標を考える必要に迫られました。そこで、中野家の家紋丸にさんぎをもとに、今のミツカンマークをデザインしました。ミツカンマークの商標は1887年(明治20年)5月に登録が認可されました。最初は「三ツ環」としましたがすぐに「ミツカン」と表記を改めました。
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ミツカンマークの商標登録披露会を開催した際の資料。東京の新富座を借り切り、得意先など1,500人を招待し、ミツカンマーク入りの猪口などを配った。その費用1,300円は中埜又左衛門と東京の特約店の中井三郎で折半した。
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四代目又左衛門は1884年(明治17年)に現在のJR半田駅付近に畜舎や事務室などを建設して、「愛養舎」の名前で牛乳搾取・販売業をはじめました。愛養舎は1900年(明治33年)に「愛養舎牛乳之責任」と題するビラを発行しました。そこには、乳牛の飼育や牛乳の管理体制が万全であることなど責任を持って対処することが記されています。
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中野又左衛門は、1887年(明治20年)、甥の盛田善平にビール製法の調査を行わせ、翌年200石の丸三ビールを売り出しました。その後、順調に売上を伸ばし、1898年(明治31年)には、レンガ造りの工場を新築し、本格的なドイツビールを目指しました。新銘柄のカブトビールは、エビスなどに次いで国内5番目のシェアを誇りました。その直後、大手ビール会社同士の熾烈な販売競争が始まり、ビール会社の経営権は東京の根津嘉一郎の手に渡りましたが、カフェ文化の隆盛とともに、カブトビールの名は全国に知れ渡りました。1943年に製造は中止しましたが、近年になり当時の味わいをもつカブトビールが復刻されました。
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株式会社中埜酢店としての第一期(1923年7月~1924年6月)営業報告書。9月1日、最大の市場である関東一円が関東大震災に見舞われ、12月27日には、最大の生産拠点であった半田第一工場にて大火災が発生したことが記載されている。株式会社としてのスタートはきびしいものでありました(複製)
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昭和39年(1964年)「ぽん酢味付け」発売。1980年に「味ぽん」に商品名を変更。「味ぽん」発売初期の頃のラベルと壜。初期は丸い壜ではなく、三角壜でした。(複製)
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【小麦をよりわける「唐箕」】唐箕は、いまでいう精選機のことです。むかし、農家では収穫されたお米や小麦などの穀物の粒をわけたり、ゴミを取り除くために使われていました。醤油づくりでも、良い小麦だけをよりわけるために使われていました。
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