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明治31年(1898年)、株式会社に改組した時に東京事務所守衛室用に作られた最初の見回り用の江戸張提灯。工場の出火・近火あるいは明治41年(1908年)の目黒川大出水時にも周辺の巡回に活躍しました 年代:1898
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
光明丹の製造時、石搗で粉砕したリサージ(一酸化鉛)を水簸して細かい粉を乾燥させ、再び鍋で加熱して色づけしました。できあがった光明丹の塊を砕いた鉄製の臼です 年代:1881
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明治14年(1881年)から同30年頃まで、亜鉛華の製造時に坩堝として使われた漁業用の常滑焼きの壺です。口の上に素焼きの皿を載せ、粗く砕いた亜鉛を入れて、壺の下から当初は木炭で加熱し、亜鉛が溶けたら皿を割って一気に灼熱した壺の中に落として、気化させたものを布袋で回収しました 年代:1881
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当社「中興の祖」小畑源之助氏は、大正2年(1913年)に営業部長に就任直後から流通網整備を進め、共存共栄の理念を説いて廻りました。大阪地区の有力特約店は「大黒会」を結成して連帯意識を高め、同会のシンボルとして大黒様の木像をつくりました。右手には槌印商標(別項参照)を立体化した打出の小槌を振っています。 年代:1913
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昭和47年に飛鳥高松塚古墳で発見された彩色豊かな西面の壁画「吉祥天女」。画材に使われたのは、丹土・緑青・黄土・群青などで、1300年前の日本人のカラフルな生活が偲ばれます。昭和56年に創業100周年記念事業として歴史館を全面改装した際に、インクジェットプリンターによって麻の布に再現したものです 年代:1981
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中央の穴から一定時間に試料液が落下して、ガラス版の上に広がる面積により、粘度を測定する塗料検査機器です。 (東京牛込 上島製作所製) 年代:1975
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皿の上に分胴を乗せて荷重を掛けたレコードの針先を塗り板に当てて、ハンドルを回して板を水平移動させ、引っ掻きキズがついたときの荷重により、塗膜の固さや付着強度を測定する塗膜試験器です 年代:1960
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塗料が入った容器に回転翼を漬け、糸の先のおもり(分銅)が降りる力で回転翼を廻して、その回転数と重さによって液体の抵抗値を換算し、粘度数値(ku値)を算出する塗料粘度測定器です。(米フィラデルフィアの アーサー H. トーマス社製) 年代:1935
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有機溶剤や溶剤型塗料などが引火する温度を測定する試験機。消防法により引火点21℃未満の第1石油類から、200℃以上の第4石油類まで4段階に分類され、輸送・保存条件や数量が規制されます。 年代:1950
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粘度検査用カップの一種で、上のカップを液体で満たした後ガラス板で蓋をし、計測開始と同時にガラスを外して、底の穴から液体が落ちきるまでに要する時間で粘度を測定します。日本工業規格(JIS)に準じた計測法です 年代:1960
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板面に塗料を置き、このゲージを滑らせるように動かして、一定の厚みの塗膜を塗装する器具です。隠蔽に必要な膜の厚みを判定する時などに使用します。このブレードは100μm・150μm・200μm・250μm・300μmの5種類の膜厚を一度に塗れます 年代:1975
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大阪工場で、昭和40年から平成10年までの33年間使われていた基準手動天秤です。工場内の多くの計量秤に使用する分銅(おもり)の重量検査に使用し、品質管理に使われました。今ではデジタル秤にとって代わりましたが、このように保存されているのは珍しいそうです。この天秤は、秤量20kg、感量200mgの精度で量れます。(京都 関西精機株式会社製) 年代:1965
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大阪工場で、昭和40年から平成10年までの33年間使われていた基準手動天秤です。工場内の多くの計量秤に使用する分銅(おもり)の重量検査に使用し、品質管理に使われました。今ではデジタル秤にとって代わりましたが、このように保存されているのは珍しいそうです。この天秤は、秤量5kg、感量50mgの精度で量れます。(京都 関西精機株式会社製) 年代:1965
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第1図 「光明社の外観」です。 明治14年から同30年ころ正面は8寸の角材を用い西向きでした。向かって左側が事務所、右側が倉庫で、事務所の奥が練り場でした。始業・終業の合図には拍子木をカチンカチンとならして巡回していました 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第2図 「油の天日晒し」。 明治14年から同30年までの光景です。石油缶を2つに切ったような容器を5個5列1組として並べ、その中に油を入れて天日により漂白していました。持ち運びに手間がかかり、「サァー夕立だ!!」という場合は大変でした 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第3図 「魚油の精製」。 明治14年から同30年頃までの魚油の精製光景です。鉄製の3升入りの丸缶に2升の魚油を入れ、油に点火して燃焼させます。攪拌すると下火になり、放置すると再燃焼するという方法でした。あまり臭いので歓迎されませんでした 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第4図 「魚油以外の油の精製」。明治14年から同30年頃まで、魚油以外の油の精製法は、釜に4升の湯を沸かし、その上に油を入れた平鍋を掛ける湯煎の方法でした。木の柄がついた鉄の剣を使って攪拌しながら加熱して精製していました 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第5図 「ワニス焚き」。 明治14年から同30年頃までのワニス焚きの光景です。煉瓦つくりの炉の中に直径1尺2.3寸、高さ4尺の鉄製の丸缶を挿入し、石炭で加熱しました。当時温度計がなかったので、温度が上がり過ぎ、木栓が吹き飛んで驚かせました 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第6図 「ライスの製造」。明治14年から同30年頃まで、周囲3尺4寸高さ10尺の煉瓦の槽をつくり、上から水をかけてできたライス(炭酸カルシウム)を洗浄していました。下で鉢巻・法被姿の試験係が時々溶液をなめてアルカリ度をチェックしていました 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第7図 「光明丹製造の鉛切り」。 明治25年から45年まで、光明丹製造用の鍋が小さかったので、鉛の地金を「たがね」を当ててハンマーで2人1組になって3~4つに細分していました。このとき使っていたハンマーは「ポンコツ」と言っていました 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第8図 「光明丹の製造」。 明治25年から同45年まで、第7図で切った鉛を焼き芋用の鍋に入れて加熱しつつ攪拌し、できあがった(一酸化鉛)を石臼で粉砕、水簸して更に乾燥させ、再び鍋で焼いて色をつけていました。この工程には60日を要していました 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第9図 「リサージの水簸」。 明治27年から同30年頃、リサージ(一酸化鉛)の粉末を選別するのに使った水簸装置です。4斗樽の高さは約6尺。それから下に段々式に流水を利用して粒子を分別しました。当初はポンプが無いので手杓を使っていました 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画のうちの第10図「平井社員の表彰」。 亜鉛華の精製は明治27年以降も行なわれていますが、この方法を発明した平井社員は亜鉛華精製法発明者として賞状と賞金8円が授与されました。生産能力は1日36貫 (但し、硫黄を使った方法は創業者:茂木氏の特許) 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第11図 「製缶作業」。 明治27年から同30年頃までの鉄丸缶製造光景です。コンパスで円を描き、手バサミで切り、手廻し式で5kg・3kg・1kgのブリキ缶を作っていました。28ポンド缶は舶来塗料の空缶を再利用していました 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第12図 「ペンキ練り合わせ作業」。 明治14年から末頃まで、鍬で顔料と油を捏ね合わせました。また当時のロールミルはフレームだけが鉄製の手廻し式でした。、明治30年以後は石油エンジンを使いましたが、多量につくる白以外は相変わらす手廻しでした 年代:1940
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漫画家:藤原せいけん氏によって描かれた、当社の前身「光明社」時代の塗料製法の漫画の内の第13図 「ペンキの溶解と濾過作業」。 明治14年から末までの光景です。3石入りの大樽に30貫分を溶解し、5人一組となって棒で攪拌しました。布で作った濾器に杓で入れて漉し、4斗樽に入れました。当時の作業員は好きな格好をしていたようです 年代:1940
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治中期まで、塗料は薬種商や絵具染料商・船具商でわずかに扱われていましたが、次第に需要が増し、明治末には全国で25店に増加しました。塗料商であることを明示するため、各店店頭に飾られた木製の特約販売店表示看板です。年代:1927
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
第4回内国勧業博覧会が明治28年(1895年)京都で開催されました。出品した当社の塗料が高く評価されて、日本銀行総裁から銀杯1組を賜ったことを記念として作られた金庫で、昭和54年頃まで使われていました。鍵穴蓋に「菊の御紋」と「進歩」の文字が鋳造され、番号合わせのダイヤルが、数字ではなく“イロハ”で表示されています。年代:1896
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治40年3月20日から7月30日まで、上野公園で開催された東京勧業博覧会は、夏目漱石の「虞美人草」の舞台となり、不忍池に建設されたウォーターシュートが人気を呼びました。この博覧会に塗料を出品して名誉銀牌を受賞しました年代:1907
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治14年に日本の塗料工業の鼻祖として創業した「光明社」の事業を受け継ぎ、現在地に日本ペイント製造株式会社としてスタートしたのが明治28年です。旺盛な需要を賄うために明治42年に建設した油・ワニス工場は、現存する品川区内最古の洋式建築物として保存の要請を受け、明治記念館として昭和56年に開館しました。年代:1909
情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中)
明治中期、生産能力を強化するため、日本ペイント製造株式会社に改組し,明治28年に東京都品川区に東京工場を建設しました。大正14年、時の皇太子大阪行幸に際し、当社大阪工場に侍従を差遣された光栄を記念して、昭和4年に社章:「日の丸印」を制定しました。そして門柱飾りを作成し工場門柱に被せました。年代:1929
情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中)
昭和2年、日本ペイント製造株式会社創立30周年を記念し、定款に規定した営業期間が満期になった機会に、社名を日本ペイント株式会社に変更し、東京および大阪営業所を支店に格上げしました。それを機に工場に掲出された木製表札です。年代:1927
情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中)
工場や事務所では、始業・休憩・終業の合図に保安員がハンドベルを鳴らしながら巡回し、時間を知らせていました。
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ボイル油とは、植物油(乾性油・半乾性油)にドライヤー(金属化合物)を加えて加熱し、乾燥性を増進させたペースト状の油です。塗膜を作る樹脂の働きと塗料を薄める溶剤としての働きをもっています。この製造設備は日産4tで、昭和48年頃まで使われており、その熱源は、石炭→ガスおよび重油→スチームと、時代とともに変化してきました。年代:1909
情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中)
当社の前身「光明社」は明治12年(1879年)鉛中毒を起こさない、亜鉛華を主原料とする「無毒おしろい」(亜鉛華=酸化亜鉛=白色顔料)の製造に成功したのが起業のきっかけでした。その製法は、炭火の上にこの坩堝を置き、その上に素焼きの皿を重ねて砕いた亜鉛の地金を乗せ、溶けた段階で皿を割って中に落とし、それがジューンと蒸発したのを回収するというものでした。年代:1881
情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中)
「錆止め顔料:光明丹」は鉛を高温で溶かし、さらに焼成してオレンジ色に発色させる方法で製造されていました。溶けた鉛の一部は燃料(石炭)の中に弾け落ちるので、冷えたあとにそれらを水を入れた鉢に移して廻し、鉛を分けて回収していました。年代:1881
情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中)
明治から大正時代にかけて、舶来塗料はおもに28ポンド(12.7kg)の丸缶で流通していました。国産塗料工業の鼻祖である当社は、国産品への切り替えを促進するため、使用済舶来容器を再利用し、後には容器をそれらに模倣し、社内で製造していました。年代:1887
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たくさん使われる塗料は、56ポンド入り木製樽を容器としてを販売していました。 品名表示等は天蓋に舶来の塗料を模倣して英語表記していました。年代:1912
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塗料は、顔料・樹脂・溶剤・添加剤で構成されています。これらを細かく砕くため高速回転する上下の石臼の100μm前後の隙間を通します。スピードラインミルは、米国モアハウス社から伝わりました。写真のミルは、同じ方式の国産品です。昭和32年(1957年)から昭和55年(1980年)まで使用されており、一時間あたり2t の粉砕ができました。年代:1957
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回転するローラーの間に材料を入れ、細かく砕く装置をロールミルと呼びます。この方式は明治36年に英国から輸入されました。本機は大正10年(1921年)に製造された特殊雲磐製の国産機で、昭和47年(1972年)までの約50年間使用されました。当時はひとつのモーターからベルトによって数台を駆動させる連動式になっていました。年代:1921
情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中)
東京銀座尾張町にあった山田金庫店特製の金庫、昭和50年代まで使われていました。「改良特許鋼製第1号金庫」と銘記されています。年代:1935
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本田宗一郎が自動車修理工場のアート商会で修行中に、主人の榊原郁三らとともに製作したレーシングマシン。米国ミッチェル製のシャシーに、複葉機カーチス・ジェニーのV8エンジンを搭載。乾式多板クラッチやギヤ類は手作りとなっている。本田宗一郎は榊原郁三の弟・真一が運転するマシンに、点火時期の調整役として助手席に同乗し、大正13年の自動車競技会で優勝した。年代:1924
情報所有館 : Honda Collection Hall
本田宗一郎が第2次世界大戦後、旧陸軍が放出した無線機用小型発電機のエンジンを改造し、補助エンジンとして自転車に装着。エンジンは自転車の三角形のフレームの中に吊り下げられ、Vベルトを介して後輪スポークに取り付けられたプーリーに動力を伝える仕組みで、途中に設けられた手動式のベルトテンショナーはクラッチの役目も果たし、普通の自転車としても使えるように工夫されていた。年代:1946
情報所有館 : Honda Collection Hall