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右手を胸に当ててこころもち顔をあげ、右上方を仰ぎ見て祈りを捧げるポーズをとった豊満な婦人像である。 三菱会社が 朝顔として明治22年英国サンダーランドのJames Laing &Sons造船所で建造され、日本回航後、船体と同色に黒く塗り潰されたらしい。回航後日本郵船に買い取られて朝顔丸となり 日露戦争の旅順港閉塞で自沈した朝顔丸の船首像が残ったのは、出撃前の広島港で取り外されたからであろう。、明治37(1904)年5月日露戦争の旅順港閉塞のため黄金山砲台下で自沈した。年代:明治22年
情報所有館 : 神戸大学 海事博物館
江戸末期に鎖国が解けると、各藩は西洋帆船の建造を始めた。紀州新宮藩主の水野忠興オランダ造船書を訳させて、それに基ずいて三本マストバーク型帆船2隻を新宮で建造した。永らく熊野川口につながれていた。年代:1857年
情報所有館 : 神戸大学 海事博物館
弘化2年(1845)浦賀に来航したアメリカ船と弘化3年鎌倉に来航したデンマーク船に乗船して人物、鉄砲、炊事器具、食料用の豚にいたるまで正確に描かれている。年代:1846年
情報所有館 : 神戸大学 海事博物館
メンデス・ピントは1509年生まれのポルトガル人で有名な旅行家である。1537年頃インドに渡りその後東洋諸国を回り、1558年帰国して旅行記を書き、スペイン王に献じた。1653年に英語で出版された、ポルトガル植民地事情の記録として重視されている。年代:1653年出版
情報所有館 : 神戸大学 海事博物館
John Sairisは1579年に英国に生まれ、東インド会社の艦隊司令になった。1613年に平戸に入港して、幕府との間で通商条約を結び、平戸に英国商館を開設した。本航海記は英国ドーンズ港から喜望峰、日本陸路江戸へ登り、帰国途中のインドネシアまでの見聞記である。年代:1611年
情報所有館 : 神戸大学 海事博物館
特徴的な所蔵航海図と屏風二双を電子データ化して、航海できる状態にしたものである。それらは南海海路図屏風下巻、浪花から長崎までの屏風六曲二双、江戸より長崎道中図巻、仙台伊達藩の開成丸航海図(掛軸)である。年代:2005年
情報所有館 : 神戸大学 海事博物館
所蔵の資料を電子化して、バーチャルとしての資料検索ができるもので、1826年製作の大型航海海路図2件の電子情報と所蔵和船(天照丸)と原油タンカー(Stanvac London)の電子船舶模型である。海事博物館ホームページにアクセスするとこれらの電子資料を検索できるものである。年代:2006年
情報所有館 : 神戸大学 海事博物館
日本ペイント「中興の祖」と称される小畑源之助社長と親交のあった、臨済宗妙心寺派本山の第628世「泥龍窟」:伊澤寛州老師が、昭和15年(1940年)に第2代歴史館の完成を祝して特に揮毫されたものです年代:1940
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治14年(1881年)当社の前身「光明社」は、艦船用塗料の専用工場として創業しました。明治31年、日本ペイント製造株式会社に改組の際、創業に多大のご尽力いただいた海軍の塗工長:中川平吉氏のご恩に報いるため、中川の「中」を小槌に図案化し、「光明社」の「光」と海軍のシンボルマーク「桜」をあしらい、社員の怠惰の心を打ち砕く意味を持った商標を制定しました年代:1898
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
大正14年(1925年)、時の皇太子が大阪に行幸された際に侍従を当社の大阪工場に差遣されました。民間企業を視察いただくことは大変な光栄で、これを記念して日の御子(天皇)・日本国の日・日本ペイントの日をデザインし、世界へ飛躍の夢を託して制定しました年代:1925
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
日本ペイントの前身「光明社」の創業者:茂木重次郎の胸像。明治12年(1879年)、無毒おしろいの原料:「亜鉛華」精製法を開発して以来、塗料の国産化に取り組み、各種塗料やその製法の研究に尽くしました。輸入品を圧倒、輸出振興に尽くした功労により、明治44年1月に緑綬褒章を受章され、これを祝して社員より贈られました年代:1911
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
大正元年(1912年)、37歳の時に営業部長として入社。実業界での経験を活かして頭角を現わし、大正7年には取締役支配人に就任しました。大正9年世界恐慌の余波で窮地に陥った経営を一切任せられて、大改革を実行して建て直されたことから、「日本ペイント中興の祖」と称されました。昭和4年(1929年)緑綬褒章受章に際し、役員一同から贈られました年代:1929
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
中興の祖:小畑源之助翁の次男として生まれ、昭和12年(1937年)当社に入社。昭和19年取締役就任以来経営の刷新に取り組みました。特に世界大戦で奪われた厳父の海外事業への夢を実現すべく積極的に取り組み、グローバル企業への礎を築きました、昭和56年勲3等瑞宝章受章に際し、社員一同からお祝いに贈られた立像です年代:1981
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
当社創業に多大のご尽力があった海軍主船局の中川平吉塗工長が、明治14年(1881年)当社の前身「光明社」創業の年に自ら塗装された塗板見本で、事務所入口に衝立として使われていました。裏面には、艦船営需用塗具一覧として、大理石調・蝋石調・木目調など、30種の変わり塗り見本が貼られています年代:1881
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治から大正時代にかけて、舶来塗料は主に28ポンド(12.5kg)丸缶で流通していました。国産塗料の鼻祖である当社は、市場で馴染まれている缶のサイズにするため空缶を再利用し、シェアが上がってくると同じ容量のブリキ缶を社内でつくりました。缶の内作は昭和のはじめまで続きました年代:1881
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治15年、55歳の時に清国に渡り、てん書・隷書・楷書・行書・草書の各書体を極めたわが国の最初の人で、「書聖」と称されている中林悟竹先生《文正10年(1827)~大正2年(1913)》が、明治18年(1885年)当社役員宅での酒宴で、談論風発、興ずるにおよんで筆を振るわれたもの。木製看板に揮毫されたのは非常に珍しいものです年代:1885
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
光明社時代に外国船の船長から、塗料納入のお礼に贈られ、貴賓室の応接テーブルとして使われてきました。特に下回りの彫刻が凝っており、船首像や船尾像を思わせる深い彫りになっています年代:1897
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
大正9年、大戦後の恐慌のあおりを受けて多くの塗料販売店が窮地の陥りましたが、共存共栄を理念とした小畑源之助社長は、製販一体化の模範的な販売網を整備しました。この本箱は小畑社長が昭和4年緑綬褒章受章の際に、西日本の特約店会「大黒会」からお祝いの品として贈られたもので、長らく貴賓室に置かれていました年代:1929
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
大阪工場の守衛室に大正初期(1912年頃)に設置され、昭和44年(1969年)の保安室移転に伴い、現役を退いたものです。長期間、親時計として構内全域の子時計を制御した標準時計です年代:1912
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
大正~昭和時代、大阪の漫画家界をリードした藤原せいけん氏に描いていただいた創業当時の製造法の漫画をベースに土人形で原寸大で製作したもの。これは、第7図 ”光明丹製造の鉛切りの様子”の再現です年代:1991
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
大正~昭和時代、大阪の漫画家界をリードした藤原せいけん氏に描いていただいた創業当時の製造法の漫画をベースに土人形で原寸大で製作したもの。これは、第4図 ”魚油以外の油の精製法”の再現です年代:1991
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
大正~昭和時代、大阪の漫画家界をリードした藤原せいけん氏に描いていただいた創業当時の製造法の漫画をベースに土人形で原寸大で製作したもの。これは第13図 “ペンキの溶解と濾過作業”の再現です年代:1991
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治14年(1881年)から同30年頃 樹脂と顔料の練り合わせや、溶解色物ペンキ練り用として使用しました。生産能力は1日3人がかりで、28ポンド入り5缶分=約63kg でした年代:1881
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明治41年(1908年)頃よりコーパル(半化石化した植物性樹脂)焚き用として使用した鍋です。1日約20ポンド(9kg)の製造能力でした年代:1908
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
創業者:茂木重次郎は、亜鉛華精製法はじめ研究開発に意欲的で、明治43年(1910年)には、エナメル代用の新塗料を完成し「モテキ塗料」と命名しました。用途の特殊性から200ccの小缶入りが普及しました。代替製品に変わってからもこの容量の缶を「モテキ」と呼ばれました。これは同塗料の看板製作に使った捺染用のブリキ型です年代:1910
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治14年(1881年)の創業当時から、鉛丹製造作業中に火床に飛んだ鉛をコークスと分別し再利用するときに使用しました。また、石搗で粉砕したあと、粒径を分別するときにも使われました年代:1881
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治14年(1881年)から同30年(光明社時代)にペンキの練り合わせ作業に使った鍬です。2尺×3尺(61cm×91cm)角の箱に、1回15貫(56kg)を入れて練り合わせました。年代:1881
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
米国「ANSONIA」社製 30日巻き振り子式ボンボン掛け時計です。ANSONIAは、明治から大正時代にかけて世界を風靡した時計で、このクラシック時計は明治後期に製造されたものです
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
明治14年(1881年)から同39年頃まで、ブリキ製丸缶の蓋や底を作る時、コンパスで描いた円形に沿って刃をあてがい、手で引き回して切ったので、その輪型が残っています。 年代:1881
情報所有館 : 日本ペイント 歴史館
小口丸缶の蓋を製作する際にプレス機に固定した凹型、円形のブリキ平板をプレス成型した後、ハンドルを回わして開いて取り出しました 年代:1901
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