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情報所有館 : 明治大学博物館 

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楽山焼 花瓶

旧松山藩御用窯の系譜を引く窯元で、玉井楽山が継いで三代(1990年逝去)までつづいたが後継は途絶えている。地元では 「天神蟹」と呼ばれるアカテガニの浮彫の柄で知られる、三代藩主松平定長の「あな寒し かくれ家いそげ 霜の蟹」の句に因むとされる。1963年収集 他に盃様の汲出を4点収蔵


四日市万古焼 飾り皿「太金」

江戸中期には淡黄色の素地に色絵という京焼風のものが焼かれ、明治中期からは赤土の胎土による紫泥の煎茶器のイメージが強くなるが、大正期に水谷寅次郎が半磁式硬質陶器を始め、大正焼と呼ばれた。 各治商店(現株式会社各治/三重県四日市市) 1979年収集 他1点計2点を収蔵


有田焼 柿文汲み出し(湯呑)

同社は大正8年(1919)、実業家小畑秀吉が出資し第12代酒井田柿右衛門と共同で設立された。やがて、美術品製造を志向する柿右衛門は昭和3年(1928)に経営から離脱。しかし、角福銘の商標権は同社に残った。そのため、柿右衛門の去った後も、「柿右衛門焼」の名と角福の銘は使用期限が満50年で切れるまで使用された。契約解消を機に仁和窯と名を改め、いわゆる柿右衛門様式の製品を製造したが。本資料は有田ではポピュラーな図柄となったサンゴ色の柿文を用いたもの。柿右衛門焼合資会社 1969年以前の製造。


尾張七宝 彩釉立葵文硯箱

愛知県七宝町及び名古屋市の伝統的工芸品。銅胎に色ガラスを被せて装飾している。文様の区切りに植線を施すのが製法の秘密。この硯箱は国賓向けの特注仕様だが、菊の代わりに尾張徳川家にちなんだ葵の文様を施している。株式会社安藤七宝店 1976年収集


因州山根純楮手漉障子紙

1950年代に入ると和紙生産は急成長する洋紙に圧迫されるようになってきた。そのため、因州和紙の産地では長期低金利で融資を受けられる協業組合の結成が進んだ。山根因州紙振興会は鳥取市青谷町の山根地区で結成された協業組合。1950年代後半には抄紙機械が導入され、手漉きの障子紙はそろそろ見切りを付ける製品だった。山根因州紙振興会 1965年収集


紙布 羽織

仙台藩家老片倉家旧臣の子孫の家に伝来したもの。紙布生産は仙台藩片倉家(白石)が奨励した。細く裂いた紙片を撚った糸で織り上げている。防暑性に優れ、細く撚った糸で織ったものは高級品として扱われた。毛羽立ちがなく染色性がよい。耐酸・耐アルカリ性に優れている。19世紀


甲州印伝 札入れ/蝦蟇口

皮革自体を染め分け、細かい斑状の漆をほどこしている。現在、株式会社印伝屋上原勇七製品をはじめ、よく知られている染皮に型紙を使って色漆で小紋柄を表現した印伝細工よりは前の世代のデザイン。柔らかい鹿皮の補強材として漆をほどこした古式の様式。1961年収集


串木野手織縞 着尺地

鹿児島県串木野市(現いちき串木野市)で生産されていた木綿織物。鹿児島市で藍染を習得した福元金之介が大正期に移住して始めた。後継者がなく1968年(昭和43)に途絶えた。純綿の正藍染。杉並区の民芸品店、いづみ工芸店で購入。福元染織工場 1960年収集


出西織 テーブルセンター

20世紀の初頭、動力織機や化学染料を導入した有力産地の安価な製品に押され、江戸時代以来各地に伝えられた手機織りの生産は止まっていった。1955年、民藝運動の同人外村吉之介の指導によって手織りの木綿織物が出雲の地に復興された。出西手織会(井上佐登子・多々納桂子) 1965年収集 他に藍染の製品1点を収蔵


倉敷緞通 テーブルセンター

昭和初期、花ゴザの粗製乱造による輸出不調を契機とし、外国人の嗜好に合わせた敷物として開発された。和紙を巻いた藺草と木綿糸で編組。民藝の染色家芹沢銈介がストライプ模様をデザインした。岡山貿易協会から購入。日本筵業株式会社 1960年収集 ※他1点計2点を収蔵


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