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アジア新図

地図の収集・出版者として知られるA.オルテリウス(1527-1598)が、1570年に出版した大地図帳「世界の舞台」の中の1図。地図に見る日本の北端には「BANDOVMIA」(坂東)とあって、それ以北はない。なお、「世界の舞台」は、天正遣欧使節の帰国(1590年)にあたって豊臣秀吉への献上品に含まれていたことが記録に残っている。  製作年1570年。


日本島図

オルテリウスの地図帳「世界の舞台」の1595年版に載せられた地図。原制作者は、スペイン王室の地図製作者でポルトガル人のテイセラである。この地図における日本の概形は、それまで西欧で知られていたものからは一新して半島や島々の形が描かれている。地図には、城の絵をかき国名を記している。九州島を「BVNGO」(豊後)と表記しているのは、キリシタンが盛んであった土地によるものであろう。 製作年1595年。


日本図1

地図帳(アトラス)の歴史においてオルテリウスと双璧をなすのはヘルハルト・メルカトール(1512-1594)である。本図はメルカトールの「アトラス」の最新版のために彫られた地図の1つで、1606年ホンディウスによってはじめて出版された。1595年に刊行されたオルテリウス/テイセラの日本図を克明に踏襲している。 製作年1606年。


アジア図

本図の製作者ファン・ロフォムは、銅板彫刻師でパレ・カルディナル(宮殿)の大広間やパレ・ロワイヤルの第一室の銅板刷りなどが残されている。本図は、オルテリウスの「アジア新図」と比べると中国部分が寸詰まりの感があるが、朝鮮は半島として明示されている。日本の形状はテイセラ型である。日本の南に続く諸島が詳しいのが本図の特色である。 製作年1640年。


日本諸島図・長崎から江戸まで

本図は、ダヴェルニエの日本図と呼ばれる。彼は旅行記「6つの旅行」を著し、その中に本図を収録している。本図は、1679年のパリ初版の旅行記集に登場した。長崎出島のオランダ商館長が江戸に参府したときのルートに沿って、土地土地の情報が書き込まれている珍しい地図である。 製作年1679年。


日本帝国図1

本図は六十余州の国名が漢字で書かれている。本図の原典は「流宣日本図」と推定されている。流宣日本図とは、江戸中期の浮世絵師石川流宣(本命俊之)が、浮世絵の木版技術を利用して作成した日本図である。日本の形は歪んでおり、特に東北地方が圧縮されている。蝦夷(IEDS)は、本州から切り離され松前の名が見てとれる。 製作年1719年。


日本帝国新図

本図の手本となったのは、長崎のオランダ商館の医師として来日したケンペルの著作「日本誌」(1727年)に掲載された地図といわれる。ケンペルの日本図には本州島と蝦夷の間に松前が島として描かれ、ティリオンの1728年の日本図にもそれが見えるが、1735年ごろ出版されたとされる本図からは島は削除されていることから、他の図の影響を受けているのであろう。 製作年1735年頃。


日本および朝鮮図

本図の製作者ル=ルージュは、ルイ15世王室の技師・地図学者であった。本図は1748年パリで発刊された「携帯新地図帳」の1葉である。九州島の歪んだ形は流宣図の流れをくむが、シャトラン図のようなレランド型の日本図のずんぐりとした日本の形状と違って、南西-東北にすらりと伸びている。朝鮮半島は異様に大きく誇張されている。 製作年1748年。


朝鮮および日本王国図

本図の大陸部分については、中国清朝の康熙図が使われている。最北方にある「く」の字型の「SAGHALIEN」(サハリン:樺太)は康熙図そのものである。その南で、北部が描かれていない大きな島には「ESO」(エゾ)とあるが、「Prom.Aniwa」(アニワ岬)などからサハリン南部と判る。従って、エゾ北海道とサハリンとが未分化の状態で、2つのサハリンが描かれた地図となっている。なお、当時の日本では、サハリンは「北蝦夷」とされていた。 製作年1749年。


日本帝国図2

このボリューム感ある日本図は、イタリア人地図製作者アントニオ・ザッタの記念碑的な作品4巻本の「世界地図帳」の中の1枚である。東北地方が垂直に伸びているのは、ケンペル・ショイヒツァーの日本図の特徴であるが、それよりも重量感があり「流宣図」の特徴をなお残している。国名と国境、さらに七道の地域区分がされている。イタリア製の珍しい日本図である。 製作年1785年。


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