「生物系特定産業技術研究支援センター 農業機械化研究所資料館」 に対する検索結果 : 18件
情報所有館 : 生物系特定産業技術研究支援センター 農業機械化研究所資料館
前の10件 (11-18/18)
普及型人力手押し刈り取り機。関農具商会(岡山県津山町)製。1925(大正14)年の農林省委託大日本農会の稲麦刈取機の設計図面の懸賞募集に入選、つづいて大正15年の刈取機懸賞募集に入選した。前部の搬送部から送り込まれてくる稲稈は、1枚の鎌状固定刃で刈り取られ、後部の収納箱に収容され、レバー操作により放出される。人力用刈取機は、多くの篤農家・野鍛冶により、様々な形式が開発・利用され、我が国における本格的な圃場農作業機械化の嚆矢となった。年代:1925年
刈り取った稲束をハンドリング単位に束ねる人力結束作業機。大正末~昭和初期、五光技研工業株式会社(愛媛県)製。作物の収穫、具体的には稲の刈り取りとハンドリングは最も重労働であり、人力に依存する時代にも多くの工夫が行われた。誘導アームにより刈り倒し集束した稲稈を抱きかかえ込むようにハンドルを閉じると、縄捻鉤(なわねじりかぎ)と嵌込軸が作用して縄を捻り、嵌め込んで直径5~15cmに結束する。昭和中期のバインダ(稲刈り取り結束作業機)のメカに採用されたが、コンバインの普及により、結束作業行程そのものが消滅した。年代:1925年
一説によれば数千年に渡り利用された脱穀用具。古く中国より伝来。「からさお」、「めぐり棒」、「くるり捧」などとも呼ばれ、竹の柄の先端に横木をわたし、この横木に回転できるようにした堅木(または竹を編んだもの)を取り付け、筵(むしろ)に麦類・豆類・菜種、脱粒性の良い品種の稲などを敷き広げ、これを上からたたいて脱穀・脱莢(だっきょう)する。脱穀は収穫・刈取りに次ぐ重要にして加重な作業である。なお脱粒性の良くない一般的な稲には扱箸が用いられた。
普及末期モデルの千歯稲扱。窪添之助(大阪府堺市)が1902(明治35)年に扱歯の並びを彎曲させ、作業効率を上げて特許を得た。千歯は元禄期に竹製の扱歯で考案されたと伝えられ、漸時扱箸を駆逐し、明治中期から鉄製扱歯が普及した。日本農具製造株式会社(神戸市)で量産、当時の価格は3円で、1911(明治44)年の年産5万挺。朝鮮、南アメリカ、フィリピンにも販売し、同年、帝国農会主催の全国農具展覧会で4等賞受賞。千歯は神事等、少量の脱穀機として現在も一部で用いられている。年代:1902年
現存する最古の足踏み回転脱穀機。福永章一(山口県佐波郡牟礼村)によって考案され1911(明治44)年に特許第19621号を得ている。その後、1913(大正2)年に山口県を除く地での製作販売の権利を西谷繁雄(東京)に譲渡し、西谷が改良を加え、西谷・福永式として販売した。脱穀機の登場によって千歯は消滅に向かう。年代:1911年
広く普及した中期の足踏み回転脱穀機。岡市農具製作所(大阪府北河内郡川越村)の岡市半兵衛が開発製造。1924(大正13)年に実用新案80539号を得ている。架台は鉄製、三角型扱歯は遊動式で、遠心力により扱歯が伸出する機構は独特であり、国内に止まらず満州・台湾・朝鮮などでも販売された。さらに改良が加えられた脱穀機構は、足踏み式から動力脱穀機に発展し昭和末期には自脱型コンバインの心臓部に組み込まれた。年代:1924年
世界初と推定される人力用製縄機。開発した宮崎林三郎は盲人でありながら1905(明治38)年に特許を取得、製縄機の開祖といわれる。1911(明治44)年の帝国農会主催全国農具展覧会に出品し、5等賞受賞。人力用として開発された製縄機は、その後動力に電動機を用いるようになり、昭和中期まで主要な農機具として広く用いられた。年代:1905年
牛馬の牽引力または被牽引作業機の抵抗力を測定する計器。昭和初期、国立の農業試験研究組織であった農事試験場の技師が試作し、改良を加え用いられた。耕鞍の左右に円筒形コイルバネの牽引動力計を取りつけ、上部の糸巻車によって記録紙を巻き取りながら牽引力を記録する。年代:1935年
前の10件 (11-18/18)