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情報所有館 : 日本ペイント 明治記念館(公開中) 

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日本ペイント明治記念館

明治14年に日本の塗料工業の鼻祖として創業した「光明社」の事業を受け継ぎ、現在地に日本ペイント製造株式会社としてスタートしたのが明治28年です。旺盛な需要を賄うために明治42年に建設した油・ワニス工場は、現存する品川区内最古の洋式建築物として保存の要請を受け、明治記念館として昭和56年に開館しました。年代:1909


東京工場 門柱飾り

明治中期、生産能力を強化するため、日本ペイント製造株式会社に改組し,明治28年に東京都品川区に東京工場を建設しました。大正14年、時の皇太子大阪行幸に際し、当社大阪工場に侍従を差遣された光栄を記念して、昭和4年に社章:「日の丸印」を制定しました。そして門柱飾りを作成し工場門柱に被せました。年代:1929


東京工場木製表札

昭和2年、日本ペイント製造株式会社創立30周年を記念し、定款に規定した営業期間が満期になった機会に、社名を日本ペイント株式会社に変更し、東京および大阪営業所を支店に格上げしました。それを機に工場に掲出された木製表札です。年代:1927


ハンドベル

工場や事務所では、始業・休憩・終業の合図に保安員がハンドベルを鳴らしながら巡回し、時間を知らせていました。


ボイル油製造設備

ボイル油とは、植物油(乾性油・半乾性油)にドライヤー(金属化合物)を加えて加熱し、乾燥性を増進させたペースト状の油です。塗膜を作る樹脂の働きと塗料を薄める溶剤としての働きをもっています。この製造設備は日産4tで、昭和48年頃まで使われており、その熱源は、石炭→ガスおよび重油→スチームと、時代とともに変化してきました。年代:1909


亜鉛華製造用坩堝(るつぼ)

当社の前身「光明社」は明治12年(1879年)鉛中毒を起こさない、亜鉛華を主原料とする「無毒おしろい」(亜鉛華=酸化亜鉛=白色顔料)の製造に成功したのが起業のきっかけでした。その製法は、炭火の上にこの坩堝を置き、その上に素焼きの皿を重ねて砕いた亜鉛の地金を乗せ、溶けた段階で皿を割って中に落とし、それがジューンと蒸発したのを回収するというものでした。年代:1881


水簸用木製鉢

「錆止め顔料:光明丹」は鉛を高温で溶かし、さらに焼成してオレンジ色に発色させる方法で製造されていました。溶けた鉛の一部は燃料(石炭)の中に弾け落ちるので、冷えたあとにそれらを水を入れた鉢に移して廻し、鉛を分けて回収していました。年代:1881


内製した28ポンド鉄丸缶

明治から大正時代にかけて、舶来塗料はおもに28ポンド(12.7kg)の丸缶で流通していました。国産塗料工業の鼻祖である当社は、国産品への切り替えを促進するため、使用済舶来容器を再利用し、後には容器をそれらに模倣し、社内で製造していました。年代:1887


木製56ポンド樽

たくさん使われる塗料は、56ポンド入り木製樽を容器としてを販売していました。 品名表示等は天蓋に舶来の塗料を模倣して英語表記していました。年代:1912


スピードラインミル

塗料は、顔料・樹脂・溶剤・添加剤で構成されています。これらを細かく砕くため高速回転する上下の石臼の100μm前後の隙間を通します。スピードラインミルは、米国モアハウス社から伝わりました。写真のミルは、同じ方式の国産品です。昭和32年(1957年)から昭和55年(1980年)まで使用されており、一時間あたり2t の粉砕ができました。年代:1957


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