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初の国産高級石鹸として発売された「花王石鹸」

花王(株)の創業者「長瀬富郎」は、舶来のブランド石鹸に負けない国産ブランド石鹸の創製を決意し、石鹸職人村田亀太郎・薬剤師瀬戸末吉らの協力を得て、1890年10月に桐箱入3個35銭の「花王石鹸」を発売した。ブランド名は顔も洗える高品質を訴求して「顔」に通じる「花王」とし、発売当初から中国大陸等への輸出も考慮に入れ、東洋第一の石鹸にしようと、桜ではなく牡丹をあしらった包装紙にした。


「花王石鹸」発売当初の原料調合ノート

花王石鹸発売当時の原料調合ノート。石鹸だけでなく、その後発売された歯磨・香水・クリームなどの原料調合も記載されている。長瀬富郎は花王石鹸製造にあたり、自身で薬剤師瀬戸末吉から必要な化学知識を習得し、香料・色素など薬剤の調合技術をほぼ完全に吸収している。


瀬戸末吉の薬品調合の技術により製品化された粉歯磨「寿考散」

1891年発売。長瀬商店の発売商品第2弾として発売。袋入り3銭。粉歯磨「寿考散」の外袋は赤で輪郭をとった落ち着いたデザイン、「寿考散」の背景には“まがたま”ふたつが組み合わせてある。寿は長寿を祝うこと、考は老でもあり古来歯の保全が人間の寿命に重大な関係があるものとして名づけられたもの、散は粉のことである。


練歯磨の草分けとして広く愛好された「鹿印練歯磨」

卵型・つぼ型・楕円型の陶器製の容器入りで、高級歯磨「鹿印練歯磨 卵型」10銭)として1893年4月発売。練歯磨の草分けとして広く愛好された。


ニ八水

1900年.初代長瀬富郎が自宅に作業場を設けて自ら研究開発した高級化粧水を発売。容器のデザインも長瀬富郎が考案した。


二代目長瀬富郎のメッセージ「社員諸君に與(あた)う」

1927年12月に22歳で長瀬商会の社長に就任した二代目長瀬富郎は、翌年、欧米視察に出発する。その際富郎は「外遊に際して」「就任の辞」「店員諸君に要求する」の3つを「社員諸君に與(あた)う」の表題で冊子にまとめ、配布した。特に、「外遊に際して」の5つのメッセージは、花王ウェイのバックボーンともいえるものです。


大量生産・大量販売を目指した「新装花王石鹸」

長瀬商店は合資会社長瀬商会へと発展し、二代目長瀬富郎(創業者初代富郎の嫡子)は、花王石鹸の品質改良に着手するとともに、「大量生産・大量販売」をめざしてドイツから輸入されたクーリングプレスやトンネル式乾燥機を採用し、製造工程を近代化した。そして、1931年3月「新装花王石鹸」を発売する。


花王シャンプー

1932年.「シャンプー」と銘打った本格的な洗髪剤を発売した。従来の「髪洗い粉」の荒物屋的イメージを化粧的イメージに高め「シャンプー」という言葉の定着にも貢献した。


月刊「家事の科学」

家事を合理化・能率化する啓蒙雑誌として1937年に創刊。その内容は被服、調理・栄養、育児、衛生・美容、洗濯法など、広く家事全般に及んだ。


家庭用合成洗剤「エキセリン」

1938年(昭和13)7月に発売した家庭用洗剤「エキセリン」は、50匁(約190g)35銭で、ほぼ同時期に発売された小粒洗濯石鹸「ビーズ」(約210グラム10銭)と比べて3倍強の価格だった。それでも折からスフ(ステープル・ファイバーの略称。人造繊維。昭和10年代に木綿の代用品として広く使用された)の生産と需要が急増しつつあったことが幸いして、「もまずに落ちる」,「スフを傷めぬエキセリン」の宣伝も功を奏して売上げが伸長した。


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