「電気の史料館(休館中)」 に対する検索結果 : 300

情報所有館 : 電気の史料館(休館中) 

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ロールスリーブ接続器用 圧縮コマ (8個セット)

ローラスリーブ圧縮機のスリーブ圧延部に装着して使用するもので、電線サイズ別に揃えてある。比較的細い電線に使用していたもの。<使用期間:昭和38年頃> 史料は22~55(70)mm2用のコマである。 圧縮機の使用頻度が上がるとコマの装着部分にガタが生じスムーズなローラー回転をしなくなる。その結果電線の挿入不足やスリーブの湾曲等の不具合が生じた。


ピースジョイント

小型圧縮機がない時代の電線接続法の一つ。左右の筒に電線を差し込み、それぞれ楔で止め、中心の接続管にネジで合わせる。そして、中心部の穴から溶かした半田を流し込み固定する。 大正時代から昭和10年代まで行われた。 楔を用いた銅・鋼電線接続方法の一種である。中心部と左右と楔に分かれており、ネジで止めるようになっている。 左右の筒に電線を差し込み、それぞれ中心を楔で止め、中心の接続管にネジで合わせる。緩み防止のため中心部の穴より溶かしたハンダを流し込み固定したもの。 <使用時期:大正~昭和13年頃> この工具は、心線を通すような矢があり、打ち込む道具もあったが、うまく中心に打ち込まないと後作業が大変であった。 左右の電線をジョイント内部に如何に長く残せるかが重要で、短いと張力に耐えられないし加熱も発生した。 長すぎるとピースが組み立てられずノウハウが必要であった。 両端のピースを合わせてハンダを流し込むときが腕の見せどころで、ジョイントピースを緩めないとハンダが奥まで入らない。しかし、緩めすぎると電線が鈍ってしまい、ピース両端の電線に濡らしたボロ切れを巻き加熱を防いだ。 通常の作業は地上で接続作業をしたが、電線に乗り出して作業をやらざるを得ない場合は、風よけやらハンダ落ち防止のために作業部分をシート等で覆いながらやるので大変であった。 電線接続部


ピースジョイント用ハンダコテ

電線の接続として楔とねじ付き外層により電線を把持し、緩み防止として内部に溶かしたハンダを注入する構造のピースジョイントと呼ばれる接続方法があり、ハンダバリ(はみ出したハンダ)を取り除くときに使用したもの。 送電屋の先人たちは、自分たちで工具や家庭用具等を作成したと聞いており、想像以上に活躍したものと思われる。 <使用期間:昭和30年代頃まで> 実用的に使用した記憶は、添架電話線や独立電話線のジャンパー線接続箇所の開放型接続に蝶ネジ付きの端子があり、通話障害区間発見早期化のために設置してあった。この端子は電線側が筒状のスリーブになっており、電線を差し込みトーチランプで炙りながらハンダを溶かし込むものであった。 この接続をするときにトーチランプと一緒に使用した記憶がある。 送電が保守していた電話線は、2.6mm~3.2mmの単線裸銅線が使用されており、戦後の混乱時期には何回か盗難に合い、銅覆鋼線を使用したこともあった。送電が保守していた電話線も搬送電話や配電柱添架の多芯電話線にとってかわられ、昭和30年代より急速に使用頻度が減り姿を消していった。


猪苗代旧幹線 国産鉄塔部材(腹材)


背負子

・・戦前から昭和40年頃まで山岳地での碍子や電線などの資材運搬に使用されたもの。この史料には、碍子などの丸いものを背負いやすくするための板が取り付けられている。 昭和31年頃、がいし取替の直営作業に頻繁に使用した。 雷によるがいし破損などで懸垂がいし3個、ピンがいし1個程度を背負い鉄塔に昇塔した想い出がある。当時は塩害の発生が多く、塩分測定用パイロットがいしの定期測定時に使用した。 この背負子を背負うと、子供を子守りで背負っていたころを思い出し、懐かしく感じたこともあったが、作業時は、子守りと違い、とても重労働に感じた。 <使用期間:昭和31年頃~昭和40年頃> ・建設・保守用具


昇柱器

木製の送電柱や配電柱を昇降する際に使用した。展示品は1941(昭和16)年頃、社員が自費で鍛冶屋に製作してもらったもので、値段は5円であった。昭和40年代に入り足場釘が取り付けられるようになると、使われなくなった。送電線・配電線・通信線などに使用されていた木製電柱に昇る際に足に装着し、爪を木柱に突き刺しながら使用したものである。先人たちは鍛冶屋で自分の足に合ったものを作成してもらい、爪先は常に研ぎ上げ、日本刀の切っ先のように鋭敏に保っていたと聞いている。<使用期間:昭和30年代> 昭和30年代に通信線の保守で頻繁に使用された。通信線にはステップボルトがまったくなく、川横断などの継柱されている電柱は高さもあり、手を回すのに骨の折れるほど根本が太く、昇柱は体力と技能が要求された。万一こけると電柱に抱きつくため、手から顔面から腹から電柱のささくれとクレオソートで紅顔の美青年も台無しであった。建設・保守用具


佐久発電所 機銃掃射により被弾したサージタンク部材 屋根部分

・1945年7月、佐久発電所のシンボルであったサージタンクは、グラマン戦闘機の機銃掃射を受けた。被弾個所は50にも及んだが、職員一丸となって10日間で修理を完了、日本発送電本社から感謝状と15日分の給料に相当する金一封を贈られた。


佐久発電所 機銃掃射により被弾したサージタンク部材 本体部分

・1945年7月、佐久発電所のシンボルであったサージタンクは、グラマン戦闘機の機銃掃射を受けた。被弾個所は50にも及んだが、職員一丸となって10日間で修理を完了、日本発送電本社から感謝状と15日分の給料に相当する金一封を贈られた。・水力発電、水力発電所、サージ、群馬県


再生碍子

国家総動員体制への移行にともない、昭和13年(1938年)には物資総動員計画が実施され、鋼材や銅などの原材料から機械、食料にいたる物資が軍需優先に統制された。史料は、鉄類が不足したため撤去碍子の磁器部分を破壊し鉄の部分(キャップ)を再利用した日本碍子製のクレビス型懸垂碍子。皇紀による製造年表記(紀元2599年=1939年)が戦時色の強まりを示している。懸垂がいしには各種の形があるが、大別するとクレビス形(当がいし)とボールソケット形の2種類に分けることができる。我が国の場合、引張強度が12000kgf以下のものについてはクレビス形を使用し、12000kgfを超えた場合は、引張強度に合わせた階級のボールソケット形が使用されている。懸垂がいしの磁器は、耐アーク性の良いアルミナ含有磁器とする。懸垂がいしの色はライトグレーを原則とするが、区分色として茶色を使用する。連結個数が10個を超える場合、アース(鉄塔側)から10個目ごとに茶色を使用する。ただし、環境調和を特に必要とされる箇所では、基準色を茶色ネイビーブルーあるいは、その逆の使い方をする。皇紀は日本の紀元を日本書記に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年)を元年として起算したもので西暦2000年は皇紀2660年にあたる。


千葉火力発電所(千葉県) 1号タービン発電機

・戦後の復興期の急増する電力需要に対応し、戦争で立ち遅れた技術を取り戻すために、アメリカ・GE社から輸入した大容量新鋭火力の1号機である。世界的に見て当時の最新鋭機であり、蒸気条件の高温・高圧化および再加熱方式の採用による効率向上、スケールメリットをめざした単機出力の大容量化、自動制御装置による中央制御方式など、随所に新技術が導入されていた。・蒸気タービン<形式/串型複流再熱衝動型> <出力/125000kW> <回転数/3000rpm> <蒸気温度/538℃> <蒸気圧力/127kg/cm2> <排気圧力/722mmHg水銀柱絶対圧力> ・発電機<形式 /水素冷却回転界磁型> <出力/3相 50Hz 160000kVA> <電圧/15kV> <冷却/2.0kg/cm2水素圧/35℃冷却水>


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