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情報所有館 : 電気の史料館(休館中) 

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東京市電気局のマンホール蓋

東京市電気局は1911(明治44)年に発足、電気軌道事業(いわゆる市電)と電気供給事業を行った。マンホール蓋中央円形部に電気局のマークがデザインされている。


東京電力のマンホール蓋

1960年代なかばまで使用されていた東京電力の旧規格のマンホール蓋。中央円形部に旧東電マークがデザインされている。 東京電力旧規格のマンホールは、蓋センターのデザインが「稲妻マークと東電」「六万ボルト地中送電線」「東京電力地中電線路」「稲妻マーク」と変遷しており、「稲妻マークと東電」は昭和35年頃まで、「六万ボルト地中送電線」は昭和28~35年頃まで、「東京電力地中電線路」昭和35~45年頃までにそれぞれ製作され、「稲妻マーク」は昭和45年から現在の「TEPCOマーク」の適用された昭和63年まで東電規格として製作され使用されている。


角形マンホール蓋

初期には角形のマンホール蓋が少なくなかったが、作業時にマンホール内に落としやすいこと、破損しやすいことなどから次第に円形が標準になっていった。これは、東京市電気局(1911~1942年)のものと推測される。 現在の地中送電用マンホール蓋の形状は円形が標準となっているが、当時は矩形のものが多かったようである。矩形の蓋は取り扱いにくく、開閉作業時にマンホール内に落としケーブルを損傷する恐れがあり、また破損し易い等から、円形か蓋が標準となった。 東京市電気局(明治44年8月発足、昭和17年4月電気供給事業を関東配電株式会社に統合)


煉瓦マンホール(レプリカ)

・マンホールは地中線の点検や保守のために地中に設けられた設備である。地中線の布設に管路引込式が採用されるようになるのは大正時代に入ってからであるが、マンホールの設置が始まったのもまたその頃と推定される。展示品は、1925(大正14)年に作られた煉瓦造りのマンホールのレプリカで、現物は東京・浅草で現在も使用されている。


地中線接続用工具 オイル鍋

・10mm、20mm幅等小幅のオイルペーパー(絶縁紙)を温めてペーパー内の湿気を除去するために使用した。 厚さ1.2mmの銅版製の鍋で、絶縁油を8分目程度入れ120℃以上の温度にならないよう油温管理するとともに、内部にごみ等が入らないよう使用時以外は蓋をする等配慮した。 地中線の接続と工具 22kV地中線ケーブルの接続作業に使われていた接続工具である。一部のものは現在も使用されている。 接続の主な作業 ●導体の接続 22kV以下のケーブルの導体の接続は半田付け方式で行われた。 導体を銅スリーブで接続し、炉にかけた半田鍋で溶かした半田を半田杓子でスリーブ上にかけて密着させた。路上で溶解した高温な半田をマンホール内におろしての作業なので慎重に行われた。 ●絶縁被覆 オイル鍋にオイルペーパーを入れて暖め、ペーパーの湿気を除去し、胴体の上に巻いて絶縁した。 ●鉛被覆 ケーブル接続部を密閉するために、鉛管で被覆した。接続部に鉛管をかぶせてドレッサーで接続ケーブルの鉛被へ円錐状になるようかしめ、トーチランプで半田付けした。


地中線接続用工具 五徳

地中線の接続と工具 22kV地中線ケーブルの接続作業に使われていた接続工具である。一部のものは現在も使用されている。 接続の主な作業 ●導体の接続 22kV以下のケーブルの導体の接続は半田付け方式で行われた。 導体を銅スリーブで接続し、炉にかけた半田鍋で溶かした半田を半田杓子でスリーブ上にかけて密着させた。路上で溶解した高温な半田をマンホール内におろしての作業なので慎重に行われた。 ●絶縁被覆 オイル鍋にオイルペーパーを入れて暖め、ペーパーの湿気を除去し、胴体の上に巻いて絶縁した。 ●鉛被覆 ケーブル接続部を密閉するために、鉛管で被覆した。接続部に鉛管をかぶせてドレッサーで接続ケーブルの鉛被へ円錐状になるようかしめ、トーチランプで半田付けした。


地中線接続用工具 ファイヤーポット(炉)

・半田鍋・コンパウンドの溶解、オイルペーパーの温め、半田ごての焼き付け等に使用し燃料には木炭を使用していた( ~昭和40年代、現在はガスバーナーを使用) 木炭は一回の接続作業で1/2~1/3俵を使用した。 ・上部より200mmの位置に木炭を乗せるロストル、半田コテ焼き付け用の上窓口、通風用の下窓口、内側上部にはコンパウンド缶を乗せる台金を溶接したものを備えている。 ・作業工程に合わせて半田鍋→オイル鍋→半田こて→コンパウンド缶等作業を進める上で機能的な役割を果たしたが、この役割を果たすために、接続作業の進み具合を見ながらタイミングよく準備していく、手元作業員の労苦の積み重ねを忘れることは出来ない。 ・火の粉や灰が接続作業しているところに飛散しないよう、ファイヤーポットは必ず風下に置くことも要領のひとつだった。 地中線の接続と工具 22kV地中線ケーブルの接続作業に使われていた接続工具である。一部のものは現在も使用されている。 接続の主な作業 ●導体の接続 22kV以下のケーブルの導体の接続は半田付け方式で行われた。 導体を銅スリーブで接続し、炉にかけた半田鍋で溶かした半田を半田杓子でスリーブ上にかけて密着させた。路上で溶解した高温な半田をマンホール内におろしての作業なので慎重に行われた。 ●絶縁被覆 オイル鍋にオイルペーパーを入れて暖め、ペーパーの湿気を除去し、胴体の上に巻いて絶縁した。 ●鉛被覆 ケーブル接続部を密閉するために、鉛管で被覆した。接続部に鉛管をかぶせてドレッサーで接続ケーブルの鉛被へ円錐状になるようかしめ、トーチランプで半田付けした。 地中送電,地中線,建設・工事概要


箱根水力電気会社(神奈川県) 塔之沢線鉄塔

・1909(明治42)年に箱根水力電気会社が箱根町に建設した塔之沢水力発電所 (出力3300kW)の電力を、横浜の保土ヶ谷変電所まで亘長58km、電圧44kVの2回線で送電した鉄塔で、アメリカの設計技術により建設された。従来、送電線には木柱が使われ、河川横断部などで部分的に鉄塔が用いられていたが、全線にわたって鉄塔が採用されたのは、この塔之沢線が最初であった。当時、日本では鉄塔、碍子、電線等の材料は主にアメリカより輸入し外国に依存して建設してきた。 ・鉄塔番号/塔之沢線No.37 ・鉄塔重量/1540kg ・鉄塔高さ/14.68m(地上高) ・碍子/60号ピン碍子 ・電線/硬銅より線(HDCC)55mm2


鬼怒川水力電気(栃木県) 鬼怒川線バンザイ鉄塔

・1911(明治44)年に鬼怒川水力電気が栃木県の鬼怒川温泉に建設した下滝水力発電所(出 力37500kW)の電力を、東京市電へ供給するため、尾久変電所まで亘長124km、電圧66kVの2回線で送電した鉄塔。アメリカの設計技術により国産材料を用いて建設された。用地補 償の軽減のためになるべく幅員(最外側電線間の幅)を狭くすることや、電線の正三角形の配置を維持することなどから特殊な形の設計となり、人間がバンザイをした形に似ていることから「バンザイ鉄塔」と呼ばれた。 ・1918年にはこの送電線を使って,世界初の電力線搬送通信の実運用試験が行われた。 ・鉄塔番号/鬼怒川線No.865 ・鉄塔重量/2324kg ・鉄塔高さ/13.40m (地上高) ・碍子/60号ピン碍子 ・電線/硬銅より線(HDCC)200mm2 ・明治時代、鉄塔、バンザイ鉄塔、送電線、支持物、アメリカ、架空線、鬼怒川、送電


ピン碍子(66kV用)

通信・配電線に使用される小形のものから、送電に使用される大形のものもある。大形のものは、笠状の磁器片をセメントで接着して製作するもので、そのため製作上の制約を受け、機械的強度にも限界があった。 大正2年当時建設された60kVの線路に主力がいしとして使用され、高度成長期の送電大容量化に伴い昭和40年代後半の建て替え工事で、随時、現在のがいしに取替られていった。<使用期間:大正~昭和40年頃>


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