「電気の史料館(休館中)」 に対する検索結果 : 300

情報所有館 : 電気の史料館(休館中) 

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22kV 3×150mm2 HZケーブル (筍形サンプル)

22kV3芯150mm2 H形紙絶縁クロロプレン防食ケーブルである。 (Hochstadter type Lead and neopren sheathed cable) 導体上に絶縁紙を巻き、その上に金属遮蔽テープを巻いた線芯3芯を、撚添えジュートと共に撚り合わせた上に金属帯を巻き付け、乾燥浸油して鉛被を施した上にクロロプレン防食をしたものである。導体を扇形としてケーブル外径を小さくしている。 Hケーブルは、ベルトケーブルの欠点を補うため芯線絶縁層の上に金属テープを巻いたもので、1913年(大正2年)に発明され、我が国では1926年(大正15年)より製造された。 このケーブルは発明者のドイツ人Hochstadter氏の頭文字をとってHケーブルと名付けられた。 Hケーブルは、SLケーブルに比して外径が小さくなるが、電気的ストレスはかからないとはいえ撚添部を持っているためケーブルの通電による温度上昇に起因し油の粘度が下がり、高低差がある部分で絶縁油の流下が起こり、絶縁性能がやや不安定な嫌いがあるため、使用区分を限定しながらも比較的多く使われた。しかしながら、近年はCVケーブルに殆ど置き変わっている。 なお、Hケーブルの防食ケーブルは鉛被の腐食防止のためのもので、昭和20年代後半から 使用された。


22kV 3×100mm2 鋼帯鎧装SL紙ケーブル (文鎮形サンプル)


66kV  1×300mm2 OFLLケーブル 大師線 (文鎮形サンプル)


東京電燈株式会社 熱海変電所 日本最古 66kV 単心 126.7mm2 油浸紙ケーブル (文鎮形サンプル)

66kV 単芯 126.7mm2 OF(Oil Filled)ケーブルである。 1928年(昭和3年)に当時の東京電燈株式会社が熱海変電所に我が国初に布設した国産ケーブルである。 当時、熱海変電所に布設された66kVケーブルは、容量3000kVA 亘長445m 2回線で1回線がOF式で残りの回線はH型ソリッド式であった。ケーブル布設ルートは高低差136m、下部で最大31度の急勾配部を含む傾斜地で中間に接続部をおいて、 直接埋設された。 絶縁体厚さは16.5mm、鉛被厚3.3mm(ケーブル外径65mm)で、充填絶縁油は粘度の高いものが使われた。また、鉛被補強層として硅鋼線φ2mm及び硅銅テープ0.8mmの2種類が使われた。 このケーブルは、その後66kV以上の地中送電ケーブルの主役となったOF(油浸絶縁)ケーブルの原型となった他、布設技術ともに当時としては、世界的に画期的なものであった。 送電、ケーブル、サンプル、一号機,電力ケーブル


ヒューム管

日本電力(1919~1942年)で地中ケーブルの管路として使用されたヒューム管。


66kVケーブルヘッド

1928(昭和3)年、東京電燈熱海変電所で導入された日本最初の66kV地中ケーブルのケーブルヘッド。


66kV単心紙ケーブル中間接続部

1928(昭和3)年、東京電燈熱海変電所で導入された日本最初の66kV地中ケーブルの中間接続部。 当時、熱海変電所に布設された66kVケーブルは、容量3000kVA 亘長445m 2回線で1回線がOF式で残りの回線はH型ソリッド式であった。ケーブル布設ルートは高低差136m、下部で最大31度の急勾配部を含む傾斜地で中間に接続部が設置された。 本接続部のケーブル金属シースと接続部銅管との接続方式は、現在と変わらない鉛工であるが、銅管と銅管の接続は現在のフランジ接続とは異なる鉛工となっている。また、コネクタ取付位置も現在は上下に配置しているが同一方向の配置となっている。 この接続部は、その後66kV以上の地中送電ケーブルの主役となったOFケーブルの中間接続部の原型となった。 国産単芯OFケーブル。


東京電燈のマンホール蓋

東京電燈のマンホール蓋は戦後も引き続き使用され、1970年頃まではよく見られた。中央円形部に東京電燈のマークがデザインされている。 東京電燈株式会社(明治19年7月開業、昭和17年3月解散)が所有していたマンホール蓋で、昭和40年代半ばころまでは都区内の旧東京市15区内(現在の港区、新宿区四谷・牛込、文京区小石川・本郷、台東区下谷、浅草、江東区本所・深川、中央区日本橋・京橋、千代田区麹町・神田)でかなり見られ、現在でも希に見ることがある。中央円形部に東京電燈マークがデザインされている。 東京都区内に敷設されている東京電力地中送電線用マンホール蓋(配電単独設備は含めない)は約13500個(平成12年12月現在)が存在し、この中には昭和26年5月の東京電力発足時以前の東京電燈・東京市電等から引き継いだ蓋も含まれており、これらの蓋は道路工事やマンホール改修工事等に伴って新しい規格仕様のものに取り替えられているが、時代の流れと変遷を染み込ませて所々で現役として立派に役割を果たしつづけている。ちなみに、日本国内電力会社の地中送電用マンホール蓋の歴史は、ある文献によるとケーブル敷設方式は直埋め方式であったものが、大正時代の初期から管路方式が次第に普及され始めたとされている。


日本電力のマンホール蓋

日本電力は関西地方を中心に事業を展開していたが、1929(昭和4)年に東京の一部への電気供給権を獲得したため,当時は東京でも同社のマンホールが見られた。 日本電力(大正10年6月創業、昭和17年4月関東配電株式会社に統合)が所有していたマンホール蓋で、大正14年に東京府豊多摩郡(現在の新宿・渋谷・目黒区方面)に限っての電力供給許可を受け、昭和4年9月には東京府南葛飾郡(現在の江東・墨田区方面)、南足立郡(現在の足立・葛飾区方面)、北豊島郡(現在の荒川・北区方面)の供給権を獲得し、電力事業を行っていた。現在の東京電力渋谷変電所の位置には日本電力の変電所が存在し、この変電所から旧サッポロビール工場(現在の恵比寿ガーデン)方面への地中ケーブルが敷設されていたようで、この旧ビール工場近くの渋1号マンホールに使用されていた鉄蓋で平成2年頃現在の規格品に取り替えられた。なお、渋1号マンホールは恵比寿ガーデンの建設工事の関係で撤去され現在は存在していない。


「東力」のマンホール蓋

大正時代末、東邦電力が関東進出の足がかりとして創立した東京電力(略称、東力)は関東を舞台に東京電燈と激しい需要家争奪戦を繰りひろげたが、1928(昭和3)年、東京電燈に吸収合併された。 旧東京電力(東力:大正14年3月創立、昭和3年4月東京電燈株式会社に合併)が所有していたマンホール蓋で、大正15年に東京府南葛飾郡(現在の江東・墨田区方面)、北豊島郡(現在の荒川・北区方面)、南足立郡(現在の足立・葛飾区方面)への供給権を獲得し、昭和2年からこの地域への送電を開始した。この蓋は開閉用のトッテがあるのが特徴で、 東京電力江東電力所近くの国道14号線に架かる松代橋左岸の上り線側歩道に設置されていた城8号マンホールに使用されていたが、平成7年頃の道路工事に伴いマンホールとともに撤去された。 このマンホールは昭和のはじめ頃建設されたものと推測される。


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